九州古代縄文文明の謎
(今回はちょっと長めです。)
南九州の鹿屋市南部にあるウガヤフキアエズ御陵である吾平山上陵(あいらのやまのえのみささぎ)や都城市南部にある檍神社、そして7000年前に起きた鬼界カルデラ噴火や高千穂峰噴火と、古事記における神話との関連についての考察が一段落しました。
いやはや軽く10年以上も要しました。
そして最近、次の新たな謎に注視しています。
それが高千穂峡の西エリアです。
高千穂峡には天孫降臨神話や、天岩戸神話があります。
いずれも古事記の重要な神話で、天孫降臨神話はこの世界の創造主がこの世界を創造して地へと降りてきたという伝承。
そして天岩戸神話は、天照大御神が須佐之男命が起こしたあまりにも横暴な暴力的騒ぎに怒り、岩屋へ身を隠し、その後、岩屋から連れ出されて世界に光が戻るという伝承です。
以前の記事でも述べたように、私は、天岩戸神話は鬼界カルデラ噴火や高千穂峰の噴火によって世界が暗くなり、太陽が顔を出して平穏な時代がやってくるまでの出来事を神話化したものであると分析しています。
つまりこの神話の元祖はやはり鹿屋市南部にある吾平山上陵(ウガヤフキアエズの御陵)にあり、御陵に似ている鵜戸神宮がウガヤフキアエズを祀るのと同様に、後年になって同じく御陵とよく似ている立地の天岩戸へその神話が移動したのであると考えています。
高千穂峡自体は遥か以前から(推定1万年以上前)から神域として祀られていたものの、天岩戸神話は鬼界カルデラや高千穂峰の噴火がほぼ完全に終息した3000年前あたりに吾平山上陵付近で起きたことが神話として作られ、その後、神武天皇の東征によって勢力を広げる中で、高千穂峡へ神話が移動して付け加えられたと思います。
そして天孫降臨に関しても全く同じ考えです。
天孫降臨の元祖は高千穂峰であり、ここでの噴火の様子が天孫降臨の神話となり、その後、高千穂峡へ移動したと考えます。
天孫降臨神話では高千穂へ神々が下る(もしくは天へ上る)時に、天へと続く道ができたとあります。
高千穂とは、大地に稲穂が広がる豊かな幻想の地を意味するのですが、高千穂峰の山頂は火山活動によってススキ以外に目立つ植物がほとんど無く、これはその当時からほとんど変わらぬ風景だろうと思われます。まさに神話の高千穂の風景が山頂付近に広がります。
では天へと続く道は何でしょう。
専門家の中にはこれを虹だと分析する人もいるようですが、絶対にそれはありえません。
何故ならいつも私がしつこく述べているように、この時代の「神」とは「畏怖」の存在なのです。
虹という発想は完全に欧米の明るく平和な天国思想であり、縄文世界ではあり得ません。
考えてみてください。
恐怖の7000年前の鬼界カルデラ噴火から、3000年前くらいにほぼ完全に終息するまで噴火期間が断続的とは言え4000年間もあるのです。
4000年間の恐怖。
そこに天国のようなハッピーな世界を見ることができるでしょうか。
この写真は鹿屋市側から撮影したもので、50kmほど離れた桜島の噴火と噴煙を捉えたものです。
天孫降臨神話の天へと続く道、それは当時頻繁に噴火していた高千穂峰の噴煙であると、私は考えます。
もちろんその噴火はこの写真のように小規模なものではなかったと思いますので、もっと遠くから強烈な恐怖として多くの縄文人が目撃したはずです。そして激しい噴火の際には現在の桜島でも目撃されますが、強烈な稲光が山頂付近に次々と発生します。これが神話に登場する「鉾(ほこ)」を現わしていると私は分析しています。
この高千穂峰エリアは日本で最多雨量を誇り、もしも噴火の際に雨が降っていれば、縄文人の上に相当な量の「泥」が降り注いだことでしょう。
神々の天地創造による、混沌とした恐るべき世界。
神が現れるとき、それは強烈な畏怖を縄文人に植え付けたことでしょう。
私は長年、この高千穂峰こそが世界に散らばるピラミッドの元祖ではないかと思っていますが、まぁさすがに現状では妄想だと切り捨てられるでしょう。しかし、半分は本気でそう思っています。
さて随分と話が逸れましたが、閑話休題、では何故冒頭で述べたように高千穂峡の西エリアに私が注目しているかと言うと、状況から考えて、必ず縄文時代の大きな集落か、またはもう少し後の強大な国家があったと思われるからです。
確かに天孫降臨神話や天岩戸神話は、間違いなく九州南部から移動してきたものであると思いますが、高千穂峡自体はそれよりもはるか以前、つまり1万年以上前から信仰されていた可能性が高いからです。
継続的に高千穂峡が信仰の対象となるためには、継続的に訪れる者がおり、そして祭事が行われていたはずです。
そうなると高千穂峡へ通うことができるのはどこか?それが問題になります。
以前も別記事で述べたように東の宮崎県側はありえません。あまりにも急峻で河川が多く、移動が極めて困難であるためです。そうなると高千穂峡の西から北のどこかになるわけですが、北には九州でも最高峰に近い祖母山があるため、やはり北は無いでしょう。
残る阿蘇山方向の北西エリアには可能性が十分あります。
阿蘇カルデラ内で実際に古墳などもいくつか見つかっているようです。
しかし、私はあえて高千穂峡の西側に注目しています。
1つ目の理由は、私ならこの注目エリアに居住するだろうと思うからです。
私は現地調査をすごく大切にしていて、その現地を訪れて当時の縄文人の気持ちや、実際の地形などを見て総合的に考えます。これはほとんど証拠が無い以上、当時の人の考えや行動を追うのに重要なことだと思っています。
阿蘇ではないと判断したのは、移動が不便だと感じたからです。阿蘇の外輪山だけでも阿蘇カルデラ内部と高低差が500mくらいあり、それを越えて行き来するのはかなり大変だと思いました。
それに少しばかり高千穂峡から遠い。
2つ目の理由は、地図を見たときにも感じますが、この地域は特になだらかで、しかも河川が多く水が豊富、そして周囲を樹木が覆い木の実などが豊かであること。
山間部の縄文人が生きていくことを考えると、これだけの樹木がなだらかな地形に生い茂っていれば、きっと木の実の収穫も楽だったでしょう。
3つ目は、遺跡や古墳がほとんど何も発見されていないこと。
これはかなり違和感を感じます。つまりそのほとんどは未だに埋没しているのではないか。ゆえに全く検証が行われていないのではないか。
4つ目は、日本最古、1万年以上前から存在すると言われる幣立神社が注目エリアのど真ん中に鎮座していること。
なぜこんな場所に、と思うのが普通です。
そして重要なのが5つ目。
この地域の南に「スクナ原(ばる)」という地名があること。
私はかねてから、このスクナ原のどこかに遺跡が埋没しているのではないかと疑っています。
スクナとはみなさんが良く知っている両面宿儺ではありません。
両面宿儺はもっと遥かに後の世で、恐らく仏教思想が融合した5世紀くらいの神です。
このスクナという地名のもとは両面宿儺ではなく、古事記に出てくる少名毘古那命ではないかと思うのです。
少名毘古那は大国主命(おおくにぬしのみこと)とペアで、日本を創造した元祖の神です。超大物の神です。
少名毘古那は遠く果ての世界からやってきて、大国主命に協力し、その後、再び果ての世界へと帰っていったとされています。
まるで宇宙人です。
そして少名毘古那は物凄く小さな体だったとされています。
やっぱり宇宙人です。
日本語の「少ない」という言葉は、少名毘古那の体が小さかったことからきているとされています。
話を戻して、ここにスクナ原という特殊な地名があることが、幣立神社の存在と合わせて、どうしても偶然だとは思えないわけです。
このスクナ原のどこかに重要な遺跡か古墳があるのではないか、そんな妄想を持って、現在この地域に注目しているわけです。
古事記の天孫降臨神話の元祖はあくまで南九州の高千穂峰であると前述したのですが、後にここの地域に天孫降臨の神話が移動してきて融合した最大の理由が、この少名毘古那と大国主命による日本創造と関連しているからではないかと思っています。
いずれも世界創造の話ですよね。
似ているため、長い年月で混ぜこぜになった可能性があります。
そんなわけでとっても気になるこの地域。
今後、何か面白い発見があればいいなぁと願っています。
[ おしまい ]
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?