消えゆく光

僕は小学二年生の時に両親が離婚した。父親にどっちについて行くのかと聞かれ、僕は即答で父親と答えた。その時の僕は父親がおもちゃを買ってくれるからとかいう理由で決めてしまい、結局父親の方で引き取ることになった。それからというもの父親と2人暮らしは大変だったようで僕が小学三年生の時に新しいお母さんを向かい入れることになった。でも、そのお義母さんからの虐待がひどく、僕の精神は日に日に限界に近くなっていった。食欲も無くし、何もしたくなくなった。それが5年も続いた。
僕が中学2年生の時その当時飼っていたワンコの散歩に行くといい、家を出た。ひたすらまっすぐ、ただ無心で歩いた。気づいた頃には全く知らないところにきていて、どうしたらいいのか自分も分からず、
近くの公園のベンチに腰掛け、ワンコにお水をあげた。ちなみにワンコの名前は「そら」といいます。
そらは公園に腰掛けた僕に飛び乗ってきた。僕は静かに抱きしめた。その途端、涙が溢れ出た。今までの感情が溢れ出てしまった。その涙をそらが静かに舐めてくれた。僕はそらが居てくれかったら、今頃どうしてたんだろ。ほんとにそらがいてくれて良かった。結局来た道を、引き返し、おじいちゃんの家に行った。着いた時は朝の五時だった。さすがに迷惑だと思い、家には入らず、玄関の前で座り込み、寝てしまった。何分寝たんだろう分からないけど、そんなに時間はたっていなかったと思う。気づいたらパトカーにいた。何が何だかだった。パトカーの中で警察の方が「みんな血眼になって探したんだよもうこんなことしちゃダメだよ」と言われた。虐待されてたと言えば良かったのかもしれないが、言えなかった。結局そのまま家に帰され、父親にこっぴどく叱られた。家出したから少しは母親もわかってくれると思ってた。でも、何も変わらなかった。それから夏休みに入った時だった、家の近くに児童館があり、そこによく行っていた。その日も児童館に行っていた、その時そこの職員さんが、「〜くんお母さんから電話が」と言われた。なんでだろ普通になら児童館に来てお使いとか頼まれるのに、恐る恐るでた。すると、聞いたことのある声、懐かしい声が聞こえた。実の母からだった。僕は泣きそうなのを堪え、生唾を飲んだ。「もしもし」と言うと、母は
「久しぶり。ちゃんとご飯食べてる?」だった。その言葉で崩れ落ちるように泣いてしまった。母は続けて、「近くの公園で待ってるから10分後きて」と母は言った。僕はそのまま児童館を後にし、公園へ向かった。すると、あの頃から何も変わっておらず、約10年振りにあった母は小さい頃からの母だったが、少し痩せたようにも見えた。そうして、2人抱きしめ合って、そのまま近くのベンチに腰かけた。
そこで僕の近況などを聞かれ、母に義母に虐待されてることを話した。すると、母は「うんじいじから聞いてる」と言われた。じいじというのは僕のおじいちゃんのことだ。母は「明日児相にいってくるそれで、あの義母のことを話してくるからまた明日夕方になるかもだけど、16時頃ここにまたくるから」と言われた。次の日の夕方待っていたが、母はこなかった。いくら待ってもこなかった。その次の日母は交通事故で亡くなった。僕は頭が真っ白になった。
希望の光が消えた。こんなにも近くに光があったと思ったのに。この地獄から解放されると思ったのに。僕はその後親戚の家に引き取られ、高校卒業まで過ごした。その期間は今までとは比べ物にならないくらい幸せだった。僕は高校卒業後、一人暮らしをして、専門学校へ行き、今現在、就職し、社会人として働いている。今父や義母がどうなっているのかは分からない。が二度と会いたくないと思う。お母さんありがとう。僕の事を助けてくれて救ってくれて。この恩は一生忘れません。最後に読者のみなさんに言わせてください。人間は弱いです。今近くに大切な人、家族、との時間1日1日を大切に。弱音は吐いていいんです。吐くために弱音はあるんです。逃げたいと思えば逃げていいんです。逃げて自分の気が済むまで楽しいこと、興味のあることたくさん見つけてください。幸せという文字を1本抜けば辛いになる。何がが欠けたらダメなんです。とある芸能人が言ってました。僕はいつも母の命日になるとカーネーションを贈っています。

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