見出し画像

[小説] 「鱗」ウロコ〜7話〜9話。30年前の出来事が、滝のように降り注ぐ。


        7話


 25歳の啓介は今現在、世間一般で言う所の、それなりのちゃんとした会社に入って、給料を貰う様な生活を全く考えてはいなかった。


 現に電気の配電盤を作る父親の会社にも、興味が希薄でフラフラしている訳でも無い。そんな中、たまたまゴルフ同好会時代の先輩が、西麻布や青山で『BAR』を何店舗か経営する中。

 その一つでアルバイトをさせて貰い、それなりに頂いていたのもあってか、中々前に進めずにいると父親からも『そろそろはっきりしろ』的な言葉が、毎日のように聞こえていたのだ。親としては当然な事で本人が一番判っていたと思う。


 土曜日には父親に良くゴルフに誘われ、その日もいつものゴルフ場に向かっていた。メンバーは齋藤さんと父親と3人でのラウンドだ。齋藤さんが最近売り出した、移動電話をたずさえ、見た目はブロックを縦に割った半分位の大きさで、そこそこの大きさの、巨大なトランシーバーと見間違うかも知れない程だ。

 聞く処に依ると1分の通話で100円位らしく、普通の電話の10倍もするのだと、啓介の周辺でも持っているのは稀(まれ)だった。


 後半の何番ホールか忘れたが、グリーン上で大事な大事なパーパットが残り、下りの順目のスライスは相当難しい、インパクトの瞬間そのブロックから音が聴こえた。

『あっ』と、思ったボールはその距離凡そ2メートル、カップの向こう側に当たり、飛び跳ねたボールは、カップに沈んだ。

『うん、はいはい、わかったよ!あとでね』

 どうやら電話の相手は梶浦のようで、話の先はこうなっていた。


 梶浦と齋藤さんの共通の友人がいるらしく、しゃぶしゃぶ屋をオープンしたので、お祝いに行こうと言うのだ。


 珍しく帰りの京葉道路は空いていたので、1時間ちょいで家に戻ると、タクシーで目的地の渋谷駅と並木橋の中程で降りると、目指すしゃぶしゃぶは地下のフロアーにあり、かなり大箱な店内が広がっている。


 既に梶浦と佐伯さんは、生ビールを飲んでいた、目の前には空のグラスが二つあり、多分1杯目は一気飲みしたと思われるフレッシュな泡が、グラスにへばり付く形で残っている中、梶浦と会うのは、ベントレー以来なので半年ぶりとなる。


『お久しぶりです!』元気に挨拶をすると『久しぶりだね、やっぱり若い人は良いねー』と、こちらも、ティッシュの件があったので、何だか変な佇まいになっていたかも知れない。


 「そうだ。啓介君は、仕事はどうしてるの?何処かに勤めているの?」

「いや、今、ちゃんとした就職はしていません、バイトです、はい」

「そうなの、勿体無いねー、若いのにー、ねー、ダメよ就職しないと」

「父からも随分言われています、……」


「そうだろうねー、あのお父さんなら、でもね、父親は何処も一緒だと思うよ!」

「そうなんですよねー、判ってはいるんですがね、なんですかねー、こー前に進まないんですよ!」

「そうなの、何か求める物があるの?目指しているとか?」

「はい!、そうなんです、色々考えてはいるんですけど、実際には前に進んでいません」


 お運びのお姉さん達は、ピカピカの着物にテキパキとした手つき、七難隠すと言う肌が、雛人形に見え、啓介は思った。

 何故に灰汁(あく)を掬っているのか?、普通にテレビや映画に出演している、有名な女優さんや芸能人と同じ様な匂いがしたからで、他のお姉さんにも同様に感じていたのだ。


『ふーん、こんなお店があるんだなー……』


「ここはねー、本当に肉が旨いからねー」

「そうなんですか?」

「いっぱい食べなさいよ」と言った途端、梶浦は斎藤さんと何やらヒソヒソ話を始めてていた。

 奥からはその知り合いの店主が現れ『良かったら、どうぞと』蔵元直送の一升瓶の地酒を置いた。


「今日の肉はね『岐阜』なんですよ、素晴らしい肉ですから、沢山食べて下さいね!」

「ここのポン酢はお手製だからね。酢橘すだちだったかな、そのねーバランスが良いのよ!」

「あのさー!一人、若い人がいるからさー、ガンガン持って来て」

 梶浦健は、本当に楽しそうな顔をしていた。


 大人から見れば恐らく若い啓介の事は、純粋にしか見えていないと思う。実際に純粋なのは間違い無い訳で、何故かと言うとしゃぶしゃぶを食べた時の、表情が純粋に見えたらしく、事実こんなに美味しい、しゃぶしゃぶを食べたのは初めてで、ちょっとした事件だったと、言ってもおかしくない位、本当に旨かったのだから、仕方がないだろう。


「旨いなー、お父さん、ヤバイよ、旨すぎだわ!」

「やっぱり若いから食べるねー」

「俺だって若い時はいくらでも食べれたさ!」

「あのー、梶浦さん、僕もその地酒を頂いても良いですか?」

「あー、ゴメンごめん、呑んでよー、日本酒も行ける口なの?」

「大丈夫です、大概の物は何でも、でも一番好きなのはワインですかね」

「あー、そう、ワインもあるよ!呑む?」

「いやいや、もーこれで十分です、有難うございます」

「啓介君は、礼儀正しいね!良いよ礼儀は大切だからね、教えるもんでも無いしね、お父さんか、お母さん?」

「いや特別な事は無いんですけど、二人ですかね」


 大人達の酒の呑む量は、半端じゃ無かった。ビールにワインに地酒と次から次へと、とにかく上機嫌で、やや日焼けした脂ぎったおじさんの笑い声が店内に響渡ると、啓介は、恐らく一人で10人前位をたいらげ、地酒も相当呑んでいた。


 そんな時、梶浦が話題の全てを掻かっ攫さらって、自分の方に向けた。

何でも南麻布から元麻布に越したと言うのだ。若い啓介にとって南と元と何処が違うのか、想像も出来ないし興味も無かった。


 マンションだと言うので、何処どことなくはイメージは出来る。

 何でもそのマンション、お値段が実に6億7千万と言うのだ、実まことしやかに話す梶浦。


『はー?6・億・7・千・万・円?』

 啓介の心が唸るも、齋藤さんは、密かにその事実を知っていたらしく、一人涼しそうな顔をしていた。

 そう言う齋藤さんも実は、宇宙人的常識はずれの片鱗を、少なからず持っているのだろうと感じていた。しかし6億7千万と言ったら、かなり大きなビルを買いその家賃収入で一生安泰な、そんな破壊力抜群な金額であろう。普通はそう思うのだが、どうやらそこは何かが違っていた。


 ともかくこの人は一体何をやっている人なんだと、素朴に知りたかったし啓介は会話の合間をぬって訊ねて見た。

 本当に遠くを見つめる様に掘り起こす様に、余り脚色することも無く、其れこそこの7、8年位の出来事を、引越したマンションを現金で買うこの人物、梶浦は丁寧に話をしてくれた。


 地銀の一銀行マンで新卒で入社して約25年近く勤め、この10年位前に融資課に配属され、色々とエリアを任されているし、そこそこの成績も挙げていたと言う。


 それでも何処まで行っても自分のお金では無い事に、葛藤し日々闘ってもいた時期で、色々なチャンスと誘惑に負けそうになったり、引き抜きも日常茶飯事のご時世、融資の審査にしても無理難題を聴許(ちょうきょ)したり、実際問題表に出せない融資案件も抱えていたのだ。


 時には、茶封筒を無理やり鞄に入れられた事もあったりと、しかしそこはサラリーマンである自覚と、家族への愛情と責任もあり正義と言う名の元、何とか踏み止とどまっていたのだと言う。


 それはちょうど入社25年の節目に、半ば強制的に長期休暇を取る事になり、定番だがハワイに1週間の旅行の際、とある会社の社員旅行に偶然出くわしたのだ。


 銀行マンがアロハを着ていては、向こうも全く気づかないだろう。危く、その会社の社長すらも通過する所だった。


『梶浦君!今晩、会社主催のパーティーがあるんだよね、良かったら、こちらの宴席に顔を出さない?』

 社長さんに直々に誘われた手前、家族と早めに夕食を済ませ早々と向かっていた。


 ホテルに着くとそれはもう大騒ぎで、宴会は予想以上に盛り上がりを見せると、生バンドが入り、ハワイの州知事を筆頭に相当な顔ぶれが揃っていた。


「梶浦君!こっちこっち!」

「社長!、すいません突然に」

「いやいや、良いよ良いよ、そうだなー色々紹介するからさー、ちょっと待ってて」

 社長が大きな声で呼んだので、肩を組みながらステージに上がると、約200人の前で紹介をした。

「イヤ、真面目な話、勘弁して下さい、ちょっと来ただけですから、社長!社長!」

 司会者の派手な喋り口が、千秋楽で千代の富士に対して行事が、待った無しになっていた。


「グ、グッドイブニング、アイアム、ケン・カジウラ、バンクオブ、トウヨウ、どうぞよろしく!」

 突然の展開に支離滅裂で最後は日本語になっていた。


「社長!、お願いしますよ!ホント、こんなの」


 因みにこの会社、リゾート関係の会社でスポーツクラブや、ゴルフ場開発に始まり、温泉旅館やホテルまでかなり幅広く事業展開をして、業績も右肩上がりで、担当して丁度5年位のお付き合いの会社。

 銀行の中で比較的目立たないような存在でも、融資残高は着実に増えていた。それもこれも担当である、梶浦が上手く、立ち回っていたからで、その辺りは、当の社長が一番理解していただろう。

 その夜は延々と呑んでいたし、あちらこちらで乾杯乾杯と、引きずり回される羽目になり、当然記憶も無い訳で、翌朝、自分のホテルで目醒めると、覚束(おぼつ)か無い記憶にも、きちんとパジャマを着ていた姿に、ホッと胸を撫で下ろしていた。


 ハワイ休暇も首尾良く終わり、日常の中に体が溶け込んで行くのが判ると、時差ボケも粗方あらかた治った2日目に社長から電話があり、受話器の向こうで絶好調の声が、延々と聞こえていた。


        8話


『酸素が少ないですね……』フルネームは清水市子と名札が見えた。

 洗濯バサミに似たその器具は、酸素を測る為に、左手の人差し指の先端に、挟いたのだ。それはそれで大切な数値として、やはり心電図同様ナースセンターで全員で管理、共有しているのだ、生を繋ぐ、大切で大事な役目の一つでもあるのだ。


 『酸素』この世で生きる上で最も大切で必要とされる一つが酸素だ。

 人間だけでは無いだろう、この星で生きる生物に必要なエネルギーの1つ。健康な人であれば数値に置き換えると、95、6%〜99%の値らしい、重症患者の酸素値は現状85%も無い位で、全く以って不足しているらしく、酸素の量を少し増やさないといけないのだ。


『———お・な・か、空い・たなー』

 当然である、意識はハッキリとしながら、熱も40度のピークからは下がったが、彼此、3日間何も食べてないのだ。

 今まで生きて来て、3日間何も食べずにいた事などある筈なく、僅か3日と言えども、身体が痩せた感触が如実に判る。


 しかし次の瞬間、唐沢先生の口から出た信じられない言葉に救われた。

「加賀見さん!明日から、少し食事をしましょう!」


「え、え、本・当・で・す・か」


 映画『十戒』のワンシーン。何とあのシーンが今まさに現れ、大地が轟音と共に割れると、巨大な道が開かれようとしていたのである。


 とうとう、水と麦茶の暮らしから昇格する時がやって来たのだ。小さじのスプーンで食べる量で、お粥が2口、茹でたキャベツ2口、和え物2口と、三つをレンゲに乗せれば一口で終わる。

 しかし、今は、4日ぶりの食事なのだ。


 少しずつ、本当に少しずつ口の中に入れた。

 味は薄いが、食べ物にありつけたのだ。

 感動していた。

 食べると言う行為は、生きる証なのだと、心底感じていたし味わっていた。

 結城さんのカーテン開く音が聞こえ、男性の看護師と話している。あくまでも推測での話でしかないが、結城さんはもう彼此、1ヶ月以上入院している感じで、男性看護師との会話によると、心臓と肝臓と糖尿を患っているのだ。

 肝臓と糖尿は相当悪い状況らしく、気配で感じる薬の量が物凄い事になって、食後に12、3種類以上飲んでいるのが、音として手に取るように判った。

 ベッドを背中の部分を45度位まで起こすと、結城さんが歯を磨いている後ろの姿が、完全な形で見えた瞬間だった。

 しかし、その目の前に現れた表情は妄想と大幅にかけ離れていた。それこそ失礼な話で、勝手にどうのこうの言っていたのはこちらであって、結城さんは全然関係無いので、関係無いついでに言っておくと、イメージでは、65、6歳で髪型はスポーツ刈りで、絶対に昔ラクビーをやっていた人なのだ。そんな精悍な雰囲気をカーテンに感じる人物像だった。

 本当に大きなお世話だ。『こちらこそ』と言ったその顔は、80歳を優に超えているのかも知れない、しかも髪の毛はこの世から消え、それこそ孫では無く曽孫(ひまご)がいても、からきっし可笑しくは無いだろう。

 結城さんはベテランなのであろう、ベテラン故の、どっしりとした横綱の様な空気感が、そんな雰囲気にさせていたのだろうと思う。

 人間は頑張れば何でも出来ると、本当にそう思っていた。変でも何でも頑張れば、そこから抜け出せるし解決もする、未来だって手に入るのだ。


 普通に元気で病気など知らずに、仕事だからと言いながら毎晩の様に飲み歩き、焼肉屋で肉が気に入らないからと言って、別の焼肉屋に行くみたいな事を随分やって来た。

 それこそ、日暮れと共に街灯に集まる夏の虫のように、明かりを求めて繁華街を彷徨い歩いた。

 何か振り返るとそこは違うだろうと、ハッキリと聞こえるような気がしていた。

 専用トイレ即ち『おまる』でのしゃがむバージョンにも、知らぬ間に体が馴れ始めていたし『恥ずかしい』も消えた。

 ただ一つワガママを言えば、ウオシュッレットがあると更に良いのだが『おまる』にそんな機能はある訳が無いので、10年後にはあるかも知れず、人間は何処まで行っても欲深い生き物なんだと感じていた。


 アフリカの野生動物達は、食欲と睡眠欲くらいでは無いだろう。

『はじめ人間ギャートルズ』の頃は、人間と言う生き物も野生的だった訳で、ライオンやキリンと同じ様な暮らしをしていたのかも知れず、それも良いけど、サバンナには、病院も無ければ医者がいる訳でもないだろう。

『やはり今を生きよう!』現代医学の恩恵おんけいを受けるのだ。

 「加賀見さん!どうも初めまして、岡田と言います」と、一歩下がった所からもう一人。


「岩崎と申します」

その岡田先生が続けた。

「『循環器』を担当しています、昨日『呼吸器』の唐沢先生から伺いました」

「どうやら『心不全』を併発しているので、これから一緒に担当させて頂きます」

「あーはい、こちら・こそ・お願・します・んー」

「加賀見さん、お胸の音を聞かせて下さい」


 そう言いながら、聴診器を胸に当てると、大方の聴診器は冷たくて必ずと言って、一瞬冷やっとするのが、当然と言えば当然であろう。

 しかし、岡田先生のそれは、何故だか少し暖かさを感じてた、恐らく岡田先生は聴診器の表面、体に触れる部分を、自分の手かポケットに入れて、温めていたのかも知れない。


『そうか、そうなんだ、そう言う人なんだー』

 何だか妙に嬉しくなっていた、入院生活で喜ばしい出来事が、不足しているせいなのか、岡田先生の心の中には慥かに、自分より相手の事を思い遣やる心があり、結果聴診器に繋がっているんだろうと思っていた。


 同じ一人の人間としての無垢なる価値を高め、洞察力を鍛えてやがてそれは、孤高なる治療を施こす結果へと繋がるのだろうか、

岡田先生なら『心不全』も的確に治療して貰えそうな、そんな予感がしていた。


「加賀見さん血液検査の結果が出ましたので」

「心臓を動かす機能が、血液で判るんですよ!」

「そう・なんで・すか・」

「このBNPの数値ですね、びっくりしました!何と約1500なんですよ!」

「大体正常値からすると、二桁違いますから」


「ふ、二桁?です・か……B・N・P・で・す・か」

「相当まずいですよ、んー、まずいなー、本当にいけませんねー……」

『心不全』と耳にしても、他人事としか思えずにいた。

「早速ですが、数値を下げる点滴と飲み薬の2種類で、治療して行きましょう!」

 やはり、外連味ない言い方がとっても歯切れが良く、予想通りかも知れない。

『あー』と『うー』と『んー』に『こんな事があったよ!とメールでもしてやろう!!!』

『B・N・P・1500』


        9話


 『アローハ!、イヤイヤびっくりしたねー』


 やっぱり君とは縁があるのだろう的な話から、今晩の予定があろうが無かろうが関係無く、装甲車の様にどんどんと突っ込んで来た。


「社長!今日はあいにく、先約があるのでダメですよ」

 実は夜の約束は無く、受話器から聞こえる元気一杯の声が、土足感満載だったので少し嫌な気がしたのか、其処はやはり玄関で靴を脱いで欲しかったと思ったのか、瞬間的に会話の線を少しズラしていた。


「それじゃ明日にしよう!」

「そうですか、んー、明日ですね承知しました、あっ、それと社長頂いた電話で恐縮なんですが、

 実は金利の話もあるんですよ、恐らく少しだけ上がるんですよ金利が、今直ぐの話では無いのですが」


「あーそーなの?まー良いや」


 落ち合う場所は、銀座の金春通りにある、京都の下鴨に本店を構える伝統的な懐石料理の店で、銀座の支店はややくずし割烹の店だった。

 初めて行く店なので一足先に行って、場所の確認を済ませると、わざとらしくならないように、時報の如く18時丁度にカウンターに座った。


「他の方はどうされたのですか?」

「今日は君と二人でね、ゆっくりと話をしたいからね、生で良い?」

「あ、はい生で……」


 やんわりとくずしのコースが進むに連れて、話の色が多少なりとも濃くなり始めていた。

 お椀が出て来た辺りで、社長は中心へと切り出した。


 『実は今千葉で、一つゴルフ場の話があってね、三重県の会社が作っていたんだけどね』

 その話は資金難で止やめるから、引き取ってくれないかと、ピンチで託された、継投のピッチャーの様に、5回の裏辺りから引き継いだと言うのだ。


 本当はどうなのかは判らないが、そんな話に幾らで乗ったのか、話を聞く限り相当叩いた風が口元から漏れ出し、恰も備忘価格にも聞こえる。

『ハワイで会ったのは神様が引き合わせたと思うよ』の前振りと共に、

『実はね、ハワイ方はコンドミニアムとゴルフ場を一緒にして、売り出そうと思っていてね……』


 これまた途中まで進んでいた計画に、脇道から入って上手い事運んだと言うのだ。それで知事がいたりと、地元の色々な人間を招待したのだとも盛んに云って続ける。


「でもさーびっくりだよねー、ハワイで会うなんて、偶然にも程があると思わない?」

「はー、まー、確かに会おうと思っても中々難しいですね実際」

「そうだよー、そうなんだよー、梶浦君、絶対に何処か繋がっていると思うよ君とは」

 話の大枠を説明した後にふと感じていた。


『この人は相当強運なのかも知れない……』


 『そうだなー、今日はワインにしよう!』そう言うと『あれさー、あれ、いつものあるかい?』


 今までの人生で賞味したワインたるや、極々有触れたお国と銘柄だろう。


「梶浦君これ、旨いんだ、どう?」

「いやいや、私なんぞ、ワインの味とは無縁ですから」

 完全に別物だった、抜群に旨い白ワイン、一度ひとたび含んだ瞬間に、口腔から全身に拡がる陶酔、それはヨーロッパのお城に暮らす、幾多のあらそいや時代時代の困難にも耐え、何代にも守り抜いた、伝統ある貴族の長にでもなった気分にさせていた。


 塗りのカウンターから、優美で楚々そそたる空気が、大振りのグラスから溢れていたのだ。

 正直今までワインの味など気にした事も無かったし、余り機会にも恵まれなかった思う。

『こんなワインもあるんだなー……』心の底から実感していた。


 「社長、美味しいですねー、この白ワイン」

「あ、そう、判る?、そうなのよ、旨いんだー、これ」

「あ、すいません、お注ぎします」

「梶浦くん、今週来週で、あと二つの銀行と会うんだけどね」

「出来れば、君の所で進めて貰えないだろうかねー」

「いやいや良く判りませんが、総額でどの程度の事業規模なんですか?」

「100位かな……」

『そうなんですかー』とは行かない数字、今現在の借入残高が50億近くあり、更に100となると子供でも判る『1+0・5は1・5』そう『150億』になる。


 更に迫って来た。それらが完成した時には、合わせて完済すると言うのだ、かなり大胆な申し入れに、電卓が無くても銀行マン、丼勘定としてもちょっと現実離れした話と額に、唐津焼の上のお造りも『あらよっ!』と言って跋扈(ばっこ)したかの様に、再び元の姿に戻って泳ぎ始める勢いだったと思う。


 社長としては自信たっぷりで続ける。

『150億全額とまではいかないとしても、元の50億は直ぐに返済するからさー』

 2本目のムルソーも空いて、少し酔っていたような感じがあったが、あるエリアから先は、どうやら立入禁止となっていたのだ。


「梶浦君、この話はね、多分ね、上手く運ぶよ!絶対に上手く行くから、もうね!見えているんだよ、向こうが」

「しかし社長、銀行は数字だけですから、数字と担保ですよ!」

「いや、それは判っているけどね、それだけでは超えられない山もあるよ!ね!、わかるでしょ!梶浦君なら、優秀なんだから」

「優秀じゃ無いですよ、山は超えないで丘でも良いじゃ無いですか!丘でも、低い方が確実ですから、社長!」


 社長としてはどうやら、一世一代の大勝負なんだと、しかもこれは躱(かわす)事など出来ない、己の生命(いのち)と刺し違えてもやり遂げるんだと言っていた。


 どれ程の決心があるのかと、その鬼気迫ききせまる、情念にも似たエネルギーが、沸々と湧き上がり

『エイ、ヤー』と『名刀正宗』で一刀両断せしめんと。梶浦健47歳、社長71歳同じ干支、しかも同じ11月生まれ、その夜、今までとは慥たしかに違う時計の針が、動き始めていた事を知る由よしも無い。


 そんな中、いつも通りの日常、実直な銀行マンとして背筋を張り、真っ白なワイシャツを着ていた。

 社長の話を放ったらかしていた訳では無く、他の稟議もある中、何と言っても、社長の100億の稟議が金額的にも断トツだった。


 これはもはや支店長も副支店長も一緒に、道連れだと感じていたが果たしてどうなのか。

 道連れと言う言葉は、普段あまり使わない言葉だと認識するも、もう後戻りは出来ない、もう一人の梶浦健が遠くで、手綱を引っ張っていたかも知れない。


 金利の見直し案が出ていたので、社長に連絡を取りながら、「どうですか他の銀行の感触は?」と、電話なので顔が見えないと言えども、其れなりにきちんとした態度で尋ねた。


「そうだねー……、芳(かんば)しくは無いかなー……」

「社長!えーと、今頑張っておりますが、無理なら無理ですので、それだけは肝に命じておいて下さい!お願いします」

「んー、そうじゃ無いんだよなー、担保は作るからね。話としては成立するからさ!」

「いやいや、困りますよ、確実じゃ無いと!社長!」

「どちらにしろ来週、現状の署名捺印の書類が沢山あります」

「その時にまた、詳しい話をお聞かせ下さい……」


 1週間後、広尾の駅から西麻布の交差点に向かって歩く事4、5分位だろうか、社長が所有するコンクリートの打ちっ放しの、5階建の斬新なビルに向かっていた。


 何はともあれ金利を0・25%上げる為の書類なのだ。

合計で50枚ほどに署名捺印をお願いすると、少し表情が険しくなった。

「まーこれはこれでいいとして、千葉とハワイの件はどう?」

「金額が大きすぎて、難航していますね……」

 そう易々やすやすとは行かない事を感じて欲しかったのが本音で、既に稟議書は完成していたのだ。

「社長の方から頂く事業計画が必要です、早急さっきゅうに頂く事は出来ますか?」

「明日出すよ!」


 既に答えは判った上での問いなので、然程さほど期待していなかったと言えるが、やや粗雑な言葉として露見していた様だ。


『担保はねー』と切り出す社長は、この先、個人が1000万、法人2000万、千葉とハワイの会員権を限定会員として売るのだと言う。

 全体で1000枚、ざっと入いりが300億と、あっけらかんとしていた。


 『会員権が担保で良いだろ?縁故の枚数で足りちゃうだろうしね、特にね、千葉のコースは新しいインターが出来るから!』


 完成すると降りて2分と、絶好のロケーションなのだと顔に熱が迸る。


『2分?それは凄いぞ!』と、それはそれで納得する返答となり、

 その先にも未だ潜でいるのだろうか、たまに売り出す宝くじ、削けずって当たるスクラッチの様に、こすればどんどん出て来る気がしていた。


「どう?梶浦くん」

「そうですねー、んー」

そ う言い放った眼光の奥、鷹揚自若(おうようじじゃく)そのものだったと感じていると、銀行としては、半年で150億の、集金の見込みがある事案を、捨てる訳にも行かない。


『さて、どうしたものか……』


『実はねー、臨時役員として、君には色々と手伝って欲しいんだ』

 突然、そう言って来たのである。

 報酬は2億で如何いかがかと、算数的には至って簡単な話なのだ、100億の融資をまとめた、お駄賃が2億、断然大人の而も、まず持って有り得ない様な話なのだ。


「え、そうなんですか、あー、そ・う・な・んですか……」


「どう?君じゃないと駄目なんだよ」


「梶浦君!はっきり言うけど、君ねー、才能あるよ絶対に」


「いいやいや、そう担かつがんで下さい、何も出ませんよ」


 当然喉から手が出ていた。


『2億か……、んー、本当なのか……』


 其れはやや多めの商品券でも無く、ちょっとした茶封筒でも無い。

『2億』と言う響きに驚きより何か封じ込められた感じで、いや、ちょっと違う絞められた感があり、恰も『三角絞め』か『腕挫十字固め』で極められ落ちた感覚を持った。


「わかりました少し考えさせて下さい、計画書は明日バイク便にでも、届けさせて下さい」


 サラリーマンがお客さんの会社でする話では無い、実際には空想と言っても可笑しく無い様な話に、梶浦はほだされた気持ちになった。会社に戻ると副支店長の吉永が、轆轤首(ろくろくび)の様に首を長くして待っていた。


 さー大変だ自分で首を絞めていたのだ、ハワイになんて行かなければ、こんな事にはなっていないのに『どうしたものか……』

 その夜は桜田通りから、少し川沿いに入った焼き鳥屋で、一人黙々と整頓しながら飲んでいた。いくら呑んでも効かない酒に、結局一人で一升近く飲んでいた。

 而も、答えらしき場所には辿り着けずに、後はもう『野となれ山となれ』上から下に上手く流れてくれる事を、静かに祈るしか無かった。


 結果は意外と早く現れ、一ヶ月程度で本部か結論が出たのだ。

 決め手になったのは、ハワイの州知事からの手紙と、確認書が週をまたいで提出された事に依るものだった。


 程なくして社長から連絡があり、例の臨時役員の書類にサインをして欲しいと、そこには全役員の署名捺印があり、印鑑証明まで添えてあり、事の重大さに身が引き締まるようでもあり、畢竟(ひっきょう)後戻りなど決して許される事では無かった。


 『そして社長の読みは、物の見事に当たったのである。』


 当初の予定より早い、僅か半年で目標の会員権を捌いたのだ。社長の所の営業マンは素晴らしいと、銀行でもちょっと話題になっていた位で、ほぼ稟議書通りに全額返済を遣やって退けたのである。


 奇跡的な案件に、本部でも相当びっくりしていたに違いなく、かくして総資産250億、現金70億の会社が瞬またたく間に誕生したのだ。

 同時に約束の『臨時役員報酬』書類はあるとも、実際払うとなればと。


『どうなんだろうな……』


 翌日、お昼のついでに、恐る恐る通帳を入れると『あ……、に————』郵便局の真新しい通帳の二行目に、2億千円と所狭ところせましと印字されていた。


『本当なんだー……』


       10話につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?