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トンカチくらいの道具への信頼と安心

 私は道具音痴である。技術音痴である。人並みにパソコンもスマフォもコピー機も使うが、道具というものに「信頼感覚」があまりない。道具、技術が好きな人は、それらを手の延長、自分の身体の延長としてとらえ、道具を信頼する力があるのだろう。道具とは、技術理論にしたがって、そのとおり設計し、組み立て、起動させれば、AすればBという経路を必ず辿るということへの信頼があるのだろう。土地勘があるのだ。私のような人は、技術を何度か使って、それが経験則的に、あのボタンをおせばああなる、というように、技術論というより、経験則的に技術を世界にとりいれるのだ。

 さて、震災について。カッターは物(自然)を切るためにあるが、それは自分や人(人類)を傷つけることもある。人類の科学技術の技術的なレベルでもっとも高きものは、核物理学を利用した水爆、原爆、原発だろう。あくまで、技術的な高度さについてのはなしだ。それだけ大きな力を持った道具だと、人類を傷つける範囲と脅威も増す。車だってそうだ、スマフォだってそうだ。

 人間は最初、火という道具を発見した。それは火事という原始的な災難を生んだ。やがて、火起こし機が生まれ、ローソクやマッチが生まれ、電灯が生まれた。人間の本質は「道具への信頼」にある。猿も木の棒を使ってなにかをすることがあるが、人とは比較にならない。

 情報や金も「道具」である。金をたくさん持っている人ほど、人に命令できる。昔は命令するのは王だったが、今はさらに馴化され、穏やかな表層をとるようになった。バスに乗って、お金を払えば、運転手は命令がなくても、人を運ぶ。しかし、「他者」を道具として扱っていけないというカント の教えのように、「人を道具」として扱う限り、それは人間関係という側面で問題を引き起こし続けるだろう。「王の疎外」である。

 「情報」とは基本的に戦時の言葉である。軍事用語なのである。街に生きるのは存在論的に孤独なサバイバルなのかもしれない。しかし、「危険である事情の伝え」ばかり持っていて、それは果たして幸せなのか。幸せかというレベル以上に、必要なのか。むしろ、多くの現代人は「情報」に醒めている。「どこどこのお店屋さんの情報(星がいくつか)」をいくら知っていても、肝心な幸福はどこへいったのだ?

 道具、道具としての金や情報は必要最低限度で良い。しかし、私はあえて、道具への信頼というものを語りたいと思う。それはもっと素朴な意味で、人間と道具とが、あるリアルな感覚に結びついている状態、道具が自分の手の延長である感覚。なにか自分以外のものを、解釈や意味を超えて、それ自身の用途として考える考え方。生きるために必要な、「クリアな必要性」のある、リストアップされた道具たち。あえていうのなら、田舎暮らしでの、トンカチへの信頼。山暮らしに必要な実用的な道具たちへの信用。

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