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#5 にんげんをわらわせる

2月の後半は、重度の中耳炎やらいまだに完治しない風邪やらでなかなか大変だった。何か生き霊でもついてるんじゃないかと思うくらいガタガタと体調が崩れた。溜まった負を清算しているみたいだ。大学生のころは、一人暮らしの体調不良は本当に心細いししんどいしでピーピー泣いていたのだが、ここ数年色々あって大成長したのでたいして動揺もしなくなった。

さてそんなことになる少し前、遡って2月の半ば、私はちいさな子供と遊ぶ機会があった。子供は賢くて面白い。毎日たくさんのことを学んで成長しているのだなと思うと、起きている間に触れるもの全て彼らにとって有意義なものであって欲しいと願ってしまう。子供と実際に遊べば遊ぶほど、この子達にとって人と直接目を見てコミュニケーションを取ることや、実際にものに触れて全身を動かして遊ぶことの重要さを思い知る。そして同時に、アニメやネットばかりの環境で育った子供たちはどうなるんだろうと心配になる。これは子供たちの責任ではなく、私たち大人の責任だ。

この子はまだ、おもちゃのスイッチを上から下にしかスライドできないんだなとか、それは嫌だと伝えたらきちんと伝わって少し気まずそうにするんだなとか、擬音でこんなに子供は笑うんだなとか、言葉をまだ話せなくても何がしたいか伝えられるんだなとか、そういう小さい気づきがとても面白かった。何が楽しいのか、繰り返し同じことで笑う彼らに、思わずこっちも笑ってしまう。馬鹿みたいに可愛い、偉大すぎる。返ってくる反応が楽しくて、どうやったら笑うだろうかと色々試してしまう。これってなんだか大人と「会話」しているよりよっぽど「コミュニケーションをとる」と言う言葉に近い気がする。

子供の前だと、私は普段こんなことしています、こんなすごいことを成し遂げました、とか自分を飾る言葉は全く役に立たない。むき身でその場に放り出されて試されている感じがちょっと楽しかった。「今」目の前のこの子を楽しませられるか、「今」目の前のこの子を笑わせられるか、ただそれだけ。大人の世界で繰り返される「説明」はここでは不要だ。子供はずっと目の前の人をよく見ている。

私は一応イラストレーターなので、子供むけにいずれ絵本やアニメーションを作りたいとか思っていたのだが、子供と遊んでいるうちに、この子達に必要なものって、画面や紙の中じゃなくて外にあるのではなんて思ってしまう。私がせっせと家にこもって絵本を書いている時間に、外に一緒に遊びに行ってツルツルの泥団子一つ作ることの方がよっぽど「子供のため」なんじゃないかとか思ってしまった。私のしたいことってなんだろう。「子供のため」と言いながら、本当はほとんど自分のためなんだろうな。

とはいえ、この世には素晴らしい絵本が存在することは確かなので、何事もバランスだ。ただ、絵本を描くなら、目の前に子供がいなきゃだめだなとは思う。大人が頭で「これはいい」と思っても、子供の心が「これは面白い!」と感じなきゃどうしようもない。

「いい絵本」を描けるようになるには、まだ少し人生経験が足りないのでまだしばらく放浪していたいと思う。今の私には、SNS上で不特定多数の誰かを笑わせるよりも、目の前の人間1人笑わせる方が少しだけ大事だし難しくて面白いのである。


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