この地上に神秘と夢を取り戻せるか?
『クリスタルスカルの王国』がどれほどの問題作で、
『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』に課された使命がいかに大変か、という話
『インディ・ジョーンズ』の新作『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』がすでに公開されており、僕はまだ観てないが、やはり観に行かないわけにはいかない。頭も切れて銃と鞭が得意で、女性にモテる考古学者インディアナ・ジョーンズはそりゃヒーローである。僕自身も『失われたアーク』は子供の頃から何度も観たし、『魔宮の伝説』はあまり好きじゃないにしても大体覚えてるし、ユーモア満載の『最後の聖戦』は特に好きだった。だから最後のインディアナ・ジョーンズの冒険と聞いて、素直に盛り上がり、最後を見届けようと思うのは当然のこと…。
なのだが、正直言うと観る前から不安でいっぱいである。楽しみか?と問われると困る。中年になって子供心を失ったから、とかそういうレベルでなく、とにかく脚本に不安しかないのだ。というのも、『インディ・ジョーンズ』だけでなくハリウッド映画全体が今物凄い窮地に立たされており、今回の”最終作”次第でハリウッド/映画界全体が終焉を告げてしまいかねない、と僕は考えている。その理由は後述するが、これは大袈裟でもなんでもない。もし案の定ひどい脚本になっていて、それを不用意に観てしまったら、今度こそ俺は、いや世界は、大事な何かを失ってしまうかもしれないのだ。
それではその大ヒットシリーズ『インディ』を、そして世界を、ここまでの窮地に追いやった原因とは。それこそがあの大問題作『クリスタル・スカルの王国』である。当時鳴り物入りで公開され、勇んで観に行き、あの帽子のシルエットが映ったときは泣きそうなほどにワクワクした。なのに、観賞後のまるで魔法が溶けてしまったかのような虚脱感と、現実への激しい揺り戻しは、今でも忘れられない。
僕はあれが映画として良いかどうか以前に、ハリウッドにとっても世界にとっても大大大問題作なのではないかと考えている。”インディ・ジョーンズ”というフィクションに自らとどめを刺し、それだけでなくハリウッドの冒険もの映画総体からも重要な何かを失わせるほどの、ただの駄作では済まされない問題作に感じたのだった。あまりにショックだったので文章化することができないでいたほどに。しかし新作がついに公開されてしまったからには、もう書かないわけにはいかない。
まず前提として、この作品では第二次世界大戦中が舞台の『最後の聖戦』から19年後、つまり”核兵器が世に誕生してしまった後の世界”を、舞台にしていることが非常に重要である。そのことは物語前半で早くも示される。アメリカのどこだったか中西部で核実験にインディが巻き込まれる場面があるのだが、インディはすんでのところでとっさに冷蔵庫に飛び込み、爆発と放射能を免れる…というシーンだ。しかし、あの距離で核爆弾の衝撃と放射線を、冷蔵庫ごとき(しかも60年代の冷蔵庫)が耐えられるか甚だ疑問で、アメリカ人の認識がズレてるのは元々知ってたけど、いくらなんでもこれはまずいんじゃないか?と思ったのだった。
だって『インディ・ジョーンズ』で核兵器の描き方がしょうもなかったら、シリーズに説得力が全くなくなってしまうじゃないか。『アーク』での「聖櫃」も『魔宮』の「3つの石」も、『聖戦』での「聖杯」も、それこそ、”核兵器”あるいは”終末を招く不可侵なもの”のメタファーではなかったか? それらは世界の均衡を揺るがすほどの強力なアイテムで、世界を牛耳ろうと企む悪”ナチス”には決して手渡してはならないものであり、我らがインディはそのために必死で世界を股にかけて戦うわけである。”聖杯”や”聖櫃”などが最終兵器のメタファーなら尚更、実際の核兵器の描写がおかしかったら、まずい。シリーズ全体の説得力が損なわれてしまうだろう。
核兵器の描写以外にも問題はまだある。というか、先の説得力問題よりもさらに重要なのが、「現実に”最終兵器”が存在する設定のフィクションの中で、今更、古代や聖書の世界の、神のごとき力の宿ったアイテムなど、説得力や必然性を持って描けるのだろうか?」という問題である。だって、現実に最終兵器が存在している設定の中で、”聖杯”だのなんだのの最強アイテムなど、メタファーとしては、もはや機能しないだろう。 そして、メタファーとしての機能を失ってしまったら、『インディ・ジョーンズ』で描いてきたものは、全て台無しになってしまいやしないか?
そんな疑問を覚えながらも、途中スピルバーグらしい悪趣味でしかないグロ描写も登場するし、元カノとのあれこれもあったりで往年のインディ・ジョーンズ映画らしく話は進むわけだが、最後に明かされるのが、大問題とである”クリスタル・スカル”の正体だ。
それはつまり、宇宙人だった、と。太古の昔この地上に降り立った、異星人の頭蓋骨だった、と。僕も割と早めにそんな予感はしていたが、この展開がいざ明らかになると、ものすごく落胆してしまった。だって、『インディ・ジョーンズ』が世界中で愛され、ハリウッドを代表する冒険ロマンシリーズとなったのは、「この地上には、まだ人類の知らない謎と神秘とロマンが残されているんだ!」という夢に満ちていたからじゃないか。この地上のどこかに、人知を超えた”何か”が存在した/するかもしれない、そんな夢を見せてくれるのが、『インディ・ジョーンズ』シリーズだったはずだ。
なのに、この『クリスタル・スカル』という作品は、「未知と神秘はすでに地上にはない」ことを、「もはや未知のロマンは宇宙にしかない」こと、を自ら認めてしまった。核兵器及びそれに伴う科学認識が登場し、世界を更新してしまった後の世界では、もはや宇宙にしか未知や謎や神秘や夢は存在しえない、ということを。作品の構造自体が、脚本自らが、不用意にも認めてしまったのだ。質量や光や時間を説明する相対性理論は、人類を一気に宇宙と世界の核心へと近づけ”世界”を説明する語彙が飛躍的に増し、それらを利用した最強兵器まで発明されてしまった。そんな地上に、夢やロマンなど、最早どこにもない! そんな世界に我々は今、生きているのだということを、『クリスタル・スカルの王国』は明らかにしてしまったのである。
つまり『インディ・ジョーンズ』の冒険譚も、核兵器登場以前の世界が舞台だからこそ、夢とロマンに満ちた映画だったのだ。核兵器以降の世界では、夢と冒険の物語『インディ・ジョーンズ』はあまりに成立困難なのである。『クリスタル・スカル』が前3部作と比べてあまりに魅力がなかったのは、そのためではないか。
人知を超えた謎と神秘は宇宙にしかない、と自ら認めてしまった『クリスタルスカルの王宮』。スピルバーグよ、まさか生みの親たるあなた自身が、インディ・ジョーンズの1番の魅力を、理解していないまま、その魔法を解いてしまったのか?
人類は太陽系外にすらまだ行けていない。深宇宙などは、まだ謎だらけだ。現実の世界では、月の上に人が降り立ち、相対性理論も量子物理学も研究され、ブラックホールの存在まで確認され、ダーウィンの進化論どころか遺伝子まで操作され、人類の脳や身体はマシンのレベルまで微分化されつつある。精神医学も進歩した。人工知能の進歩の速度も想像を絶する。でも、それらが舞台なんじゃなくて、宇宙でも異世界でも精神世界でもなく、この地上のどこかに、我々の身体が揺れ、心が躍るような、壮大な謎と夢があることを、せめてフィクションの世界では見せ続けてほしい。ハリウッドにはそんな使命があるように思う。だからまだ、『インディアナ・・ジョーンズ』には、その使命と魔法を放棄してほしくないのだ。
映画に描けることは、まだまだ限りなく、きっと物語も脚本も尽きることはなく生まれ続けるだろう。大空の夢も、恋人たちの日々も、まだ描かれていない物語は無限なほどにいっぱいある。ならば、この地上にまだ残された神秘を、夢を、『インディ・ジョーンズ』の今度の新作でこの地上に取り戻してほしいのだ。夢も何もないこの世界に、再び夢と冒険を、もたらしてほしい。
しかし舞台は前作からさらに時が流れてしまっている。その間”インディ・ジョーンズ”の世界でも科学は飛躍的に進歩してしまっただろう。それでも、年老いたハリソン・フォード演じるインディに、もう一度、地上の夢と神秘を取り戻してもらわなければならないのだ。でなければ世界は、地上から大事なものを失ったままだ。
明かりが灯るまでは、夢を見たい。
席を立って、扉を開けて現実に戻ってもなお、少しの間でも胸に抱いて信じられるような、そんな夢を見たい。
だから、新作『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』に課された使命は、あまりに大きい。と僕は考えている。
ウーン、、、いつ観に行けるかな...。観たいような観たくないような。
終わり
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