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[小説] 『鱗』〜ウロコ19話〜20話。欲望が少しずつ剥がれ、過酷な現実が現れる。


        19話

 電話口の声は生成沈着(せいせいちんちゃく)でしかも的確に、揺るぎない口調で浸食を繰り返していた。

 そんな羽目になる事を、全く知らないで土俵に上がってしまったのである。振り返ると、銀行マンの有るまじき姿では無かったと、そして僅かの間で1ドル150円にまで急落してしまい、取り返しのつかない状況に、陥ったと言うのだ。


 もう期限がそこまで来ていた……。

 借金は住宅ローン以外には無かったが、他の銀行口座すらも、持っていなかったと言う。

 みっともない話、誰にも相談出来ない。

 混沌とする中、薄氷を踏む思いの毎日に、実際問題決済日が切迫していた為、一刻の猶予も無い状況に追い遣られていた。


 そして流れ着いた先は、一軒のサラリーマン金融だった。


 それからは世に言う、本当に転がり落ちるのに、時間はあまり掛からず、キックバックの現金すら完全に羽が生え、刹那(せつな)に消え去り、更に、小豆や砂糖にまで手を広げていたのだ。


 そんなフラフラ状態の時に、一軒のサラリーマン金融の会社から言われた一言、何でも一流企業に勤めていれば貸してくれる所があると言われ、しかも一切合切纏(まとめ)てくれる有難い一言だった。


 その時点で三か所のサラリーマン金融から借り進み、それはスタート時の4倍、トータルで約3200万程までに、膨らんでいたのだ。


 本来お金を貸す事が生業(なりわい)の人間が、まさか借りる側の人間になるとは、夢にも想像していなかったと、食事も喉を通らず、厠(かわや)に行けば行ったで、鮮血が迸しる毎日だったと精神的にも肉体的にも、完全に終わっていた。


 その日、事前に連絡をして向かった先は、赤坂見附の交差点から溜池に向かったビルの6階、想像していた雰囲気とは随分と違い、上等な生地で仕立てた様な感じのスーツを着て出て来た男は、名刺を差し出しながら『ミリオン商会の齋藤と言います』事務所は明るくスッキリしていた。


 女性事務員もテキパキとした姿で『東洋銀行にお勤めですか、話は判りました、5千万ですね』

  金額が変わっていた、全く懲こりていなかったのだ。どうせ借りるならばと、自棄(やけ)にもなっていたのかも知れない。


「先ほども言ったように、保証人が必要です、誰方どなたかいますか?」

「それと肝心な返済日ですが、20日か25日に集金に行きますので」

「銀行に来られると、困ります」

「それなら特別に、振込でも構いませんが、必ず守って下さい、約束を破ると大変まずい事になりますので……」

「わかりましたまた、明日連絡します」

「約束は呉々も守ってくださいね、でないと『詰めますから』」


 熊谷にいる実家の父親に頼んだ、仕事上穴を開け、如何せん銀行に戻さないと、職を追われてしまうんだと、翌日、契約書にある保証人の欄には、父親の名前が少し揺れた筆意(ひつい)で埋まり、その後、五反田支店の不正融資は刑事事件として表面化した。


『ミリオン商会』の齋藤の、3番手まで広がっていたのだ。

 梶浦健でもどうする事も出来なかった事を悔いていた。

 たった800万の紙切れ一枚で、人生を棒に振った。高々800万で……。


 それから仕事に専念し、他の事など一切考えずに、梶浦はある意味勇敢だった。小細工するような事はあまり無く、表通りを大きく手を振り、胸を張って正々堂々、恰も明鏡止水(めいきょうしすい)の様に、限りなく木鶏(もっけい)の如く歩いていたのである。


 その頃、新聞やテレビ、週刊誌、ラジオまで有りと凡あらゆる媒体も、連日公定歩合の引き下げの報道に、貸付金利が実質5%から3%に下がると言う。


 そのニュースは全世界を駆け抜け、元銀行マンの体質からか、何を意味するのか、そしてどんな事態を引き起こすのか、先の事は見えないと言えども、金が動くと感じていた。


 『都市銀行』から『地方銀行』『信用金庫』『保険会社』『ノンバンク』に至るまで、日本中全ての金融機関が、極端な話、お金と言うやや茶色がかった、印刷物を誰からと無く貸し始めたのだ。

 それは水道の蛇口から勢い良く流れる水のようでもあり、パッキンが外はずれた出でっぱなしの水は、流れ続けてたのだ。


 しかもその水は溜まる事を恐れる様に流れ、消え逝いく運命となり、利益は二の次で貸付残高をあまた競い合っていたかの様で、

 価値があろうがなかろうが、悄気(しょげる)事など全く無くそれはまるで、徒花(あだばな)が乱れ咲き斑(むら)成る冀望(きぼう)の執念にも似ていた。


 そんな社会情勢の中でも『ゴルフ場開発』と『会員権相場』は群を抜いていた。刷すればお金が入るのだ。極端な話一部300円のパンフレットが3000万円に化ける。

 冷静になればなるほど異常な世界なのだ。裏返すと佐伯の手掛けるパンフレットも、その精度に、一層磨きが増していた事に他ならない。


 金春通りの割烹料理屋から数えて5年、六本木の蕎麦屋で見た涙から僅か3年、梶浦健は別人と思うまでに、進化成長を遂げていた。

 香港のヘンリー・ウオンも良く日本に現れては、すき焼きすき焼きと言うので、良く連れって行っては、色々な話を夜中まで熱く語り合っていた。

 梶浦健も香港の街を、とても気に入っていた。


 『香港はエネルギーが違うんだよね、未だこれからなんだろうなー』


 ヘンリー・ウォンの思っていた通り日本の株式市場が、その姿を徐々に、スマトラのジャングルの奥深くへと進めて行く、もう誰にも理解出来ない領域へと、一斉に大行進を始めたかのように。


 日頃頭から離れない一つにやはり税金問題があり、新しく導入された消費税の3%が重く伸のし掛かっていた。

 梶浦の頭痛の種でもあり、その事で気苦労が絶えなかったが、ヘンリー・ウオンのアイデアで会社の本店を、香港に移すように勧められていた。


 何もかも、世界中で行き場を失くしたお金は泥流(でいりゅう)となり、やがて日本の不動産と株式市場へと一気に流れ込んで行った。

 流れは上から下への、常識は通用しなかった、横からでも斜めからでも、何処からでも流れを作っていた。言わば逆流の時代を象徴していたのかも知れない。


 若い啓介は鱈腹(たらふく)食べたしゃぶしゃぶで、お腹がはち切れんばかりになっていた。

啓介は、一つだけ気になっていた事があった。

それはしゃぶしゃぶのお品書きの中に『オプション〜時価』と別枠で挟んだ一枚をじーっと見つめていた。


 啓介はそもそも元麻布のマンションなど、全く興味が無かったのが本音で、当の梶浦も間取りなど詳しくは話さず、どうせ次元の違うマンションだろうと、勝手に決めていた。ゴルフで疲れていたのもあり、珍しくその日は並木橋のしゃぶしゃぶ屋で、お開きとなった。

 池尻大橋のゴルフショップの経営者も仲間の一人で、梶浦とは特に親しく、ショップの2階が事務所を兼ね、会員権の売買を頻繁に行っていたからで、啓介でさえも流石に判っていた。

 啓介は啓介で父親の勧めと、自分の意思もありつつ千葉に二つと栃木に一つ、合計三ヶ所の会員権を持っていた。地元の信用金庫で借り入れをして購入したゴルフ場だ。


 毎月の返済はそれなりに苦しく、西麻布の『BAR』で賄まかなっていたが、月末はそれなりに往生し、急迫する時も多々あり、定まらない自分の今に信頼性を欠いていたのも正直感じていた。



 ショップの一人が、もたれ掛かる様に、話しかけて来た。

「啓介君は、何処を持っているの?」

「『あれと』『あそこと』『あっちです』」

何と無く金額は知っていたが、知らない振りをして視線を散らしていた。

「そうなんですか、凄いじゃない!」

「そんな事ないですよ、全然興味無いですから」

「え————、でもさー『あれと』『あそこと』『あっち』だと結構行くと思うよ」


 はっきり言って、そんな事はどうでも良かった。

 啓介はこの先の人生をどのように築いて行けば良いのか、漠然と不安がつきまとい、お金の事はそれほど気にしていなかったと言えば嘘になるが、多分本音に近かったと思う。


 ゴルフショップは其れ程広くは無いので、当然だが会話は何処にいても聞こえて来る。

『東京湾横断道路』の工事が着工したらしく、その事で大いに盛り上がっていたのだ、そして、それに伴い梶浦が熱弁を振るっていた。


『成る程そうなのか…』

 何と無く判った様で、梶浦が何をしているのかが、主にゴルフ場の開発をやっている事がその会話の中心にあったから判明したまでで、聞こえてなければ判らずにいたのかも知れず、とりあえず素知らぬ顔で聞いていた。


 啓介は初めて会ったゴルフ場から、ずーっと思っていた事があり、それは梶浦健の喋り方に大きな特徴がある事だ。

 男なのに声が高く、それと同時に変わったイントネーションと言うべきか、訛ってはいないのだが、少しそんな風に聞こえる独特な喋り声で、特別嫌な感じはしないが、暗闇の中で喋っていても直ぐに、梶浦だと判るような、そんな声の持ち主だった。


 話の核心はどうやら、この池尻大橋のゴルフショップの土地を利用して、梶原の計画と上手く合致させて、千葉に一つ大々的に、ゴルフコースを作ると言うのだ。


 其れは商店街のお団子屋さんに、10億ものお金を融資して20階建の複合ビルを作る様な、少し乱暴な感じで、俄かに信じられない話でもある、ゴルフショップの経営者は、会員権の売買では物足らないのか、勝負に出たのだ。

 そこで梶浦の知恵と実績を加味すれば、可能だろうと、そう感じていたのだろう。

 若い啓介には、雰囲気位は判っても実際の中身など理解は出来ず、帰りの車で父親に尋ねると、どうやら本当の話で大分進んでいると言うのだ。


『完成の前には縁故会員で買えるらしいよ!』


 若かしたら、それは空想なのか、はたまた仮想なのかも知れない、実際の価値など何処にあると言うのか、会員券と言う『紙切れ一枚』、そう、現実には何も無いのだ。

 土地がある訳でも無いし、まして金やプラチナの様に、実際にその物が存在しているが、根本的に実物とは乖離(かいり)しているのだ。


 がしかし、その仮想とも言える会員権が、特別な価値を持っているのは間違いない訳で、現実に一枚4億のゴルフ場もあり、そしてその値段は上がりに上がり続けると、仮想の紙切れが担保価値と言う力を手に入れ覚醒すると、更なる階層に押し上げたのだ。


 確かにゴルフ場開発は狂っていると、若い啓介でも感じていたのだから、大人達は相当色めき立っていたに違いないだろう。

 やはり違う価値観なんだと感じていた、すると父親が続ける。


「どうやら梶浦の総資産は『50億』位あるんだとさ」

「えーすごいねー」

「そうだなー、まー、其の分、大変は大変だろうな……」


 天文学的な数字の元麻布のマンション、住む世界が違うとはこう言う世界なんだろうと、その亡霊にも思えるような、梶浦の姿を見た時に、関心事から無関心へと変っていたかも知れない。


 齋藤さんが、今度梶浦健主催のコンペがあるからと、お誘いの連絡があり親子で出向くと、表彰式と引っ越しパーティーを、その天文学的マンションで行うと言のでお邪魔する事となった。


 『想像を遥かに超えていた』


 この世にこんなマンションがあるんだと、450平米と言う広さは、玄関からして宮殿を彷彿させ、部屋に至っては一体いくつあるのか、最後まで判らなかったが、マンションでトイレが4つお風呂が3つある。


 もう訳が分からず、至る所に絵画やら置物などの、骨董品も半端じゃなかったのだ。家の中には庭があり、タバコを吸う人には都合良く、エレベーターは専用になっている、一体どんな設計になっているのか。


 マンションの最上階から更に室内の階段で上に上がると、そこのも部屋があり、完全に迷子になってしまう。そんな気が狂ふれれた、マンションなのか?家なのか?

 正直どうでも良かったし、啓介は羨ましさの欠片も無かった。


 『……おかしいよねー、何だか……』

父親はラウンド疲れとニアピン賞の酒に酔い、気持ち良さそうな寝息が聞こえていた。


        20話


 『人は何とも残酷までに、生き残ろうとするのか』

 遂にこの入院も4週間を過ぎようとしていた。とうとう立派なベテランになっていたのだ。

仮に新しいウイルスが、突如として現れた指揮者の様に、わざとらしく派手に振る舞う姿に揶揄され、元の黙阿弥になろうとも知れない……。


 でもね、寄ってたかって総攻撃を企くわだて、折角ここまで治療が進み、退院の日程までもが決まりかけていると言うのにね……。

『挫折だって覚悟の上さ!』と言いたげなベテランの言葉とは裏腹に、ウイルス自体はその影を潜め着々と奇蹟と言う、夜明けを迎えようとしていた。


 枢要(すうよう)を蝕(むしば)む巨大血栓が、その原型を留とどめないまでに、何と溶け進んでいたのだ。

 それは容積の75%を凌駕(りょうが)するまでに、事実この病院では、過去にたった一人の成功例。


と言っていた『カプセル4錠』


未来を託した『カプセル4錠』


奇蹟を信じた『カプセル4錠』


 そう、見事に勝利したのだ。それはサッカーW杯で、日本が優勝する事に匹敵する奇蹟。今まさに千年の眠りから、目を覚まそうとしていたのである。


 岡田先生が、滑らかにカーテンを開けると、ニコニコした顔で話しかけていた。

「加賀見さん良かったですねー」

「先生のお陰です、本当にありがとうございました」

「もしかしたら本当に、祈りが効いたのかもしれませんね、加賀見さんの念ですよ!念!」

 医師の言葉としては、中々聞けないのかも知れない、はっきり言ってそんな事はどうでも良いのだ。



 「多分この2、3日で、退院出来ると思いますよ」

「いやー嬉しいですよ、ホント」

「そうだ歩いてないので、足が細くなった気がするんです」

「リハビリなので少しずつでも、歩いた方が良いですね」

「敷地の中であれば大丈夫ですよ、ゆっくりと歩いて下さい」

「そうですか、早速歩いてみますね!」

 信じられない会話をしている。


 あの歩けないやら、立てないからすると別人28号になっていた『そうだ!カミさんにもメールをしよう、皆んなにも』


  院内や病院の敷地の中を歩き始めて3日、朝から少し胸が優れずにいた。

「加賀見さん、どうしましたか」

「昨日から何だか、少し具合が悪い感じがするんですよ」

「んー、そうですか、明日退院はどうしますか」

「……どうでしょう?」

「後で採血とレントゲンを撮りましょうか」

「あ、はい、お願いします」


 初めて見る看護師がものの5分足らずで採血を終えると、一階にある放射線科に行き、確しっかりとした足取りでレントゲン室を後にすると、夕食前の4時過ぎには結果も出ていた。


 「加賀見さん、判りましたよ」

「何かありましたか?」

「肺に水が溜まった状態ですね」

「肺に水ですか?」


「そうですね、レントゲンにもはっきりと映っています、ここ、ほらこの辺全体に」

「はー、水ですか……」

「加賀見さん、呼吸器の方で診てもらいましょう」

 翌日、久々の唐沢先生の登場に、カーテンが大きく揺れる。

「加賀見さん、お久しぶりですね」

「肺に水が溜まっていますので、その水を外に出す薬を飲んで頂きますね」

「恐らく3日もすれば良くなると思います」

「そうですか、何だか簡単ですね……」


 唐沢先生曰く、退院の目処がついてから、急に歩いたのが原因なのだと言っていた。そして服用から3日程で肺に溜まった水は消え、完治する手前まで来ているのだ。

 このひと月半の入院生活を、忘れさせ無い為でもあるのか、服車(ふくしゃ)の戒(いまし)めなのかも知れない。


 「明日か明後日か、その辺りの退院と行きましょう!」

「はい、有り難う御座います、本当にお世話になりました!」

「また一ヶ月後に外来に、検査に来てください、予約、入れておきますから」

 夕方、岡田先生が少しニヤついた顔をしながら寄ってくれた。


「加賀見さん、良かったですねー本当に」

「はい、そうですね、皆さんのお陰です!」

「一点お願いしたい事があり、血栓が消えたので『心房細動』の治療を何処かで」

「あー、前に言っていた『アブレーション』ですよね」

「そうです、『カテーテル・アブレーション』の手術です」


「一ヶ月後の検査の後で、日程を決めましょう」

「でも、加賀見さんカテーテル・アブレーションは、素晴らしい治療法ですから」

「そうなんですか?」

「少し前までは治療法として確立されていなかったんですよ」

「どんな手術なんですか?」

「まー、簡単にご説明しますと」

「そうですか、理解出来ますかね?」

「首からと、足の付け根ですね、その三ヶ所から管くだを入れて、そう合計5本入ります」

「足の付け根?ですか?、5本?」


 強烈だった採血7本、あの時の研修生の顔が浮かぶ。


「心臓の表面を、こーなんですかねー『半田ゴテ』みたいに焼くんですよ」

「えっ!、はー、半田ゴテ、やー、焼くんですか?」

「そうですね、焼くんです、時間にして大体6、7時間ですかね、手術時間そのものは」

「先生、その焼く範囲と言うのか、エリア的にはどんな感じなんですか?」

「加賀見さんの場合でしたら、恐らく4、50箇所でしょうか」

「そんなに焼くんですか?凄い技術ですね」


 早速、カミさんにLINEをすると、超特急で返信があり、とっても慶よろこんでいるのが文面からも伝わり、約ひと月半に於ける入院治療、紆余曲折を経て、本当に様々な事で埋め尽くされていた。



 一言では言い表せないオンパレード。実際の所、生きていると言う事実がその総てで、延べにすると一体何人の先生や、看護師の皆さんに助けて貰った事か、そして、どんだけの薬に命を救われたと言うのか、数え上げればキリがない。


 平岡先生から始まった命旅いのちたび、生きると言う単純な行いと正反対の残酷、剥むき出しにされた生存への執着は、結果として生きる事を選択したのだ。


 滑稽な苦笑にも似ていた。急に『おまる』との生活の中で感じた日常の彼是あれこれが、懐かしい思い出になりかけていた。再び命を授かる事になった今、ベッドでこの上ない喜びを噛み締めていると、少なからず季節を一つ推し移し、スマホのニュースが早々と秋刀魚の漁獲量を映していた。


 看護師の歌さん、何だか、昔懐かしい同級生に再会した時のように感じていた。


「加賀見さん、退院が決まったみたいですね、おめでとう御座います」

「ありがとう、色々とお世話になりました」

「本当に、大変でしたからね、良く頑張りました!エライ、エライ!」


 何だか小学生の頃に、学校の先生に褒められて以来かも知れないなと、実際この歳になって、人に褒められるとは夢にも思っていなかったからで、そう例えるならば、100点満点の答案用紙に花マルを貰い、嬉しそうに笑顔を浮かべた小学3年生!

 そんな気分になって、実際探せば、そんな色の変わった答案用紙が、何処からとも無く出て来るのかも知れない。


「鈴木さんは、今日いますかね?」

「どうでしょうかね、今日は未だ見てないですね」

「いや、別にいいですから」

「鈴木さん、人気がありますからね!」

「歌さんは、たまには佐渡に帰るんですか?」

「あ、はい、でもこの仕事柄ですか、長いお休みが無くて、しかも不規則ですから」

「そうなんだ、……」

「そうですね、人手不足なんですよ、もう日本中の病院がそうですね……」

「そうだよねー、大変だよねー、ホント今回の入院で判りますよ、それは!」


 退院と言う、輝かしい未来の扉を開いて、再びこの足で歩き始めようとしている、すると突然身体と脳が喋り出し、何か甘い物をくれと言い出していた。


 自に訊ねて見ると、思い浮かんでいた。

『シュークリーム?』

『チョコレートだろう』

『プリン?』

『フルーツケーキかな』

『そうだ、禁断の売店に行こう!』


 入院中は、甘い物など考える余裕すら全く無かったし、人間の基本とされる尊厳の一つ、食べる事もままならない状態だったからで、絶食から始まった初日から考えると、離乳食以下の食事に希望を抱き、段々と増えて行くご飯の質と量、其れこそ今では自由に食べることを想像し、実際に食る事も手に入れたのだ。


 何だろう、病気が元気を齎もたらすのか。

 正直変な気もするが、そう言う事なのかも知れない、もう身体を這うケーブルも消え、点滴の針も取れた、何よりこの二本の足で歩いている。

光る廊下を自分の足で歩き、エレベーターに乗り、院内全体を噛み締める様にして、1階にある売店に軽やかに向かっていた。


 困った。現実問題、久しぶりの買い物に少々戸惑いを隠せず、タイムマシーンに乗り、違う惑星に降り立ち、別の星にいる様な気分になっている。

 やはり一ヶ月以上、現実社会と関係を絶っていた訳で、千円札一枚ですらそう、お金を持った事すら不思議な感覚なのだ。


 やや冷気が漂う陳列棚には、キラメク甘美の世界が無限に広がり、そこからは、おもちゃ箱を引っ繰り返した様に一斉に声が聴こえる。


『私よ!、私、何を言ってるの私よ、いやいや僕だよ!』

『やっぱり、シュークリームかなー』

シュークリームの声がダブって聴こえ来ていた。

『どう?どう?、美味しそうでしょ!美味しそうでしょ!』


 手に取ったシュークリームは、二種類で構成されている。

 そう、ホワイトクリームと、カスタードクリームだ。二つの甘い陶酔は、自らの命を捧げるかの様に、加賀見啓介の心と身体を、ある意味、甦らそうとしているのだ。


 しかも驚いた事に、その手が更に『プリン』も手にしていたのだ。


『そうだ、コーヒーも買おう!』

『ピー、———358円です』

 今まで生きて来てシュークリーム一つで、ここまで盛り上がった事は絶対に無いだろう。


『本当に嬉しかった!』

 三ツ星のパティシエが作るデザートは、もっと素晴らしいのかも知れない。でも今は、358円で手にした世界が恐らく、この惑星で最も最強な甘美なのだろう。


『よし!何処で食べるかなー、そうだ!外のベンチにしよう!』


 病院の正面玄関を目指して歩くと、そこには、どうだろうか、ざっと、300人程老若男女ろうにゃくなんにょの顔、顔、顔。


 『凄いなー』当然、ここにいらっしゃる方は、何かしらの病気を抱えているのだ。

 歌さんの言葉も一緒になっていた、日本が抱える大きな問題が目の前で展開していた。

 医師や、看護師が不足しているのだ。そんな中でも、確実に増え続ける事間違いなしであろう、誰もが必ずや通る道『病気と高齢者問題』がある。

 様々な要因が含まれているだろうし、決して簡単な事では無いのだろうと思う。


 複雑な気持ちを抱えながら、正面玄関から外に出た瞬間に、キラキラと光る眩しい太陽が放射状に広がっていた、その放射状から溢れんばかりの粒を浴びた。

 降り注ぐ健全なエネルギーを顔全体に感じると、太陽が『良かったね!退院おめでとう!』と聞こえた気がした。

 芝生を少し歩いてベンチに腰掛けると、煌きらめく甘味の世界『シュークリーム』と『プリン』と『コーヒー』を、それはまるで兎が木の実を少しずつ削って頬張る様に、本当に少しず味わいながら口に運んでいた。


『旨い!、おほー、旨い、なんて美味しいんだろう……カスタードが溢こぼれてヤンキースに落ちた』


        21話びつづく


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