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誰にも合えない真夜中のはなし


 誰にも合えない真夜中がある。

 誰にも言えない白昼夢もある。
 或の高架下で、おともだちを亡くしたおはなしを憶い出したけれど、弔いはこんなふうに憂鬱な気持でするべきものではない。わたしが皆んなに献げるお弔いには、いつでも安寧が憑き纏うべきだ。白昼夢のようにじりじりと、じりじりと陽光がわたしの肌を灼くばかりだから、先週からは日傘を差しはじめた。射されるひかりを刺すことはできないけれど、絆創膏の代わりくらいにはなるものだ。なにより、日傘は好い。お他人のひとみに殺されずに済むし、太陽もわたしを照らさないでいてくださる。ただただ暑くて倒れる心配が少なくなることもよろしいし、お星さまが揺れる日傘は、わたしの好むところにあった。誰にも言えない白昼夢たちは、今朝もブルゥ・シートの悪夢でわたしの頭蓋骨を包もうとするけれど、いまはただ、白昼夢に浸るばかりではならないのだ。獏は御坐し召さない。だからこそ、わたしが獏に成り代わるほかない。いくら傲慢だと罵られようとも、いくらわたしが矮小な人間だったとしても、それはひたすらに希うばかりの理想であった。
 この憂鬱を、皐月病と名づけることだけは、したくはないのです。なにより、この程度の憂鬱ならば、常々飼い慣らしているはずだ。それに、五月はうつくしい。五月には、うつくしいひとが居た。白昼夢のように、まほろめいた季節を、わたしに教えてくださったおひとがいらっしゃったからだ。そう、そうなのよ。五月は、うつくしい季節だよ。わたしは、五月のうつくしさの象徴を、皐月闇と定義した。だからこそ、きみは暗闇を想い浮かべるかも知れないね。だけれど、そんなことはないのよ。ほんとうよ。皐月闇は、わたしの往くみちを、覆わないから。蛍のように、ひかって、きえる。ただそれだけの、ちいさなわたしに、「ひかりを忘れるな。」と、仰言ってくださった。ならば、わたしにとって、青葉闇はひかりだ。ひかりでしか、ない。ひかりしか、ない。此処には、ひかりしかない。まるで、真夜中に居るような心地で、今年も五月を過ごすのでしょう。祭囃子の川向こうで、お星さまのように、瞬くひかり。あのこたちを、けして、忘れないように。ひと夜のゆめに、させないように。

 それでも、誰にも合えない真夜中が、此処にある。
 蛍ような、白昼夢のひかりを蒐めて、想い出をなぞるように息をしようとしても、なあんにも、おはなしできないときがある。いいえ、けっこう、頻繁にある。この現象に『憂鬱』と名づけるのはすこし失礼で、『自閉』と断ずるには、あんまりにも、わたしはあなたがたを愛しつづけていた。
 だというのに、なにも語れない真夜中がある。何処でも、かしこでも、ひとことも、なあんにも言えなくなるのだ。そういうときに限って、「どうせ、ほかのところで、わたし以外のひとと仲好く過ごしているんでしょう。」と、おともだちに言われてしまうから、わたしは余計に哀しくなってしまうのだった。何処にもゆかれないのだ。わたしは、何処へもゆかれなければ、だれとも、逢えないのだ。ただ、ひとり、うさぎのようにうずくまるばかりだ。孤独で、孤独で、肺呼吸が出来なくなってしまったのかも知れないくらい、息を潜めて、ひとりきりで、ひとりで居るだけなのに。

 わたしには、屹度、言いたいことが山ほどある。まだ、まだ、お砂のお城じゃあ足りないくらいの親愛がある。おともだちへの「すき」も、隣人への「あいしてる」も、まだ、まだ、伝えきれていないはずなのに。だのに、ひとを傷つけてしまうこともあれば、哀しませてしまうこともある。わたしは、それが、心底、厭だ。堪らなく、厭だ。傷ついたと感じたときは、より、傷つけてしまいそうになる自分が厭だ。なにも知らないまんま、哀しませてしまう、愚かさが嫌いだ。とても、きらいだ。
 だとしたら、どうすればよいのだろうか。なにからはじめればよいのだろう。ええ、ええ。先ずは、発声練習からはじめましょう。それでも、なんにも、ことばになってはくださらないけれど。だから、だからこそ、そろそろお伝えしなくては、有限たる季節が、わたしたちのあいだに、地上絵みたいな線を引いてしまう。ああ。ああ。はやく、肺呼吸が上手くなればよろしいのに。せめて、すこしだけ。わたしくらいのひかりでも、あなたがたに捧げられるような、真夜中だけでも、せめて。せめて。誰にも合えなくとも、こころを届けられるように、逢えますように。叶うのならば、お月さまが照らす、うつくしいあなたの微笑みが、観られますように。

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