星野源さんと吉岡里帆さんの「どん兵衛」のCMを見ていて思ったこと
ほんとうのことを言ったり、書いたりすると嫌われる、けれど。
言わずに死ねるか!と昔の作家が言っていました。
明日から来年。
除夜の鐘を、またいで。
なぜ108つ鐘をつく?
ご存じの通り、星野源さんと吉岡里帆さんの「どん兵衛」のCMでも出てきたセリフ「ぼんのう」
108の煩悩(私たちを、煩わせ、悩ませ苦しませるもの)
今年は、この「欲」や「怒り」「そねみ、ねたみ、うらみ(=愚痴)」の煩悩(これで3こ、あと105こ)で、苦しんできた。
来年は、そういうことのないように、「鐘をついてもらって」煩悩を消して、無くして、もらえたらいいなあ、ということらしいですが。
そんなことで、「煩悩」が消えるなら、山で千日こもる厳しい修行も無意味になるでしょう。
鎌倉時代の親鸞というひとは、9歳から29歳までの20年間、誰もやらなかった千日回峰行、大曼の修行まで
なされましたが、「親鸞は、煩悩のかたまり」「私たち全人類は、煩悩で出来ている」
だから、煩悩は、断ち切れないと、泣く泣く、比叡の山(京都と滋賀の境にある天台宗の)
を降りられました。なぜ泣かれたのでしょう。
さて、お正月の前に。
煩悩が恐ろしいのは、実は、煩悩でおそおろしい「心の悪」をつくるから。人目につかぬものでも、
まいたタネは必ずはえる。こころでまいたそのタネも、必ず恐ろしい結果として自分の身に現れるから。
そして、室町時代の正月には。
あの一休が「門松(正月)や冥土(死後の世界)の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
と言いながら、しゃれこうべを杖の先に付けて、町を歩いたといわれます。
吸うた息が吐きだせなければ、吐いた息が吸えなかったら、私たちは旅立たなけらばなりませんね。
大みそかから、元旦に旅立つように。
一息キレたあと、私たちはどこへ旅立つのでしょうか。
結果は明らかです。
今年一年がんばって種まきしたひとには、明るい来年が待っているでしょう。
今年一年、怠っていたひとには、そうでない来年があるでしょう。
(頑張れなかったひとは、またがんばればいい)
※釈迦の教えた「罪悪深重」と「諸行(=すべのもの)無常」
※煩悩→悪い種まき(こころの罪や悪)+無常(じぶんの死)という縁=結果(原因+縁=結果)
亡くなった祖父のノートから。
どんべいのCMを見ていて、ふと作文しました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?