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絶対善の難しさ

 昨日、下記の本を読了しました。

 この話題、元首相を襲撃した人物が宗教二世であったことから、注目を集め、その後、宗派を超え、宗教二世からさまざまな声が上がるようになっており、本も何冊か出版されています。

 この本は、いわゆるカルト宗教から、戦後に急成長した新興の宗教教団、伝統仏教教団の寺院まで、さまざまな宗派の「二世」が登場しています。

 カルト宗教の定義は、非常に難しく、新興宗教のどのへんまでを、「カルト」と定義するのかは、人の価値観次第という感じがしますが、収入や資産に見合わない多額の献金をさせられ、家計が火の車になり、子どもの教育費用さえ出せないというのは、やはり度を越しているのだと思います。

 僕も、新興の宗教教団の幹部の人が知り合いにいますが、この人、以前は自分の支部(?)の目標達成のために、多額の借金をしており、入り口の部分では教義に惹かれて入信しても、幹部になると、組織を背負うことになり、教えを学ぶだけではなく、運営の責任も担わされる、これを生き甲斐とする考え方もあるのでしょうが、借金してまで献金というのは、やはり行き過ぎのような気がします。

 二世問題は、価値観を強要される、親の信じる道に道連れにされるということであり、信じていないものを、親子という断ちがたい関係の中で、信じているふりをするにせよ、信じることから離れるにせよ、親子関係がギスギスすることは明らかであり、これは親の保護下にある子どもにとっては、大変なストレスでしょう。

 とはいえ、伝統仏教の寺院の跡継ぎ問題であれば、世間的な受け止めとしては、「それはお寺に生まれて、地域にお世話になってきたのだから仕方ないでしょう」という感じになります。このため、むしろこうしたケースの方が、子どもの価値観が合わないとき、おそらく親戚一同や地域の人は親の味方でしょうし、外部からの救いの手が差し伸びられる可能性が少ないため、苦しみは内に籠り、精神的孤立感は、より深いのではないかと、この本を読んで感じました。

 寺院と跡継ぎというのは、伝統工芸とか、歴史のある企業、農家などと同様に、地域に当たり前のように存在し、将来にわたっての存続が、第三者から無責任に期待されているわけですが、教えを信じて人に伝えるのが基本の役回りであるため、肝心の教えに対する自分の思いがないのに、人の導くことなどできず、周囲の都合だけで引き受けることはできないのは、よく理解できます。

 伝統教団はそれほどでもないですが、宗教の多くは、「インナーの人間だけが救われる」という教義を持ち、このままだと救いから漏れる、かわいそうな外部の人間を、いかにして、一人でも入信させてインナーの人間にするか、端的に言えばそこにかかっているように思います。

 この、絶対善の思考は、自らを縛る軛となり、信仰を揺るがさないために、教義にあわない教えや価値観の一切は、検証せずに捨ててしまうことを求めています。

 何かを信じたり、心の拠り所にしないと、生きてはいけないのが人間ですので、宗教は必要なのでしょうが、多くの宗派は、唯一の救済機関としての絶対善を掲げているので、信仰の吸引力は無限大であり、いずれはすべてを擲つことが、唯一の善となってしまいます。

 このへん、現実との折り合いをうまくつけている人は、最後のところでガラス越しに信仰を眺めることで、絶対善に取り込まれることなく、かといってはじき出されることなく、信仰を続けられる、そういう意味では、信仰の世界も、社会の縮図といえるかもしれません。


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