【夢小説 008】 夢参位「鼻血女(4)」
浅見 杳太郎
何という妙な場所だ。おれは愈々耄碌したのか。そう言えば、さっきから頭が重い気がする。
そうして、おれがこの現実離れした光景にただただ狼狽していると、すぐ横の個室の白い扉が、出し抜けにぎいいと鈍い音を軋ませながら開いたのだ。
驚いて目をやると、そこには一人の女が、白い洋式便器の便座の上に座っていた。黒いデニムパンツを下着と一緒に足首まで下げ、胸元に赤黒い染みをつけた青いシャツを着ている痩身の若い女であった。
目が妙に離れていて、口幅もいやに広く、魚類のような怪異な顔に映ったが、それでも、あるいはそれが故に、危うい腰の括れだとか、意外に肉感的な胸の膨らみだとかが強調され、そこには抗し難い官能があった。おれは、彼女のすらりと伸びる滑らかな二本の脚を見、そしてそれを辿って、それらが一つに結びつく先を見た。
その時には、もうおれは夢遊病者のようになって、女の下へ跪いていた。
いや、おれは一体何をしようと言うのか。膝を埃っぽい床につけて、まさに女の下腹に額づけようとしたその時、おれは自分の歳を考えた。警部という社会的、組織的立場よりも、まず歳に思い至った。おれとしたことが、年甲斐もなくこんな若い女に発情してどうする。家庭を顧みると誓ったではないか。それをこんな小娘に誘惑されるとは。これ以上、晩節に恥を重ねる訳にはいかん。
おれの理性を保ったのは、地位でも、社会的責任でも、ここは事件現場、つまり職場であるという分別でもなかった。
ただ歳であった。加齢による衰えへの劣等感であった。加齢に対する根源的な罪悪感であった。卑屈さであった。
男性的衰えを自覚するのは、身を切るよりも辛い。おれの最近の家族思いは、自分の衰えの裏返しなのではないかとも思う。要するにおれは弱くなったのだ。誰かに守って欲しかった。だから、おれはこの歳になって、家族に媚を売り始めたのだ。
衰えることは淋しいことだ。そして、衰えを他者に知られるということは、最も恐ろしいことだ。その先には、侮辱しかないのだから。侮辱が嫌なら、媚を売るほかないじゃないか。おれは、便所の入り口の若い警官二人を思い出した。そして、家族を思い出した。妻を思い出した。
そうなのだ、殊には、女! 女に侮られることだけは、耐えられない!
そう考えて、おれは女の下腹に行きかけた顔を、寸でのところで押し止めた。そうすると、彼女は細い右腕を嫋やかにおれの頸の後ろに回して、自分の股の方へと、おれを引き戻そうとするのだ。そして、平坦だが、情感を煽る、翳りのある声でこう言った。
「あらあ、警部さん、果物でも人間でも、腐りかけが一番甘くて美味しいでしょ」
おれは、その言葉を聞いて、髪一筋の理性が脆くも千切れてしまった。衰えたと思っていたおれの下半身も、彼女を前にして異常な高揚をきたした。
彼女は、「おや、まあ」と笑って、おれを優しく受け入れた。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
おれは、久し振りの高揚に身を委ね、そして安心して女に甘えた。心地よい痺れに心を預けた。
ぼくは、溢れ出て来る鼻血を手で押さえ、ふらふらと駅構内を酔ったように歩きながら、ふと広告用の大スクリーンに目を向けた。さっき、兄の部屋でぼくとセックスをした魚類のような鼻血女が映っていた。同じ青色の服を着て、性欲亢進剤だか避妊薬だか、はたまた性病薬だかは判らないけれど、とにかくそういった性的な商品のCMみたいで、盛んに卑猥な台詞を艶かしく繰り返していた。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
小さな彼女が、自分の背丈ほどもある勃起した男性器にぶら下がっていたり、彼女の股間の上に男優が黒い錠剤を置いていたりしている変なCMだ。男優は指を小刻みに震わせながら、女の陰毛を割れ目にそって二つに分け、その分かれ目に、叮嚀に叮嚀に錠剤を並べている。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
本当に妙なCMだ。ぼくはそれを眺めながら、一層脳が溶けだしてきたような気がした。鼻血が止まらない。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
女との行為が終わった後、おれは急速に醒めた。やっちまった。おれはベルトを上げ、黄土色の背広を羽織りながら悄然とした。何やってんだ、ここは殺人現場だぞ、何て非常識な!
おれは、行為中の高揚や安心はとうに忘れて、女を苦々しく見やり、「もう行け」と冷たく言い放った。
すると女は、どろりと鼻血を出した。白く濁った固まりも一緒になって出て来て、尋常じゃない量だ。獣のような饐えた肉の臭いを感じる。こんな異常な量の鼻血を出しておいて、女は一向に無表情な魚類の顔を崩さない。
おれはトイレットペーパーを、暴力的に音を立てて巻き取り、女に渡そうとした。しかし手を出さないので、おれはじれったくなり素早く拭き取ってやって、それから、彼女に忙しなく服を着せ、半ば力ずくで便所から追い出した。
おれは、この濁った血のついたトイレットペーパーを、薄暗い照明の中でも、場違いな程に純白な光を放つ白い陶器の便器に投げ込んで、流した。飲み込まれていく紙の山を見送りながら、何でも飲み込んじまう世界一でかい魚がいたら、そいつの口は、この便器と同じくらい大きいだろうか、と考えた。おれには、こんな穢い血の固まりを飲み込んでくれるこの便器が、ひどく英雄的に映ったのだ。
おれは一体何を考えているのだろうか。どうもまた眩暈がしてきた。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
濁った頭の中に響く銭湯の谺のような音が、徐々に大きくなる。そして、おれは鼻血を出した。そう言えば、あの若い男も、おれたちに追われている時、鼻血を流していたっけ。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
それが一体、何だと言うのか。
おれは、どれくらいあそこで自失していたのか。寝た覚えはないのだが。とにかく、早くここから出よう。そう思って、蹌踉とこの広大な便所の中を入り口に向かって歩いている時に、外から騒がしい声が聞こえてきた。おれは重たい頭を振って、便所の外に急いだ。足が縺れる。風景が歪む。何とか便所の外に着いて、若い警官に仔細を問い質すと、高校生が人を殺して、自分も線路に身を投げたとのことであった。谺が大きくなる。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
またか。おれは声のする方へ駆けながら、頭の中が溶けていくような、酔いにも似た陶酔を味わっていた。
……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。
鼻血が酷く出る。
おわり。
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