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僕は病弱だった。入院から学んだ社会

小学生の頃は
一週間の半分くらいしか登校してなかったし
年に数回は入院してました。
その頃の小児科は8人部屋だつたと
思いますが、それなりに厳しい小社会だつた。
入院していたのは、僕みたいなぜんそくの子供は少なく、ネフローゼ(⁠腎臓)や、心臓の病気などの子供が同室でした。
ベッドに名札がついていて、赤い線が引かれている子が重症なんだと、子供の僕は理解してました。ほとんどの子は、安静でいろんな点滴を、いろんなタイミングでされていました。その頃の点滴は、運んてくるとき、ガラスビンなのでガチャガチャ音がするので、みんな今日はどんな点滴かなと、小さいといいな、と悲しい期待をして待ってました。
長い点滴は8時間くらいかかります、ネフローゼの子は、おしっこがあまり出ません。また量も記録しているので必ず看護婦さんを呼ばないといけない。だけど看護婦さん怖かったので、なかなか呼べないで漏らしちゃう子も居ました。
昔の病院は、子供だつたからかもしれないけど、怖かった。
その頃は、子供とは大人の不完全な状態をいうので、かわいいと思ってくれるのは親だけ。看護婦さんも天使じゃ無かった。
また、病人であっても子供のなかでも年長者、或いは身体の大きい者をてっぺんにしたヒエラルキーがあり、下の者は子供の残酷な世界で退院の日まで、イジメられないように過ごさないと辛かった。
狙われると、消灯時間が過ぎてから、パジャマの下をぬがされたり、汚れたパンツを見えるところに置かれたりしちゃいます。
母がそつと置いて行ってくれた、菓子パンを看護婦さんに言われて取り上げられて、母がすごく怒られます。
何かていうと
過保護   だ。だから子供がなおらないんだ。
と、いわれる時代でしたから。
だからその頃から、精神を鍛えるとか、そういうのが大キライになりました。

好きで病気になった訳ではない、病人は弱虫か? 元気なのが偉いのか?
言えなかった言葉でした。



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