おじいさんの退屈と里の青年
退屈なおじいさんが住んでいる。私は、ときどき彼に会う。物書き家業の手を休めて、里を歩いていると、彼によく出会う。彼が苦しいのは退屈である。彼の仕事は農業だが、冬はあまり仕事がないのか、退屈している。彼はよい話し相手を見つけたようで、里の若者に話しかけてくる。
「今日はあそこまで歩いてきた」「歩くのは気分が良くなる」
彼はそんなことをよく話してくれる。
元旦の日、初めて彼と歩いた。そうしたら、どうやらケータイの紐がとれてしまって、それに困っているらしいことが分かった。どこの機種だと尋ねたら、ソフトバンクだというので、お店に行くか、電話をしたらどうだ、と言った。私がやってあげてもいいが、それはやりすぎだろう。後で考えてそう思った。
私は里をメモをとりながら歩く。その時々の人生について考えながら、観念的に、具体的に方策をメモに取る。短歌や詩になることもある。いつものコースの途中で猫に出会う。それぞれ宗派の違うお寺や神社がみっつあって、手を合わせることもある。無宗教だが、手を合わせ祈っていると、そちらに気持ちが向くからご利益はあるのだと思っている。
本日、彼にあった。彼はうれしそうに、歩いていてこんな詩を作ったと見せてくれた。彼の退屈は詩を作り、散歩することで癒されるだろうか。そして、彼は、友達のおじいさんのところに行って話していたと教えてくれた。
おじいさんが里の若いもんに話すと、ケータイの紐がとれてしまったというちょっとした困りごとを周囲が分かりサポートでき、そして、おじいさんの退屈というおじいさんの困っていることが解決できる。
おじいさんは退屈が辛いようである。結論めいたことは言わないほうがいいけれど、私の近くにはあるお年寄りの集う駄菓子屋がある。いつもスルメをストーブで焼いたり、お茶を飲んだりしながら、お年寄りたちが「だべって」いる。
駄菓子屋をたくさんつくれ、とは叫ばない。でも、そういう機能が町にあるだけで、おじいさんは楽しく暮らせるだろう。