見出し画像

昭和の名古屋で育った幼児期

わたしが生まれた頃は父は愛知県庁の税務課に勤めていました。家の前が市電の停留所、父は33番 東新町 の電車に乗って通勤していました。わたしは言葉を早くから話し始め1歳半で100曲歌っていたそうです。

でも歩けるようになったのは遅く1歳9ヶ月だそうです。抱き癖がつくと祖母が厳しく抱いてもらわなかったのでハイハイも遅く仰向けに足を使って移動していたそうです。

画像1

この写真は弟のお宮参りの日に撮ったものなので、わたしが1歳10ヶ月の頃です。やっと歩けるようになったので、両親も安心していたと 思います。わたしが持っている幼児期のたった一枚の写真です。

祖母が厳しく耳が見えないといけないと言われ、祖母が生きている間はずっと隣の理容院でカットしてもらっていました。部屋数がある家を大家さんから借りていました。下宿屋をやっていて6畳の南の洋間には若い女性が2人で住んでいました。2階の部屋です。4畳半の2つの部屋には、それぞれ若いお兄さんが住んでいました。

両親とわたしと弟は北側の4畳半が寝室でした。裏にも借家があり、物干場で繋がっていました。裏の2階には片桐さんというお婆さんとお姉さんが2人住んでいてその下の階には坂本さんという家族が住んでいました。一番上がお兄さんでその下にお姉さんと末っ子のまあちゃんが住んでいました。お姉さんは市電に轢かれたことがあります。

裏の家までは路地になっていて、そこでお兄さんたちがショウヤをやっていました。名古屋ではメンコのことをショウヤと言います。

今はファミマになっているところは、その前はデニーズで、更にその前は昭和区役所がありましたが、幼い頃は広い空き地でみんなが凧を飛ばしていました。

3歳の時に伊勢湾台風があり、その日のことは朝からずっと記憶にあります。最初は向かえのタクシー会社に避難しましたが、そこでも危険だとわたしと弟は父に連れられて恵方町の叔母が住む市営住宅に避難しました。弟は父に抱かれていましたが、わたしは黄色いカッパを着ていました。その日に着ていた服のことや従兄弟たちとどんな会話をしたかも鮮明に覚えています。

風が止み帰って来ると母が家が大きく揺れて壁が3つ抜けたと言っていました。4畳半の天井は吹き飛ばされていて夜空が見えました。その後屋根屋さんが修理に来た日のことなど色々な記憶があります。

2階の6畳のお姉さんたちがいなくなってからはベッドを置いていました。畳むと2つのソファーになるベッドです。その頃は家族団欒もありました。美人のお母さんが好きでした。

祖母は酷く母を虐めていました。母は働き者で洋裁と和裁をしていました。祖母と一緒に仕立て物をしていて、たちばんが2つありました。

赤ちゃんの時も忙しいのでテレビの前にわたしを寝かせてテレビに子守りをさせていたそうです。わたしはテレビの番組を全部覚えていて番組表代りに何がやるか訊かれていたのを覚えています。

幼稚園はカトリックの桜山幼稚園に通っていました。近所のひとし君も一緒でした。ひとし君は長男で妹がいて、よく家に遊びに行っていました。一緒にブランコに乗っている写真もあったのですが実家から持って来ていないので捨てられてしまったかもしれません。

幼稚園ではリトミックが一番好きでした。次に好きなのが粘土で物を作ることです。毎年劇がありました。わたしとふくちゃんとよしえちゃんがいつも目立つ役をやっていました。もう一人男の子がいましたが、もう名前を覚えていません。

全ての劇の全員分のセリフを覚えていて舞台の袖でプロンプターをしていました。今でも自分のセリフは覚えています。ふくちゃんが早く美しくなりたいなというもみの木で男の子が早く大きくなりたいなと言います。わたしは最後に早く立派になりたいなと言うのですが、女の子なのに立派になりたいなと言うのが嫌で家で泣いていました。

七匹の子山羊ではよしえちゃんがお母さん山羊でふくちゃんは時計に隠れる末っ子の山羊。わたしはオオカミと交渉する一番上のお姉さん山羊でした。オオカミは早く大きくなりたいと言った男の子がやっていました。

夏休みは弟とセミ取りをして遊んでいました。弟は視力がいいのですがわたしは視力が悪く弟に見つけてもらっていました。

テレビっ子で鉄人28号とかポパイを見ていました。少年探偵団や祖母の好きな時代劇も見ていました。当時はまだ白黒テレビでした。もう少し大きくなってからですがオリンピックでアベベが走るのも見ました。

父がSONYのテープレコーダーを持っていて習っていた民謡を三味線を弾きながら録音していました。わたしは父に内緒で自分が歌うのを録音して父の大事な録音を消してしまったこともあります。

家の前の道路が拡張工事で庭が無くなってしまいました。歩道で三輪車を飛ばして遊んでいました。その頃フラフープが大流行していてお姉さんやお兄さんたちが持って皆やっていました。ツイストも流行っていました。

思い出は尽きないです。環状線を挟んだ向い側には児童公園があって毎日遊んでいましたが岡崎信用金庫になりました。今では岡崎信用金庫も無くなり駐車場になっています。

子どもたちが集団で群れをなして遊んでいた時代が懐かしいです。年齢が違う子も一緒になって遊んでいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?