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【夢小説 006】 夢参位「鼻血女(2)」

浅見 杳太郎ようたろう

「ちょっと、待って。あなた誰?」

 彼女は起き上がりながら平坦な口調でぼくに話しかけてきた。そして、兄のベッドの上で脚を斜めに投げ出す格好で、しなりと座り直したかと思うと、次の瞬間、急に鼻血をどろりとらした。

 白い濁りの混じった血の固まり。

 その今までに見たこともない程の大量の白濁混じりの鼻血は、彼女の唇を容易に乗り越え、形のいいあごの先で少し留まって、粘り気のある紅白の玉となった。それは重力に抗うようにふるふると細かく震えたが、やがて、ぼたりと椿つばきが落ちるように、彼女の衣服の上に転落して、その青色のシャツを大いに汚した。

 下は黒いデニムのパンツを履いており、細身でよく引き締まったからだをしていた。目は奇妙に離れていて、口の幅も広く、何だか魚を正面から見たような顔をしていたが、しかし、小粒な頭部といい、つややかな躰の繊細なラインといい、それ以外にも、全体としてぼやっと、どこか不思議な魅力のある女性だった。色っぽかった。

「あなた弟さん?」

 彼女は、ぼくの嫌いな答えの知れた無意味な質問をしてきたのだが、この時ばかりは、不思議と侮る気にはなれず、侮るどころか非常に恐縮して、ティッシュを箱から抜き取りながら素直に「はい」とこたえてしまった。

 全く予想外の状況に直面して混乱したのか、とっとと逃げれば良いものを、わざわざティッシュを渡してやったり、その病的な量の鼻血を拭き取ってやったりと、つい甲斐甲斐かいがいしく働き回ってしまった。

 それにしても、この部屋のティッシュは、使う前からじめじめしてしわだらけで、まるで一回使って乾かしたものを再利用しているみたいな感触だった。何だか汚らしかった。

 彼女に見つめられて、ぼくは戸惑った。混乱の余りとは言え、今までの人生で初めて、大人の女性にここまで接近してしまった。しかも、彼女の青いシャツの胸元を、ティッシュで拭くなどという大胆なことまでしてしまった。服とティッシュを通して、間接的に彼女の胸を触ってしまったのだ!

 ぼくははっきり言って欲情した。

 ぼくのその激しいたかぶりを知ってか、彼女は、細くて白い手をするすると、何とぼくの股間に伸ばしてきたのだ。誘惑している!

 ぼくは、平生の「その時やりたければやればいい」という心構えを全く実践出来ないでいた。ぼくは、正直やりたい。でも、自分の躰に自信がないんだ。恋愛やセックスに過度に理想を抱いていたのは、自分自身だったのかもしれない。ぼくは泣きたくなった。ぼくもスポーツマンだったら良かったのに!

 ぼくが、何も出来ずに、ぶるぶる戦慄わなないていると、彼女の左手がまるで軟体動物のようにくねくねと優し気にぼくの肩に回され、それからぼくは、そのまま彼女の胸へと引き寄せられて行った。拒むことは出来なかった。初めて顔を埋める女の胸。その柔らかさを感じた時、ぼくは強い哀しさに襲われた。

「どうせ、ぼくみたいなスポーツマンでもない奴は、あなただって嫌いでしょ? ぼくみたいな爽やかでない、気持ち悪い奴は嫌いでしょ? どうせ、あなたは、最後までやらせてくれないんでしょ? 気まぐれな同情でこんな風に、少し優しくしてみただけなんでしょ? どうせそうに違いないんだ!」

 ぼくは我知らず、早口でまくし上げていた。言い終わってはっとした。何て駄々っ子みたいな真似をしたんだ、ぼくは! ますます泣きたくなってきた。

 すると、彼女は右手を再びぼくの股間に伸ばしながら言った。

「そんなことないわ。気持ち悪いなんてことないの。いい? 若いってことは、それだけで美しいってことなのよ。あなたは、あなたの若さの価値が分かる、年上の女と付き合うべきなのよ」

 それを聞いた後は、ただ無我夢中だった。ぼくは、この年上の女性に必死にかぶり付いた。上手く出来たかどうかは全く覚えていないけれど、とにかく、ぼくは射精した。

 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。

 射精の陶酔とうすいは、頭の芯にまで響いてきた。


 ぼくは、しばらく呆然としていたようだ。どれくらい時間が経ったのだろう。少し気を失っていたのかもしれない。自分の身に起こったこととは、とても信じられなかった。

 徐々に正気を取り戻してくると、兄のベッドの上で、兄の不倫相手と二人並んで全裸で横になっているという、そんな異常な状況をだんだんと客観的に理解出来るようになってきた。

 裸でだって? 何て言うことだ!

 ぼくは、自分の貧相な躰を一刻も早く隠したかった。

 まず眼鏡をかけて、それから、周囲に散らばる自分の服を必死に掻き集めた。そうして、ゴムの伸びたブリーフを履いて、ズボンに片足を突っ込んでいる時に、下から誰かが階段を上って来る音がした。母に違いない。

 ぼくは慌てふためき、我ながら無様なケンケン踊りを披露して本棚に頭をぶつけたり、足をもつれさせて尻餅をついたりした。そうこうしている内に、母が入って来てしまった。ぼくはがばっとジーパンをまくし上げ、チャックも開け放ったまま、母とは目を合わせずに兄の部屋から逃げ出し、そのまま階段を下りて家を飛び出した。

 母はその後、どうしたろうか。

 自分の息子と関係を持った直後の、魚みたいな顔をした若い女の滑らかな全裸を見て、何か言っただろうか。何かしただろうか。多分、何も言わずに、そのまま引き返したのだと思う。一体、あの状況で母に何が出来ると言うのか!

 ぼくは、今頃、またあの女はきっと鼻血を流していることだろうと、何故とはなしに思った。あの粘っこい紅白の鼻血を。

 外に飛び出した時には、すでに西日も沈み、すっかり夜になっていた。ぼくは商店街を通って五分ほど歩き、最寄り駅に着いた。

 この街は、快速電車は停まらないけれど、昔ながらの商店街が駅を囲んで円形を成すように集中しており、忌々いまいましいほど賑やかなところだ。だから、ぼくは、いつもこの商店街を通って駅を目指す時には、知り合いに出くわしやしないかと、はらはらしていた。

 でも、こんな小さな街で、知り合いと遭遇しない方がおかしいというものだ。今日も、学校のクラスの奴と一人すれ違った。頭は悪いくせにスポーツだけは人並み以上に出来る奴で、最近では色気づいたのか、髪の毛を染めたり、腰にじゃらじゃら重そうな装飾物をつけたりしていた。いつもは、学校の奴と出くわすと、ぼくはそっぽを向き、端っこを歩いてやり過ごしていたが、何故か今日は、そんな卑屈な気分は湧いてこなかった。ぼくは、そいつの目を真っ直ぐ見ることだって出来た。そうすると、向こうの方が、都合悪そうにぼくから目を反らしたのだ!

「どうだ、ぼくはお前が知らないような、大人の女の味を知ってるんだぞ」

 ぼくは、心の中で呟いてみた。そのことは、ぼくを有頂天にさせた。

 ぼくはさらに大胆になって、駅構内にある立ち飲み屋で大人がするように酒を飲もうと思った。ぼくは、学校の帰りに、よくこの店を眺めていた。下校する時刻ではまだ早すぎるのか、客は、競馬新聞を睨んでいる中高年だとか、陰気な顔をしたフリーターだとかがまばらにいるばかりであることがほとんどだったが、時には暢気のんきな大学生カップルなんてのも目につく日もあり、それが苦々しく映った一方で、羨ましくもあったのだ。

 酒を飲むには健全に過ぎる白色の照明が、かえって不健全さを暴くような格好だったが、今のぼくには不健全さはむしろ心地良いものに思われた。

 競馬新聞に熱中するいつもの中年客は、今日もまたいた。彼はぼくが入って来ても、何の関心も寄せなかった。

 ぼくは、よく判らないままに、一番安い酒を頼んでみる。すぐに「どうぞ」と透明な液体が出されたが、舐めてみると、何の味もしない。ぼくはいぶかしがって、何度かぺろぺろやってみたが、一向にただの水と区別がつかない。すると、三十台半ばくらいだろうか、ハキハキと快活な女の店員が、

「ふふふ、君、学生さんでしょ。まだお酒は早いんじゃないかなぁ。君に飲ませちゃうと、おばさん捕まっちゃうのよぉ」

 などと、笑窪えくぼを浮かべて気安げに言うのだ。

 ぼくは、そうかいそうかい、と思った。今までのぼくならかっと赤くなって、逃げるように出て行くのだろうが、今のぼくは、もう女を知っているんだ。そんなことでかっとなりゃあしないさ。

 ぼくは、冷酒用のグラスに波々がれたただの水をぐいと飲み干して、ごちそうさんと言って五百円玉をカウンターに置き、女の店員の目を見ながら悠々店を出てやった。笑いが込み上げてくる。

 それからしばらく、満足げに構内を何するでもなくうろついてみた。誰かに会うのを恐れて素通りしていた駅構内を、こうして初めてじっくり見て回った気がした。

 便所の前を通り掛かると、女便所の入り口が黄色いテープで封鎖されていた。そして、その入り口の前には、二人の若い警官が守衛のような格好で、直立していた。物々しいな。そう言えば、駅全体がどうも騒がしい感じがする。何かあったのだろうか。そういった喧騒けんそうの中にいると、だんだん、頭がぼやーっとしてきた。

 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。

 おかしいな。酒は飲んじゃいないはずなんだけどなぁ。

 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。

 何だか、鼻血が出てきたみたいだ。

つづく。

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