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信仰に対する距離感を3千字で語る

 リアルと紐づけていると、いろんな意味で書けない、僕自身の信仰に関することを書きます。
 これは現状の自分の中途半端な信仰に対する状況を、いったん総括する意味もあります。

 僕自身は生まれたときから祖父が僧職であったこともあり、他人より信仰との距離は近かったように思います。とはいえ高校までの僕にとっては、信仰は自分を構成する要素の一つで、目立たないアクセサリーでした。

 大学に入り、信仰にかかわる活動をするようになり、そこで自分の構成要素である、祖父が僧職にあることの存在価値が高まりました。本が好きなところは隔世遺伝と言われ、親近感を抱いていたところもあり、祖父のことを意識して、信仰を自分の中心的な要素にしようと考えるようになりました。

 とはいえ、バランス感覚がはたらき、何か一生の生業として信仰をささげることへの違和感は残りつづけ、そこは距離感を持ち学生生活を終え、就職環境の厳しいところでも、そういた信仰にささげる生活の延長はせずに、ふつうに世俗の組織に入り仕事をすることにしました。

 今でいう「陰キャ」キャラの僕でしたが、信仰の活動における役割を担う中で変化し、社会に出たときにはある程度、コミュニケーション能力の高い人間になっていました。

 その後は独自のコミュ力を磨き、バランス感覚とデスクワークの水準が評価されて、いろいろ任され、そこに人が寄せてきて、人の輪の力が自分の力を増幅させることで、自分なりの立ち位置を確保し、尊厳を持って仕事のできるポジションを得られており、途中、メンタルがやられても、根源的なところは揺るがずに、大事な局面での起用と社内リスキリングを行き来しつつ、階段をのぼってきたところです。

 さて、この間の信仰ですが、信仰は本来、中途半端なところでとどまることは許されず、人に道を勧める以上、自分は針となり進み続ける必要があります。

 このへん、20代のときには車の両輪といえるぐらい、仕事と信仰を両立させていたわけで、家族ができてからもしばらくはこの両輪により前に進んでいたわけですが、信仰には精神的な傾注に加え、身体的な奉仕と、金銭的な貢献が、尺度として求められることもあり、そこは信仰の集まりにおいて相応の立ち位置を確保すべく、費やしていました。

 信仰の集まりは中心には生業として生涯をささげる人たちが存在し、そこを師範とする以上、少なくとも集まりの中での立ち位置を確保し、人間関係を維持するには、その共同体の一員としての価値観を持っていることを表明すべく、信仰中枢の人に対する敬意を持ちつつ、僕自身も中心に信仰を据えた生活をすることになります。

 そして、世間的に生きていくためには、仕事をはじめとする雑事に追われることは遺憾ではあるが、中心核にある人たちのような信仰的情熱に至らない自分であるから、過渡期としての必要悪であるというような感じで、常に評価軸は信仰において、万事差配することが求められます。

 ただ、この10年ぐらいは、僕自身の中の信仰は空虚であり、外形的に見える張りぼてのような信仰の看板を掲げていたに過ぎないと感じます。

 仲間がほしくて、程よい立ち位置も気に入っていたということもあります。ただ、家族が増えてくると、信仰中枢の要請として、家族を巻き込むことがあるべき姿という雰囲気になってきます。

 信仰の活動の中に入ると、みな、良き人たちではありますので、いつまでもお付き合いはしたいところですが、信仰は集まりを正当化するための補強だけがなされているようで、肝心なところは秘密主義。

 世間の組織に属していて、都合の悪いところを見せず、そうしたことに関心を持つことが信仰にとって悪と位置付けていることに対し、違和感を覚えるようになりました。

 現実問題として、信仰的目標はどんどん遠ざかり、今は集まりの人たちも、遠い目標でもなるべく前に進み、生きている間に自分の努力によりとんでもない当たりくじを頂けるかもしれないという期待感を維持して、何とかモチベーションを保っているように思います。

 いや、率直に言えば、費やしたものの大きさに比例して、今さら引き返せないという心理、いろんなものを犠牲にして得てきた信仰上の立ち位置、、仲間の間で尊厳を持って振る舞えることを、信仰の深さの裏返しと自らを評価できる安心感、こうしたものが作り上げているのが信仰心であり、
これらが構成要素である以上、信仰の集まりとはいえ、存続ありきで行動し、価値観の源泉を握っている信仰中枢の言いなりにならざるを得ないが、引いて見ると、これが健全とは思えない。

 立ち位置の心地よさとか仲間内での尊厳とかは捨てて、最低限の関与により、信仰とのつながりを辛うじて維持しているのが、自分の現在の姿になります。

 今の僕は、信仰の中枢からすると、かつては強い信仰をもち活動していたが、最近は世事に追われ信仰心が弱まり活動を後退させている、かわいそうな人、少しでも前向きにさせることが、大事であるという共通認識のもと、僕に対するアプローチがなされていると思います。

 ただ、僕自身も活動の中枢にあったときに、同じようなアプローチをしましたが、もう少しうまくやれないものかなと思ってしまいます。仕方ないのかもしれませんが、お金の話が多い。

 信仰を高めてその裏返しとして金銭的貢献を求める、これは理想論であって、現実には人間関係の絆の強さ、アプローチをする側に対する信頼関係が、信仰の活動への参加や、金銭的貢献になるはずです。

 特に最近は、信仰の中枢の繰り出す献金策というのは、前の焼き直しのようなものが多く、それ自体が中枢の弱体化を表しているのでしょうし、そこに人生をかけるものを見出せないと思うのは、時間価値が上がっている人間にとっては、当然の心理といえます。

 これを、信仰の障りと捉え、信仰上の敗者扱いにする。世俗に負けないためには、仲間と連れが大事、家族が増えれば家族を巻き込むことを是とし家族全体で絡めとることで、信仰の中枢と一体化させられる、そこは血管がつながるようなもので、安定的な基盤になります。

 信仰を軽んじることは、信仰を持つ人間には、自分の人生を軽んじることと同義であり、まっとうな人間なら、そこを肯定して突き進むことはできないので、信仰自体を否定するか、外に見せる信仰の看板を用意して、とりあえず最低限の整合だけ取っておく、どちらかしかありません。

 信仰の否定は、集まりの中で行うことはすさまじいエネルギーを使うことになり、基本は出ていくことになるのでしょうが、まだ、そこには思い至らないところです。

 ただ、あまりに組織防衛の過ぎるような発信が続くと、人生の大逆転を可能にする信仰体験の宝くじがあることも、信じられなくなってしまいます。

 まあ、確かにこれまで、人生のある局面では、多くの経験と人間的成長をもたらし、自分の価値を感じられる舞台を用意していただいたわけで、信仰に感謝する面は大きいのですが、屋台骨が揺らいでいる中で、それを支える役回りを担うかと言われれば、引いてみると、そこはおかしいでしょうと思います。

 とりあえず、及第点スレスレの関係を維持しつつ、この信仰というものに、付き合っていきたいと思います。基本的なコンセプトは、そんなに悪いものではないと、感じていますので。

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