食事会の話題探しにて
「個人用設定」と名の付く通り、PCの壁紙を何にしようと、他の誰の気にするところでもない。そこで私は自戒を込めて、美少女ゲームの、自分の心が抉られた場面を壁紙にしている。壁紙のヒロイン曰く、「『無理です、できません』は『やりたくない』を隠すための言葉にしか聞こえない。」(『ハミダシクリエイティブ』 鎌倉詩桜)
「今はやる気にならないから無理だな」と言い訳していろんなことを後回しにしてしまう私への警句を響かせている。(元々の意図は違うけれど)。
さて、今回は逆張りオタクの話題探しから考えたことについて話そう。
食事会の話題
最近、といっても先月の中旬ごろ、大学の同期と3人(男2女1)で食事会をおこなった。あるゼミの班打ち上げである。にぎやかな雰囲気の中、美味しい料理に舌鼓を打ちながら、ゼミの思い出話など、会話を巡らせていると、段々と話すことがなくなっていった。
今回の3人は、仲は悪くなかったが、学部はバラバラで、共通の趣味があるわけでもなく、話題に窮してきた。そこで私は
「今、話のネタ探すね。」
と言ってスマホの写真を上にスクロールしていった。そこである写真の群れを見つけた。12月に行った仮面ライダー展である。幸いなことに大学の近くで行われていたので、行って楽しんできた。
仮面ライダーなら、特撮好きもそれなりにいるし、男の子なら幼い頃見ていた、という思い出話もできる。たとえあまり見たことが無くても、特撮は趣味の中ではそれなりの市民権を得ているはずだし、話のネタとして申し分ないだろう。
そこで仮面ライダー展に行った話を切り出した。私の思惑通り、もう一人の男は幼い頃に観ていた、という思い出話に持ち込むことができた。しかし、女の子の方は、全く興味がなさそうにしていた…。
専ら幼児向けのコンテンツだと誤解して軽蔑するわけでもなく、話に食いつくのでもなく、真顔のまま食事を続けていた。
仮面ライダーオーズの話になったときにテーマが「欲望」であることを話すと、
「仮面ライダーってテーマがあるんだ」
と少し興味は持ってくれたため、話題の振り方として完全に失敗であったわけではないが、どうして、こんなことが起こってしまったのだろう。
エコーチェンバー
私はここに、「エコーチェンバー」という考えを参考にしたい。
近年聞きなれた言葉だとは思うが、wikipediaより意味を引用しよう。
これはよく急進的な政治思想について使われているように思う。SNSをやっている人ならば心当たりがあるだろう。
政治的思想について、私はエコーチェンバーにはこもっていない、少なくともそう思っている。しかし殊趣味においては、こもっていたようだ。
具体的には、「仮面ライダー」や特撮が比較的「一般的」な趣味となっている集団にリアルでもネットでも属していたため、その話で盛り上がれると思っていたのだ。
人に用意された趣味
そういえば、別の食事会の時に、逆に私が関心をもてない話題が振られたこともあった。サークルの先輩方との飲み会(私はアルコールを飲んでない)で、野球の話が振られたのだ。大学の近くにプロ野球球団のスタジアムがあるという立地上、大学に野球好きは多いように感じている。私も野球漫画は好きだし、甲子園とか、WBCとかになれば観る気も起きるのだが、プロ野球はあまり興味がない。
しかし、先輩方がプロ野球の話で盛り上がっている中、特撮とか、世界史とか、ネットミームとか、美少女ゲームとか、マイナーな趣味では立ち向かうことができず、ただその話を聞いていた。自分がオタクである以上、他人が何かに熱中している姿を見聞きすることは、嫌いではない。けれど、やっぱり自分の趣味の話もしたいですよね…。
そんなことを思い出しつつ、私はXの本垢で、次のようなポストをしたことがある。
するとそれにいいねをしてくれた高校の後輩が、それを受けてなのか次のようなポストをしていた。(もし君がこれを読んでいて、引用方法や引用そのものに異議があったら連絡ください。)
彼の趣味は文芸、特に短歌であり、短歌自体も用意された趣味であるから、自分で一から作り出したわけではない、というツッコミを入れるのは野暮なものであろう。彼が言わんとしていることは、人に用意された大衆向けの趣味を受動的に楽しむというよりは、短歌を自分で創作するなど、コンテンツを能動的に楽しみたい、自分もそのコンテンツの主体になりたい、ということなのだろう。
私も、この意見には非常に共感できる。もっとも私は、受動的、能動的以前に、大衆的コンテンツに熱中することが周りのみんなよりも少ないようだ。個性が欲しいのか、自分を特別な存在にしたいのか、理由はわからないが逆張りオタクである私は、大衆的なコンテンツを遠ざけ、そこに溶け込むことができない。そんな人もいる、くらいのことは知ってほしい。
趣味に優劣無し
ここまで愚痴に近い体験談を書いてきたが、一体誰が悪いのだろうか。大衆的な趣味に熱中している人も、私のようにそうじゃない人も、それはただ好きなものが違って、それの一般受けの違いに過ぎない。「好き」という感情に理由がつけにくいのならば、片方又は両方を「悪い」とすることはしたくない。
要は、そもそも趣味の異なる者に干渉せず、お互いに自分の趣味を謳歌すれば良いのだ。ネット、特にSNSの発展により、メジャーな趣味でもマイナーな趣味でも、コンテンツを享受しやすくなり、さらに同じ趣味の者とつながりやすくなった。テレビを家族で囲むことが珍しくなったように、趣味が多様化、細分化したように感じる。そんな世の中で、自分や他人を大衆的な趣味に「矯正」するよりは、同じ趣味を持ったコミュニティにこもって、自分の好きなものを楽しんでいればいい。
そう、思っていた。
「こもる」という悲しみ
この動画の特に12分台を観てみてほしい(時間がない人はそこだけでも)。これは漫画家山田玲司氏の語りの切り抜きである。私は彼の漫画は知らないが、様々な話題に対する彼の発言の切り抜きには時々お世話になっている(特にサブカルと時代潮流の考察には目をみはるばかりだ)。
この動画の中で、Z世代は同じような人間たちが集まるクラスタで生きていけてしまい、その中で出る智恵に限界があるので、異質な人間によってそれを突破しなければならない、と語られている。
これを聴いて私は感じた。同じものを好む人間の集団にこもっていると、趣味が違う人に関心を持てなくなっていくのだ。そこに人間同士の無関心という緩やかな分断が生まれる。そのような社会では山田玲司氏の言うように、出てくる智恵や考え方は限られてしまう。さらには、私からすると、そんな世界はとても寂しく、寒い。
共に生きてゆこう
けれど、今さら大衆的な趣味に回帰することは難しい。趣味が異なる人でも、一緒にいられる世界を作るには、どうすればいいのか。
「作る」というより、もう大部分出来上がっているのかもしれない。我々は、学校や職場、部活動といった形で、何かの目的によって集団を形成している。仲間と趣味趣向が異なることもしばしばである。その中で談笑し合ったときに、自分の好きなものを好きと言えて、相手の趣味に共感ができなくても、熱中しているその姿をほほえましく思うことができれば、きっと一緒にいられるはずだ。その素地が数年前に比べてもできているように感じている。読者諸君はどのように感じているだろうか。
大衆的趣味によるつながりを失っても、互いの趣味趣向を尊重できれば、人と人がつながることができる。その可能性を信じたい。
今回はこれくらいにしよう。
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