久しぶりに普通の読み物としての本を買った。最近は写真のレタッチの参考書とか、そういった本しか買っていなかった。

オードリー若林正恭さんの「ナナメの夕暮れ」。まだ読み終わってはいないので、感想を書くことは出来ない。そもそも書く気もない。

文章を読むのは、小さい頃から好きだった。休み時間には教室でゆっくり本を読む方だった。たまに昼休みにクラス全員でドッジボールをしようという日があって、その日の昼休みは死ぬほど嫌いだった。ドッジボールは楽しくなかった。シャーロック・ホームズや明智小五郎の推理を聞く方が好きだった。

20歳前後になって自分でも簡単な文章を書くようになった。今はもう削除したTwitterのアカウントで、フォロワーに簡単なショートストーリーをプレゼントした時に評判が良かったことが原因だった。自分には文才があるかもしれない、馬鹿だとはおもうが、そう意識していたのだと思う。

その頃からだったかどうかは定かではないが、少しずつ、物語の面白さではなく、文章の面白さを意識するようになった。単純に本の内容、ストーリーを楽しむことに合わせ、作者の書き方や、伏線の張り方、言葉の使い方や、選ぶ単語の癖を楽しむようになった。そういった、作者が読み手に伝えるために施した施行に目を配るようになった。

これはいいことではないと思っている。僕の個人的な感覚だが、本質的に本を楽しむためにはそこ(作者の施行)をなるべく意識しないようにするべきだと思っている。そういった作家の小技はあくまで僕らに本の内容、ストーリーを効果的に見せるための演出だ。演出は、見ている人が演出だと意識しなければしないほど良いというのが僕の自論。タレントが持つキャラクターは、それを彼(彼女)が演じていると、視聴者に気づかれなければ気づかれないほど、いい。

そう意識し始めた頃から、本を買わなくなった。昔はあんなに好きだったのに、贔屓の作家の最新刊もほったらかしている。読んでみたいとは思うのだが、少し疲れてしまう気がする。作者の細かい施行に気づきたくないのに気づいてしまう上に、それを元に考え込んでしまう。それが本の持つ魅力をちゃんと受け取れていない気がするというもやもやに繋がっていくようにも思えるのだ。何となくそれが本をレジに持っていく動作にストップをかける。

ナナメの夕暮れを手に取ったのは、ほんの出来心だった。正直なところ、最初に本屋に入った時は、最果タヒさんの詩集を買ってみようかなと思っていた。それも、最近すごく話題だしsnsのフォロワーにファンが多いから何となく気になっていた、という、ある意味どうしようもない理由だった。

オードリーさんの漫才は好きだし、若林さんのmcの番組は見ていた。本を出されたことも知っていたが、読んでみようという気にはなっていなかった。

結論からいえば、最果タヒさんの詩集がTSUTAYAの本棚から見つけられなかったから、代わりに購入したのがナナメの夕暮れだった。店員さんに聞けばあっさり見つかったのかもしれないが、そこまでタヒさんの詩集を求めてはいなかった。よって棚の1番上に平置きされていたナナメの夕暮れを手に取って読んでみることにした。

ちなみにエッセイを読むのは初めてだ。
鼻から、代わりとして購入した本だ。あまり重く考えず、気楽に読んでいこうと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?