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死にたいと思ったことなんて1度もなかった


死にたい、って、
1番思っちゃダメなことだと思っていた。

思っちゃダメだと強く強く思っていたのは、
そう思っていないと、死にたくなるからだった。

25年。

プツンと糸が切れたように、

あ、死のうと思った。


誕生日。

会社がたまたま休みで、そういうことかと思った。




私が1度も死にたいと思わなかったのは、強迫観念だ。

父母は高齢で、幼い頃、祖父母から語り継がれた戦争の話をよく聞いた。
祖父が銃で撃たれた話を何度も聞いた。

戦争の映画を何本も見た。家族と、恋人と、離れ離れになって死んでいくシーンをいっぱい見た。長澤まさみさんが出ていた広島原爆のドラマを見てからは、眠れなくなった。

「今は平和だから、感謝することを忘れてはいけない」と毎日教わった。私自身心からそう思った。

感謝することを忘れたら原爆が落ちる、そんなことを父は言った。それから、美味しいものを食べる度に、欲しいものを買う度に、原爆の映像が、焼け焦げた人達が頭に浮かんだ。


「誰の命も守れず、ただ消費活動をする自分」
その事実に吐きそうになるときは、感謝をして、何かしらを頑張った。

幸せに、懸命に生きることで、亡くなった人達が見ているかもしれない空の下をやっと歩けた。それにもし「死にたい」なんて言えば、予定より短い寿命であの世に連れて行かれるとも思った。父の言うように、原爆が落ちるかもしれない、と。



中学の同級生が「死にたい」と言うのをよく聞いた。
笑いながら言う子もいた。

人に愛を求める「死にたい」
頑張っていないことを直視しないための「死にたい」
悲しいことが、苦しいことから逃げる「死にたい」

大人になるにつれて、強くなって、「いただきます」の意味を理解して、
言わなくなると思っていた。


大学生になって、私は消費活動を楽しんだ。私も、美味しいものを食べたかったし、欲しいものは欲しかったから。原爆の幻影を無理やり消して、多く消費した。毎日感謝をして、それでもたまに恐怖は襲ってきた。

「死にたい」は大学生になっても耳にした。人格障害が「メンヘラ」という俗語となって流通するようになった当時、梨園泰クラスでソシオパスが有名になる前、パロディのような「死にたい」と、SOSの「死にたい」が入り交ざる時代に、私の思考は更に忙しくなった。


半年くらい前、14年間続けてきた研究を終えた。
人間に関する研究だった。

「THE 27 CLUB」より少し若いが、「人生の節目が25歳」という研究を多く見てきたせいか、私は第一人生は25歳までだと思って生きてきた。無意識に、それに合わせて研究を終わらせたのかもしれない。

命題を抱えて生きるのはしんどかった。
やっと解放されるなあ、と思った。

でも、私にはもう命題を抱えない生き方が分からなくなっていた。
そして次第に、あれこれ考えた14年間を後悔し始めた。


で、



私が生きてる意味って?


結局今も私はちっぽけなまま、誰の命も救えず、消費活動をし続けている。だんだん、昔より感謝することを忘れていることにも気付いていた。

知らないことを知らないまま、属したコミュニティに守られて消費活動をし続けて生きるのには、私には限界があった。



生とか死とか、幸せとか、
生きることに対する思考が、
ずっと、ずっと、ずっとあったし、



今も消えない。




疲れた。





異常な怖がりだった。死も苦しいも熱いも痛いも。
震えて動けなくなる。

だから、

もし、もし原爆が落ちないのなら、
苦しくも熱くもないのなら、
このまま消えたいと、ふと思った。

「思っちゃダメだ」
強迫観念に逆らう力もなくなっていた。


毎日思って、


親に、母に、言ってみようかと思った。分かってはいたけれど、分かってはいるつもりだったけれど、

「甘え」と言われた。

もう、甘えたかった。

それから父から、長いLINEがきた。
私に追い討ちをかけるような言葉たちが並んでいた。


親は、人は変わらない。



助けてくれそうな第三者に話したところで、人の注目を集めるための「死にたい」でなければ何の意味もない。


「死にたい」「消えたい」


25年間1度も思ったことがなかったそれらは、24時間、目覚めてから寝るまで、半年以上、雪崩のように襲ってきた。ただ強迫観念というストッパーで止められていただけだった。


私は一人っ子で姉妹はいないが、仲の良い従姉妹がいる。彼女は、たぶん幾度か死のうとした。摂食障害と、手首には今も傷痕が残っていて、たぶんたまに更新されている。

彼女に電話をしたら、やっぱり身体を傷つけることを勧められた。

震えてできなかった。
怖い。何より血が怖い。
そのまま過呼吸を起こして、寝た。

自殺する人は「あ、今電車に飛び込んだら明日会社に行かなくていいんだ」と、一瞬らしい。コンビニに行くような感覚なのかもしれないし、考える隙も生ませない衝動なのかもしれない。

私はそんな感覚ではなくて、怖がりで、世の中にはもっと苦しい人がいて、「死にたい」と言うのも、「死にたい」と言う人の気持ちを「分かるよ」と言うことは桁違いで、やっぱり甘えだと思った。

寝る時間と、人に会う時間だけが考えなくていい時間だったから、寝続けた。人に会うには限界がある。
起きていれば、考えるか、泣くか、過呼吸だった。

竹内結子さんが亡くなったニュースを見た。気丈で、芯のある女性で、面倒見の良い差し入れ女王が一瞬で亡くなってしまった。

みんな「自分が助けられそうな人」を助ける。絶対にクリアできないゲームではなく、そこそこ頑張れば達成できそうなゲームにハマる。

竹内さんは多くの人に会っていたけれど、死にたいと思っていなさそうな人を、「助けて」と言わない人を、どのタイミングで、どう助けたらいいかを認知して実行するには、あまりにレベルが高すぎる。

彼女は、レベルが高すぎたんだと思った。

安いフリでわざと迷惑をかける人達と比べて、なんて強くてかっこいいんだ、と一瞬思った。でも、多くの人を悲しませて、一生消えない傷を負わせたのは全然、全然かっこよくない。

だから、ただ悲しくなった。

苦しかっただろうなと思った。

私は竹内さんほど辛くない。




愛の不時着を見た。
人生最高のドラマだった。

4人の兵士が大好きだった。
ダンもクスンジュンも村の人も大好きだった。
何より、リジョンヒョクが大好きだった。本気で恋をした。
昔、君に届けの風早くんもそうだった。

それから、絶望が襲ってきた。

一途な恋愛物語がヒットする世の中で、人は「この人は運命の人じゃないんだろうな」と思いながら自分が欲しいものを恋愛で消費する。
欲にまみれた資本主義の消費社会に、改めて絶望した。

理想と現実を区別しているのは自分なのに、
理想が叶わないと嘆く矛盾人ばかり。
理想は、信念は、一瞬の欲に敵わないと笑う。


吐き気がする。


世の中が求めているのは、愛の不時着なのに。
いや、、、だから、愛の不時着なのか。



私だけ、ずっとどこかで夢を見ている。



疲れた。







誕生日、海に来た。

もし私が死んだら、親は、特に母は狂うだろうなと思った。
後を追うかもしれない。父は昇華して生きていくだろうなと思った。

友達との予定がキャンセルになるの、申し訳ないなと思った。

親から、友達から、知り合いから、LINEが来ていた。
毎年思う、私の誕生日を覚えていてくれて、「おめでとう」と打つ時間を割いてくれたことが嬉しい。もうずっと、何年もくれる人もいる。

幸せでいてほしい、強く、強く思う。

「この人たちに何かあったら私が守る」いつもはそう思うけれど、もう守れないし、守らなくてもきっと幸せに生きていける人たちばかりだと思った。

「私が守る」そう思うから、生きていけた。
ずっと守られているのは私のほうだなんて、気付いていた。

私の生きている価値は?



初めて死にたいなんて思ったから、津波が襲ってくるかもしれないと思った。そしたら、街の人達を巻き込んでしまうから申し訳ないと思った。

笑顔の素敵な警察官がいた。私が溺れたら、お兄さんは助けざるを得ないのだろうか。その場所は避けよう、と思った。


こんなことを考えられるなんて、私元気だなあと思った。



海岸は寒かった。
海の水は冷たすぎた。

熱いのは嫌だけど、冷たいのも嫌だなと思った。

少し砂浜に戻ったところで、
強迫観念に襲われて立てなくなった。
何度も何度も苦しめられてきた思考。
もう、消えてくれないかなあ。。









今、近くのゲストハウスにいる。

私に死ぬ勇気なんてないし、最初からそれも分かっていた。


難しいよね。

どこからがSOSで、どこからが甘えか。


「死にたい」で集まる愛なんていらないし、
「死にたい」で頑張っていないことを正当化したくないし、
「死にたい」で悲しいことから、苦しいことから逃げられる訳ない。


でも、「死にたい」と思うことで「楽」は手に入る。


でも、だから、一度「死にたい」の「楽」に浸って、
逃げ癖がついてしまうのが怖かった。
そして、そのうち本当に死にたくなるのも怖かった。
みんな、そうなってるから。



結局、私は弱い。



ばっかばかしい。



ばっかばかしい!!!




でも、楽になれたから、10年に1回くらいは思ってもいいんじゃないかなと思った。今日、津波が来ないことが分かったから。

どうか26歳の誕生日が、
新しい自分の誕生日でありますようにと思った。

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