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音楽は聴き捨てるものか?XJAPANからヨルシカへ

 歩きながら、電車の中で、勉強のbgmに、音楽を聴く。とにかく何かをしながら音楽を聴く。そんな人も多いだろう。別にそれが悪いと言いたいわけではない。これは音楽の役割の話である。

音楽は非日常か

 あえてひとつ前の時代の音楽と言い切らせてもらうが、その例としてXJAPANを挙げたいと思う。XJAPANといえばビジュアル系バンドである。

 街中では見かけないような長髪の男たちが、ド派手な衣装と化粧で着飾って、これまたド派手な楽曲を演奏する。普段の生活の中で体験することの出来ない経験だ。とりわけビジュアル系というだけあって、彼らの音楽を聴くことには目で見るという行為が含まれている。

 こうした非日常の音楽が熱狂的に流行ったのは80年代の終わりから90年代にかけてである。これは92年のバブル崩壊から始まる暗い時代にちょうど重なる。生きづらい時代を生き抜く人々が、辛い日常を忘れる場としての音楽の形があったのだ。

現代の音楽の在り方

 ところが現代の音楽はどうだろうか。下の記事は音楽配信サービスspotifyが提供する毎月の流行の曲をまとめたサイトだが、1位のドライフラワー/優里、2位の/菅田将暉の歌詞はこうなっている。

『二人きりしかいない部屋でさ』『貴方が眠った後に泣くのは嫌』
『ベランダで水をやる君の 足元に小さな虹ねぇ』

 これは、非日常ではない。日常である!!!等身大の歌い手が日々の生活の中の思いを歌うことで、聞き手が気持ちを重ね合わせやすくした音楽である。他のヒット曲を見ても同様である。瑛人香水しかり、KALMAわがまましかりである。

 現代の音楽が全て日常の音楽であるとは言わない。しかしヒット曲の方程式に日常が大きな部分を占めているのは確かだ。

日常になった「音楽」

 『紅に染まるこの俺』が『夜中にいきなりさ いつ空いてるのってLINE』されるようになり、黒いエナメルや革に鋲を大量に身に付けていた歌手がラフな私服をまといブランコで弾き語りするように変貌を遂げた、その理由は何だろうか。

 私は音楽の常態化だと思う。なんてかっこつけて難しい言葉を使ってみたが、要するに音楽が身近なものになったから、ということだ。かつての時代、音楽を聴くにはライブ会場に行ったり、ラジオやテレビを見たり、CDやカセットテープを再生するしかなく、それらの再生機器は持ち歩けるようなものではなかったため、音楽を聴くという行為自体がそれなりの労力を要する特別な行為であった。

 しかし、現代ではスマホを開いて画面をタップするだけでスピーカーやイヤホンから音が流れ出す。さらにはイントロやサビを自由自在に聴くことも可能だ。これらの行為は友達とLINEしたり、ゲームをしたり、ニュースを見たりといった行為と何も変わらない、日常の中の振る舞いとしてある。

 極めつけは音楽が作りやすくなったことだ。日々作曲ソフトは進化し、そのソフトを作るのに必要な電子機器は普段使っているスマホでも事足りる。さらにはボーカロイドの存在により人間の歌い手不在でも曲を完成させることが出来るようになった。これによって日夜作られる楽曲の数は爆発的に増え、音楽は飽和するようになった。いまや一度聞いた音楽を二度と聞かないなんてことも珍しくない。

 手軽に音楽が聴けて、よりどりみどり。こうした状況は聞き手の意識に変化をもたらした。インターネット上に投稿された音楽を消費する意識だ。これは月単位で流行が入れ替わる今のJpopを見てもらえば分かると思う。

 こんなことを書くと、怒る人もいるかもしれない。自分は音楽を消費なんかしてない、作り手に誠意を払って大事に大事に聴いている、と。もちろんそういう人もいるだろう。筆者はなんとも思っていないが、youtubeのコメ欄でよく「こんないい曲がTIKTOKで使われているのが我慢ならない」という意見を見かける。TIKTOKでは音楽は大抵映像に付随するおまけでしかないし、流行が終われば見向きをされないから、音楽が消費されていると感じ、怒る人もいるだろう。

 だが筆者に言わせてもらえば、現代のほとんどの音楽はやはり消費されている。一曲通して聞いていようと、音楽に合わせて映像を見ていなかろうと、やはり消費しているのである。なぜか。それはこの記事の冒頭に書いてある。

歩きながら、電車の中で、勉強のbgmに、音楽を聴く。とにかく何かをしながら音楽を聴く。

 有り余る楽曲を手軽に聴けるようになった現代人は、忙しかった。その結果、何かをしながら音楽を聴く習慣が生まれた。かくいう筆者も今この記事を書きながら輪廻大人になったらさを聞いている。あ、終わった。続けてボカロの雲をつかむような話が流れてきた。

日常からの脱却

 比較対象としては古いような気がするが、クラシック音楽を例に挙げよう。かつてクラシック音楽はオーケストラによって演奏されていたが、蓄音機の発明に伴い、いつでも聞けるようになると、人々は書斎やリビングでレコードをかけ、流れてくる音楽にただ耳を傾けていた。そう、ただ音楽を聴いていたのだ。まだ音楽を消費していない時代の話である。

 音楽が私たち現代人の日々の生活において純粋に鑑賞される機会は減ってしまった。そうして音楽を消費する私たち聞き手と生産する作曲家との間には金銭関係が生まれている。それは作曲家がヒット曲を売り出そうとする意識につながるし、その結果ますます音楽は飽和し、等身大の楽曲が増える一方だろう。

 その一方で日常化する現代の音楽に反旗を翻す「アーティスト」もいる。その代表がヨルシカである。

 詳しくはこの記事を読んでほしいのだが、ヨルシカ春ひさぎという作品をyoutubeに投稿した際に、概要欄で次のように語っている。

春をひさぐ、は売春の隠語である。それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
悲しいことだと思わないか。現実の売春よりもっと馬鹿らしい。俺たちは生活の為にプライドを削り、大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。
俺はそれを春ひさぎと呼ぶ。

 これはまさに現代の楽曲を巡る消費者ー生産者の関係を指し、彼らはこの関係からの脱却を目指すと宣言しているように思える。現にそれまで人気だった夏のイメージを粉々にした新しいヨルシカの楽曲は聞き手に媚びるものではなく、やりたいようにやり、我々聞き手はそれを追いかけるように感じた。まあこれは筆者の主観なので大いに異論は認める。自由に議論してもらえると嬉しい。

 我々は等身大の音楽に飽きてきているように思う。もちろん等身大の音楽は必要だ。想いや思いを重ねることで救われることもあるだろう。だが、全ての音楽がそうある必要はないのではないだろうか。

 この記事を有名なアーティストが見るとは思わない。だからこう書かせてもらいたい。未来のアーティストよ、自由であれ。


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