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恩師の言葉。そして「文系」を揶揄中傷し続けている人達への思い。

 「私は、文学部は人を育てる場だと思うんです」

 その日のゼミの終わり頃、恩師のY先生が言った。
 今から30年以上前のこと。

 藤女子大学文学部国文学科。それが私が学んだ場所である。
 大学は今も同じ場所にあるが、私が学んだ学科は今は無い。
 作家の氷室冴子さんやシンガーソングライターの中島みゆきさんの出身校であり、私が学生時代に多くを学び過ごした国文学科は、今は日本語日本文学科と名を変えている。

 生まれつき病弱だった私は、季節の変わり目ごとに喘息の発作を起こしては入退院を繰り返していた。学校を休んで横になっている日も多く、そんな時は布団の中で本ばかり読んでいた。家の中にはいつも、母が家事をしながら聞いていたAMラジオのおしゃべりと流行り歌が流れていた。
 ラジオがきっかけで中島みゆきさんの歌と出会いファンになったのは小学校高学年の頃だったが、研ナオコさんの歌う「あばよ」や桜田淳子さんの歌う「しあわせ芝居」など、思い返せばそれ以前に好きになっていた歌謡曲の大半も中島みゆきさんの手によるものだった。
 中学に入る頃には、誕生日に買ってもらったラジカセを枕代わりに、こっそりと夜更かしをして月曜深夜のオールナイトニッポンも欠かさず聴くようになった。歌とトークとのギャップに驚いたのは最初だけ。この言葉はやはりあの歌を生み出した人のものだと感じるようになるまでに、さほど時間はかからなかった。
 いつの頃だったろうか。ある時、リスナーからの投稿ハガキに「F女子大学」という名が出てきた。
 そこは、みゆきさんの母校らしかった。
 大学でのエピソードがユーモラスに綴られたそのハガキを、みゆきさんはひゃっひゃと笑いながら読み、けれど、そこから自身の思い出話に話を広げることは無かった。
 どんな大学なのだろう?
 気になって調べてみた私は、そこが当時の北海道内の私立大学ではほぼ唯一「文学部国文学科」があることを知った。
 本が好きで、詩が好きだった私にとって、そこはとても魅力的な場所に思えた。中島みゆきさんへの憧れももちろんあったが、それ以上に「文学部」というのが憧れの存在になった。
 高校入試も終わらぬうちに、その大学への進学という目標を定めた私は、その後の高校入試や高校入学後の文系・理系選択の際に若干の紆余曲折はあったものの、結果的に目指していた大学で学ぶこととなった。


 憧れの大学に進学してからの私は、興味のある講義を履修しまくった。
 必修科目はもちろんのこと、日本の近代文学から古典、そして中国文学まで。大学に入ってからの国文学の講義は、高校時代までの国語の授業とは全く違うものだった。「研究」の楽しさを私は初めて知った。
 教えてもらうのではなく、調べること。
 調べる際には、一部引用された書物ではなく、出典元の原本をすべて読むこと。
 そして調べた上での考察を発表する際には、ほかの誰かの言葉の引用・受け売りではなく、自分自身の言葉で「論文」という形の文章にまとめること。
 私にとって、それらのことは全て、難しいからこそ楽しかった。
 文学部とはいえ、文学だけを学ぶのではない。一般科目には物理学もあれば科学もあった。しかし、当時の物理学の教授はかつて南極観測隊として昭和基地で自然物理学の研究をされていた方だったし、科学の教授も水中生物の研究者だった。計算式を暗記するのではなく雪や気象について学ぶ物理学の講義は聞いていてワクワクするほど面白かったし、自然科学の講義では日本魚類学会のシンポジウムでやんごとなき立場の方とお会いした際のエピソードも聞かせていただいた。今振り返っても、貴重なお話をたくさん聞かせてもらったものだと思う。

 大学で楽しかったのは、講義だけではない。
 藤女子大学は、大正時代に創設された学校である。大学構内の図書室には、古典から現代文学までの様々な書籍はもちろんのこと、古本屋ではとても手が届かない高値がつけられているような日本近代文学の初版本も、ごく当たり前に並べられていた。それらがいつでも無料で読み放題なのである。本好きの私にとって、大学の図書室は天国のような場所だった。
 しかも、図書室にあったのは、日本文学だけではない。
 当時、映画「いまを生きる」を見て興味を持ったものの書店では見つけられずにいたアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの古い詩集を図書室の奥の書庫で見つけた時には、思わず小さな歓声を上げてしまいそうなほど嬉しかったのを覚えている。



 そんな大学生活を楽しんでいた1991年、日本ではバブル経済が崩壊し、平成不況と呼ばれる時代が始まった。

 その年の3月、短大を出て卒業した同級生達の多くは、就職活動で複数の内定を得ていた。内定者向けのパーティや旅行等、バブルの恩恵を受けながら社会人生活をスタートさせようとしていた。
 しかし、年度が変わる頃、大学の同じゼミの先輩達から聞こえてきたのは、前年までの就職活動とは様子が全く違うとの不安の声だった。
 求人情報が届かない。
 応募しても返信すら無い。
 そんな、いくつもの実体験に接する中、聞こえてきたのは

 「文学部は就職に不利」

との言葉だった。

 女子の大卒は就職に不利。
 特に、文系は。

 ある先輩は、就職面接で薄ら笑いの面接官から

「文学部なんて、何が出来るの?」

と言われ、目の前で履歴書を捨てられたという。
 今なら〝圧迫面接”として大きな批判を受けるだろうが、まだSNSなど無かった時代である。学生の側には抗議する術は無く、泣き寝入りするしか無かった。

 「そんな会社、入らなくて良かったですよ!こっちからお断りですよね!」

 怒りに燃えつつそんな言葉で先輩を励ましてはみたものの、その言葉に泣き笑いでうなづく先輩の姿が来年の自分たちの姿でもあるのだろうということは、私にも容易に想像がついた。
 とはいえ、この時始まった「不況」「就職難」がその後30年間にわたって長く続くことになるとは、その時はまだ想像してはいなかったのだが。
 自分達がその後も変わりゆく時代に翻弄されることになる世代だなどと、その只中にあっては誰一人気付けるはずもなかった。



 その年の夏。
 確か、夏季休暇に入る前の最後のゼミだった。例年であれば、大学4年の先輩たちは就職が内定し、卒業論文の準備をしながら来春の卒業旅行の予定などを立てて楽しんでいる時期である。
 けれどその年は、その時期にもまだ就職先が決まっていない先輩達がいた。
 女子大とはいえ教授の多くは男性だったが、Y先生は女性だった。そして、その専門も日本の近代の女流作家だった。現在であれば「女性作家」あるいは性別をつけることなく単に「小説家」「詩人」と呼ぶのだろうが、当時はまだ「女流作家」という言葉が残っていた時期。男性中心の文壇の中で、小説を書き続けた女性達の作品と生き方とを研究対象としていたそのゼミでの発表は、期せずして当時の自分たちが置かれてた状況と重ね合わせてしまうことも多くなっていた。
 ゼミの終わり、研究発表や討論というよりも雑談のような雰囲気の中、話題が自然と就職のことになった時、Y先生は、その数日前にあったという教授会での会話を教えてくれた。
 学生の就職問題について検討していた際、英文学科のある教授が、国文学科を揶揄するような発言をしたという。

「英文学科は、英語を武器にして就職活動が出来る。
 保育科や家政科ならば、資格や技術でその分野の就職先がある。
 でも、国文学科には何があるの?日本人なら誰でも日本語が話せるでしょう?
 大学でわざわざ勉強する意味があるの?」

 そんな発言をする人がいたという話を聞かされ、その場にいた学生は皆、憤慨するよりも落胆していた。もちろん、私も。
 好きなことを学んでいるのは間違いなかった。けれど、それが就職に有利な技術や資格に繋がるかと問われれば、答えは否。わざわざ学ぶ必要などないという侮辱的な言葉を投げつけられても、当時の私はそれを否定する言葉を持ち合わせていなかった。

 けれど、その時Y先生は、その侮辱発言をした英文学科の教授に「どんなに英語力を身につけても、話せる内容が無ければ意味が無いのでは?」と言って黙らせたという。
 その場の雰囲気を想像して、思わず笑ってしまった私たちを見て、Y先生もまた優しい笑顔になった。その後。

 「国文学科って、言葉を教える場ではないと私は思うんです。」

 Y先生は、ゼミで文学作品や作家たちの背景について語る時と同じ穏やかな口調で、そう話し始めた。

「私は、文学部っていうのは、人を育てる場だと思うんです。
 どんなにたくさんの言語を身につけて海外に出ても、海外の人達に伝えたいと思うことが無ければ、会話は成り立たないでしょう?
 知識とか資格も大切だけれど、それだけが人としての価値では無いと思うんです。
 国文学科での学びというのは、歴史も、社会学も、そして何より、たくさんの人の思いや生き方を学んで、考え方を学んで、その人自身を人間として育ててゆくものだと思うんです。」

 そんな内容のことを、Y先生は話してくれた。
 一語一句覚えているわけではなく、記憶違いもあるかもしれない。けれど、「文学部は、人を育てる場」「文学を学ぶことは、歴史、社会学、生き方や考え方を学ぶこと」という言葉ははっきりと記憶に残っている。
 そして、

 「皆さん、もっと自信を持って!」

 Y先生はそう笑顔で言って、その日のゼミを締めくくってくださった。



 あれから30年近い年月を経て、私は今、母校から遠く離れた街で暮らしている。
 資格を得て技術者として働いている今も、それまで長く勤めてきた職場でも、仕事に向き合う上で基本となっているのはいつも、大学での学びである。


 私が大学を出てから30年近く経った今も、「文系」を揶揄・侮蔑する風潮は変わらない。インターネットが普及し匿名での侮辱発言が容易になったことで、多くの人々が憂さ晴らしのように文系大学や文系の学問のバッシングに興じている。
 主語を大きくし、レッテルを張って批判することの不当さを訴えていた筈のジャーナリストやインフルエンサーまでもが、特定の文学者や文系の大学教授への批判を「文系」「文学」そのものへの批判にすり替える光景を目の当たりにすると、怒りよりも寂しさを覚えずにはいられない。
 とはいえ、「文系」批判を楽しんでいる人達と同じ土俵に立ち、「理系」を批判するのは愚の骨頂だろう。

 今年の1月にこのnoteを始めた際、私は自分のプロフィールに

「文学部国文学科出身の排水設備工事責任技術者」

と記した。
 その後、プロフィールは何度か書き直しているが、この一文だけは常に残している。
 このプロフィールは、「文系」に愚者のレッテルを貼り、今も揶揄・中傷を続けている一部のジャーナリストやインフルエンサー達に対する、私なりのささやかな抗議の表明である。

 分からないこと・疑問に思ったことは、教えてもらうばかりではなく、自分自身で調べること。
 調べる際には、一部引用された記事等ではなく、出典元の原本をきちんと読むこと。
 そして、調べた上で自分自身の意見を述べる際には、ほかの誰かの言葉の受け売りではなく、自分自身の言葉で文章にまとめること。

 私が文学部国文学科という場で学んできたことは、「理系」に属する現在の仕事の中でも、また仕事を離れた様々な情報の取捨選択においても、何一つ無駄にはなっていない。

 「文系」であれ、「理系」であれ、最終的に問われるのは、「人」そのものだ。
 それを教えてくれた、今は亡き恩師に心から感謝している。

 私はこれからも、文学部国文学科で学んだことの全てを支えとし、また心の糧として、仕事にも日々の暮らしにも向き合っていこうと思う。




※追記
 多くの方々にお読みいただき、ありがとうございます。
 このエッセイを書くきっかけになった出来事についてもあらためて書きましたので、あわせてお読みいただければ幸いです。


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