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邪馬台国の捜索に関して、ぜひ知っておくべきこと

 纏向まきむく遺跡などの発見によって、近年、邪馬台国やまたいこく論争が再び過熱しているようです。
 様々な意見があり、それらをひとつずつ読んでみて思ったことがあります。
 それは邪馬台国論者の多くが、基本的な問題をそもそも理解していないということです。これは恐らく専門家であっても、多くの人がそれを理解してないのだろうと思います。
 今回は、あまり理解できていないと考えられることに関して、簡単に紹介しようと思います。

 邪馬台国の存在は中国にある魏志倭人伝ぎしわじんでんによって記され、その情報を元に多くの推論が存在します。
 なぜ邪馬台国に関して魏志倭人伝で記されているにも関わらず、おおよその位置すら特定できないのかというと、魏志倭人伝の内容の通りに考察すると「よくわからない」からです。
 内容が、ぶっちぎりにあやふやで適当なんです。
 まぁみなさん知ってますよね。

 この段階で、既に結論が出ています。
 内容が「あやふやで適当」なんです。

 ところが専門家を含めて、多くの人がこのあやふやで適当な情報だけを元に「ここだ!ここに違いない!!」と断定レベルに到達してしまっているのです。
 でもたったひとつの情報元を利用して、邪馬台国を捜索するのは「無理ゲー」過ぎです。
 彼らは魏志倭人伝に記される邪馬台国の距離と方角を元に、具体的に位置を割り出そうと奮起しているのですが、地図に詳しい者であればすぐにわかるはずです。あの程度の情報量では到底不可能です。
 つまりもっと別の側面や、情報を多角的に考慮してそれらを統合し、ある程度の「状況証拠」を積み重ねないと、例え推測のレベルであっても結論には達しません。

 特に理解できていないと思われることが、2つあります。

 ひとつめが、「中国の概念」です。
 先日、数回にわたって日本神話の話をしましたが、その中で平安時代に呼ばれていた鬼界嶋きかいじまの鬼界とは、人知の及ばない遠く、鬼の世界との境目、という「概念」だと紹介しました。
 だからあっちこっちに似たような名前の島があるわけです。
 例えば、世界をゾウが支えているような絵を見たことがあると思いますが、あれも同様の概念です。
 中国にもこのような概念があり、中国は人知の及ばないほど遠くの世界は「数万里」先にあると考えていて、そしてそれらの世界は「南方の世界」のどこかであるという概念がありました。
 つまりよくわからない未知の日本「倭国」は、その境界付近にあるという感覚で、魏志倭人伝の情報はその感覚に基づいた記述である可能性が非常に高いということです。
 早い話が、距離と方角に関して、魏志倭人伝の最も重要な情報のほとんどが、ほぼあてにならないということです。

 この結果から何が言えるかというと、卑弥呼の時代は、神武天皇が宮崎を出て畿内を制覇するまでの間のどこかの時代の話であるため、そのどこかの全域、つまり西日本全部が邪馬台国に該当する可能性があるということです。
 繰り返しになりますが、魏志倭人伝からは要するにほとんど何もわからない、ということです。
 わかるのは邪馬台国やその他の国の存在だけです。

 ただし仮定の話をすれば、邪馬台国がヤマト王権、大和朝廷と同じものであるならば、最終的に西日本の多くがこの大和朝廷に組み込まれていると考えられるため「どこであるかを特定する意味があまり無い」とも言えます。
 それがどこであっても、政治を司る中心地が移動しただけ、という考え方です。
 私は長年気になっていることがあって、縄文時代は自然を神として信仰するスタイルでしたが、畿内が中心となった大和朝廷では豪族の一部である天皇、つまり人を神とするスタイルが生まれていました。
 もちろんこれには、人が亡くなれば自然に帰するという根本概念があるからだと思いますが、それにしても変化が大きいと思います。
 このように変化するには、どこかの段階で強力なシャーマンが現れたことを想定でき、それが卑弥呼であった可能性はあります。

 邪馬台国論者の多くが理解していないと考えられることの、もうひとつは「距離と日数の算定」です。
 魏志倭人伝には、邪馬台国までの距離について「陸行で何日」といった記述があり、これを信じるなら距離を割り出す必要があります。

 ところが多くの人は、例えば「江戸時代には何日でどのくらいの距離を歩いていた」といった内容で距離を測っているのです。
 よく考えてみてください。
 おそらく卑弥呼がいたとされる西暦200年から300年あたりの日本全体の人口は、多くても100万人程度です。江戸時代末期は4千万人近くに膨れ上がっていました。
 縄文時代に原因不明の急激な人口減少があり、私はこれを先日の神話の話で紹介した鬼界カルデラ噴火による影響だと考えていますが、そこから順調に増加したと考えると、日本全体の人口はこの当時100万人に満たない程度だったでしょう。
 これは何を意味するかと言うと、道などと呼べるようなものはそもそも存在しなかったということです。
 もちろん吉野ケ里遺跡のある筑後平野のような人口が集まりそうな地域には、一応道のようなものがあったでしょう。
 しかし人口を考えると、そこから一歩外れれば、もはや獣道か原野です。

 例えば宮崎市から福岡市まで九州を縦断するとして、果たして何日で行けるでしょうか?
 これは難問です。
 現代のような道が無い古代において、川筋を移動することはほぼ不可能です。したがって山の尾根や尾根下を平行に移動し、谷を渡る場合はかなりの迂回をしながら渡渉できる場所を探さなければなりません。
 山伏やまぶしのような単独行のスペシャリストであればそれは可能ですが、相手の国からの賓客ともなれば、献上品や贈呈品を運ぶための牛馬を連れ、賓客を運ぶために4人掛かりの「みこし」や乗り物を用意したり、物資も必要であるため、相当な大人数になるはずです。
 この状態で道なき山を縦断できるでしょうか?

 神話の神武天皇東征の話に、この答えがあります。
 神武天皇は東征の際に、現在の宮崎市から大分県の宇佐神宮へ立ち寄りますが、宮崎県の美々津から船を使用したとあります。
 さらに宇佐神宮から畿内を目指す場合に、瀬戸内海の海路を利用しています。なぜ中国地方や四国地方の陸路ではなかったのか。
 中国地方の南部、山陽側は比較的平野部が多く山もなだらかだったと思われますが、恐らく当時、中国地方には出雲豪族と吉備豪族の縄張りがあり、その中を移動するのは困難でした。山賊もいたでしょう。
 ならば四国があるではないかと思うでしょうが、四国の北部は1,500m級の山々が海岸部へとせり出し、しかも未開の地で右も左もわからない状況だったでしょう。

 つまり宮崎市から福岡市まで九州を縦断する場合、当時の状況で陸路を利用した場合に1日で移動できる距離は「わからない」ということです。
 特に未開の地であれば地元の案内役も必要で、地図もコンパスもないわけですから、本当に厳しい移動であったはずです。
 街道が発達した江戸時代に照らし合わせても、何の意味も持たないということです。

 最初に述べた通りなのです。
 魏志倭人伝からは、ほとんど何もわからない。
 これを踏まえ得た上で、ではどこなのだろう?ということを、他の情報から割り出していく必要があるのです。

「おしまい」


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