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【夢小説 005】 夢参位「鼻血女(1)」

浅見 杳太郎ようたろう

 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。

 腕っ節の強そうな男である。肩幅も広いし、胸板も厚い。健康そうに日に焼けた大学生くらいの男である。その男が駅の構内を猪のように脇目も振らず、ホームへの階段を二段跳ばしで駆け上がって行く。もうそろそろ残業のない勤め人が帰路に付く頃だ。大分日が長くなった。この時間でも、まだ夕日は赫々かくかくと西の空に留まり、街を暖色に染めている。

 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。

 男は、階段の人垣を太い腕で動物的に掻き分けて、がばっと跳ね上がるようにプラットホームに躍り出る。後ろから悲鳴や怒鳴り声が聞こえてくる。押し退けられた拍子に、誰かが階段から転がり落ちでもしたのだろう。それは老人だったかもしれないし、子供だったかもしれない。しかし、そんなことは一向に構わない。聞こえもしない。男は、大量の鼻血を垂らしていた。赤黒い飛沫ひまつを奔放に撒き散らしながら、プラットホームを走っていく。

 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。

 男の後ろから同じようにプラットホームにまろび出た一群がある。この中には制服も幾人かいる。黄土色の背広で身を包み、肩で息をしている初老の男もいる。どうやら前を走る男を追っているらしい。彼らは口々に何やら叫んでいる。男には何も聞こえない。若い制服らは勢い良く男を追う。初老の男は奄々えんえんと呼吸を乱しながら、足元の薄汚れた黄色い点字ブロックに、黒々とした血が数滴落ちているのを認める。目が霞む。電車がホームに入ってきた。通過する快速電車のようで、停まる気配がない。

 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。

 男には、濁った頭の中に響く銭湯のこだまのような音と、すぐそこに突っ込んでくる電車の顔しか、聞こえない見えない。制服らの一群が男に追いついて、彼の腕やら胴体やらをひしと掴んで取り押さえようと試みるが、この男は、驚くべき人ならぬ力を発揮して、ぶうんと振りほどいてしまう。そして、男は愛しき電車に向かって抱擁を試み、破裂する。

 ……ぬわぁんわんわんわ……ぬわぁんわんわんわ……。

 ……ぬわぁんわんわパァアン! ――。


 ぼくは西日が眩しかったので、カーテンを閉めた。学校の宿題にはまだ手を付ける気にはなれなかったので、ベッドに寝っ転がって漫画を読んでいた。でも何度も読み返した漫画だから、別段ストーリーを追っている訳じゃない。度の強い眼鏡は勉強机の上に置いたままだ。にじんだ影にしか見えない漫画の主人公を漠然と眺めながら、ぼくは兄のことを考えていた。

 三つ上の大学生の兄は、スポーツマンタイプの人間で、顔も悪くないし、それなりに人当たりもいい。だから、結構女にもてるらしく、兄には同い年の彼女がいる。大学で出会ったらしい。どうせテニスサークルか何かの、浮かれたコンパサークルで知り合った女に決まっている。

 何度かウチにも遊びに来たことがあったから良く判るのだ。確かに小綺麗な人ではあった。ぼくを、さも子どもを見るような目で見たっけ。「こんにちは~。弟さん?」なんて、知れたことを、小首を傾げて甘ったるい声で聞いてくるのだ。ぼくは、この頭の回らない女が、ぼくの兄と関係を持っているということが、何だかいやらしく感じた。それも、いわゆる深い関係という奴をだ!

 その晩は、兄の部屋の物音が気になって気になって仕方がなかった。ぼくは悶々もんもんとして(これは純粋な好奇心からであり、決して性的興奮を感じていたのではない。それは絶対に違う)、兄の部屋の方に向かって、一晩中ずっと聞き耳を立てていた。そんな時に限って、一階の台所で母が遅くまで食器を片付けたりしているんだ。甲高い音がうるさく響いてきて、わずらわしくって堪らなかった。

 ともかく、兄は、そんな具合に立派に彼女がいる訳だが、近頃少し様子がおかしい。観察してみると、どうやら、他の女にもちょっかいを出しているようなのだ。これはいわゆる不倫・・という奴で、彼女も作ったことがないぼくからすれば、随分うらやましい身分だと思う。

 不倫という行為が悪いことかどうかなんて、ぼくは問題にしない。不倫とか性交渉なんて、ただの性衝動の現れなんだから、その時やりたければやればいい。恋やセックスに理想だとか、ましてや幻想なんてものは、ぼくは絶対に抱かない。

 問題なのは、ぼくが人見知りで、彼女を作る糸口さえ作れないということだ。ぼくは正直、女子とまともに話せない。しかし、それをひとえにぼくの内気のせいだとばかり言うのは間違いだと思う。つまり、同年代の女子の恋愛観や、男を見る目にも大いに問題があるはずなのだ。

 ぼくは、自分で言うのも何だけど、確かに風采ふうさいは良くはない。帰宅部だし、スポーツも出来ない。勉強も中の上、いや中くらいかな。でも、ぼくより成績が悪くて、顔も悪いという奴はたくさんいるし、それでも、そいつらの中には彼女を作っている奴もいる。そうでないとしても、女友だちぐらいは作れている。ぼくは、それが納得出来なかった。

 そいつらとぼくとの違いは何だろうって考えた。

 それで判ったのが、やっぱりスポーツが出来るかどうかなんだ。健康的で溌剌はつらつとしているかどうかなんだ。ぼくは、スポーツが出来る奴は格好いいという学校の野蛮な風潮が許せない。体育祭なんていうパフォーマンス的なイベントを、わざわざ大々的に開催する、学校の体力差別が許せない。ぼくは、体育祭が嫌で嫌で堪らないんだ。

 そんな学校で教育を受けてきた女子たちが、スポーツマンに好意を抱くようになるのは当たり前のことだろう。だから彼女たちは、健康的で爽やかな彼氏という植え付けられた理想像に固執するんだ。別に嫉妬しっとしてケチをつけているんじゃない。恋だとかセックスだとかに、歪んだ幻想を抱く女子たちが可哀想かわいそうだと言っているだけのことだ。

 同情さ、同情。ぼくが嫉妬なんてするもんか。する訳ないじゃないか。

 ぼくは、ベッドに横たわりながら、何だかまた悶々としてきた。今日、兄はどこかに出掛けている。どこに行ったんだろう。やはり不倫相手のところだろうか。行って、何をするんだろう。そりゃあ、セックスに決まってるか。彼女はどうするんだろう。ばれないものなんだろうか。

 そう考えると、ぼくは、兄が女にもてるのが許せなくなった。兄は爽やかなスポーツマンなんかじゃない。現に不倫してるじゃないか。不倫なんてものは、どろどろしていて、爽やかなものであるはずがないんだ。だから、兄は断じてスポーツマンじゃないし、女にもててもいけないんだ。

 その時、ぼくはふと兄の部屋を覗いてやれ、という衝動に駆り立てられた。兄の化けの皮を剥がしてやりたかったし、それ以上に、兄の部屋に抗し難いエロティックな臭いを感じたのだ。

 ぼくは、漫画本を閉じ、勉強机の上に手を伸ばして度の強い眼鏡をかけてから、自分の部屋を出た。廊下を渡り、一階にいる母に聞こえないように、静かに兄の部屋のドアを開いた。何となしに、えた臭いがするような気がした。雨戸が閉められたままで、真っ暗だった。部屋の中に這入はいり、後ろ手でドアを慎重に閉め切ってから、手探りで電気を点けた。

 すると、ベッドの上には見ず知らずの女の人が一人で寝ているではないか!

 ぼくは仰天した。大声を出すところだった。状況を理解するのに随分と時間を要したが、つまり、この人が兄の不倫相手なんだなと思った。

 とにかく、ここは見つからない内に出て行った方が良い。ぼくは、息を飲み込んで静かに後ずさりしたが、女の人はぱちりと目を覚まして、そして、あっさり見つかってしまった。もしかしたら、寝ていなかったのかもしれない。

つづく。

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