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文字にする≒息をする

 私は発話に関してものすごい量のエネルギーを消費するらしい。
 ただ返事をするだけだとしても、二回三回と続くと自分でも分かるくらい声に覇気が無くなっていくから、意識してトーンアップするのだが、それもまた苦しい。質問に答えることすら時には億劫で、出来ることなら話しかけないで欲しいし話しかけたくもない。興味というエネルギー源のせいでむしろ相手を質問攻めにしてしまうこともあるのだが、今回はそのケースの話は無しだ。
 一体なぜ発話に対して壁を感じるのか、未だによく分からない。言うべきことが分からないのか、何も思いつかないからなのか。けれど私は、自分で言うのもなんだが、自分の中は言葉で満たされ切っている。切り傷をつけたところから血ではなくて活字が溢れてくるんじゃないかと思うくらいに。そんなことは決して有り得ないが。
 言葉が飽和しそうになったとき、私はペンを取る。もしくはキーボードを叩く。言葉を口から発することは出来たら避けたいが、それと反比例するように、私は文字を書くことが好きだ。言葉を綴るために手を動かすことにほとんど労力を感じない。
 特に何の意味も無い文字列を並べることもあるし、同じ単語をひたすら書くこともある。今はそこまで酷くないが、学生時代のノートは他人に見せられるような有様ではなかった。故に板書用と自分の想いを綴る用の二つのノートを用意していた。授業に集中しろ。
 こうして記事としての文章を書いているときも、何を書こうか題材に悩むことはあっても、書くという行為自体を苦痛に思ったことは無い。それは小説もそうで、思うように筆が進まないことはあっても、書くことは楽しい。自然にそうあるべきと思えるくらいに。やっていることはただ浮かんでくる言葉を推敲もせず次から次へと放出しているだけなのだけれど、楽しくて仕方がない。
 言葉に言い表すことが辛いから書くことが楽しくなっているのか、それとも書くことが楽しい分思い通りに言葉を口に出来ない自分が嫌で発話が億劫になっているのか、それはもうよく分からない。こうして書き連ねてみれば何かヒントが得られるかと思ったが、何も思い浮かばなかった。死ぬまでにはこの謎は解けるだろうか。
 私はもう文章を書かない私を想像できない。過去に精神的、或いは体力的にきつくて文章を書けない日々が続いたことがあったが、そんなときは決まって余計に気が滅入って最悪だった。呼吸を無理矢理止めたら苦しくなるのと同じだ。少なくとも、私にとっては。
 一度話し始めたら止まらないお喋りな人と同じようなものだと思っている。言葉にせずにはいられない。文字に起こさずにはいられない。そうしないと苦しくて仕方がない。故に美しくない言葉が並ぶこともあるかと思うが、余裕があれば私の『呼吸』にお付き合いいただけると幸いである。


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