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一回り「小さくなった」2019年を振り返る

 毎年恒例行事となっているスタバでの1年の振り返り。今年は、表現の媒体をnoteに変えてみた。ブログとの大きな違いは、書き始めのページが文字通り真っ白なこと。たくさんの感情や出来事で彩られたはずの一年も、noteという媒体が提供してくれる圧倒的な白さを前に、何から書き始めてよいか迷った。大きなライフイベントが発生したわけでも、何か大きなことを成し遂げたわけでもない、この空白の一年をまさに象徴するような心境とどこか重なる。

 確かに、社会人の1年目や2年目に比べると、仕事に新鮮さがなくなった。かと言って、単調な生活リズムが日々の生活に倦怠感をもたらしたわけでもない。むしろ、「次」を見据えて自分なりに試行錯誤をしていた。その動きは、例えばFacebookやInstagramに敢えて掲載するような華やかさはなく、他人が見れば極々個人的な、些末な事柄として片付けられ、記憶に残ることもなものだろう。(そのため、とても下らないことをStoryにあげていた)

 少し仮定の話をする。もし大学院修了後の進路が希望通りであれば、私は今頃日本にいない予定だった。二年余りの国内勤務を終えて、外に学びの機会を得ていた。自分の視野を広げながら、一番脂の乗った30~40代のキャリアをどうするかを思案していた………はずだった。学生の頃、名状しがたい不安に襲われたときに私を支えたのは、そのような妄想であった。

 ただ、振り返ってみると、思い描いたまさにその通りには歩めなかったかも知れないが、社会人生活の間でいくらでも軌道修正できたのではないか、という思いが沸々と湧いてきた。去年の10月頃、福島県浜通り地域をレンタカーを走らせ、被災地を北に南に行脚していた頃に、その感情はどこからともなくやってきて、なんとか対処しないといけない状態にまで成長していた。

 借り物の言葉を使えば、不安や焦りと括れる感情を、少しでも和らげるために自己改革をした。それが私の2019年だった。

 たまたまこの記事に目が留まった人は、年末年始の暇つぶしにでも、目を通していただければと思っている。少しは役立つことを書いたはずだ。以下、目次では自己改革の中身を書いてみた。表題だけみると、巷に溢れた自己啓発本を彷彿とさせる胡散臭さしかないが、既存の本を参考にしたわけではないことを、あらかじめ断っておく。

1.身体を労り、きめ細やかに生きる

 今年は、見た目が大きく変わった年になった(より正確に言えば、高校生だった10年前に戻った)。遡ること2019年2月。度重なる出張先での飽食や休日の怠惰な生活が相まって、身長166cmにして、体重が72kgまで増えた。何となく気だるい感じがあり、自覚できるレベルで集中力が下がっていた。この情けない状態から脱却するために、食生活を中心とした生活リズムを徹底的に改革した。先に結論だけ述べると、この記事を書いている現在、体重は60kg(12kg減)、体脂肪率も15%を切り、オムロンの体組成計によれば体内年齢は25歳前後にまで改善している。では、①具体的に私が何をしたのか、②どんな工夫をしたのか、そして③その過程を通して何を学び、気付いたかを、順を追って説明していく。

1-1. 体質改善のために取り組んだこと

 私が取り組んだのは、低糖質の食事、それからランニングを中心としたトレーニングの習慣化の二点。今年の4月からRIZAP株式会社に入社した日米学生会議の後輩に「いろは」を学び、その後自分でいくつか関連する書籍を読み込んで、自分なりに方法論を確立した。

 方針は極めてシンプルで、食事については次の二点を守るようにした。

1)一日当たりの糖質摂取量を130g以下とする
2)朝・昼の二食で必要な栄養素をなるべく摂取するようにし、夜はその不足分を補うという発想で食べる

 参考までに、ご飯一膳(約150g)に含まれる糖質はおおよそ55g(角砂糖14個分)、食パンも6枚切りの1枚に含まれる糖質は大体25g(角砂糖6個分)である。ご飯を茶碗一膳分食べると、一日の摂取許容量の役半分を摂取することになる。
 炭水化物ダイエットとの区別だけしておくと、糖質制限はあくまでも糖質の制限であることだ。炭水化物は、大別すると糖質と食物繊維に分かれており、食物繊維は消化を助ける側面もあるため、栄養成分表示を見る際は気を付ける必要がある。炭水化物ダイエットが上手くいかなかった人の多くが、食物繊維を豊富に含んだ食物を摂取しないために、排泄のリズムを狂わせている印象を受ける。

 糖質摂取量に加えて意識したのが、その日の最後の食事と次の日の最初の食事の間隔だ。細かいことは割愛するが、半日断食というのを意識的に行っている。おおよそ、夜6~7時にご飯を食べ、そこから12時間は水以外は摂取しないというもので、これによって体内の「摂取→消化→排泄」のサイクルを整える効果があるとのこと。(もう少し細部を説明すると、自分の身体をある種の飢餓状態に置くことで、体内浄化(デトックス)がなされるのだという)

 これらの食生活を組み合わせることで、身体が欲しているものを、必要な分だけ、必要な時間に摂取する、ことを徹底した。具体的に何を摂取していたか、に関しては次の項目で詳しく記載する。

 また、身体の筋肉量を増やし、基礎代謝を上げるために、体幹トレーニングと30~45分程度の有酸素運動(ランニング)を週3回は行うことを習慣とした。元々走るのは苦ではなかったが、身体が軽くなるにしたがって、長距離を走っても疲れにくい身体が出来上がっていった。

↑米国や欧州でスタンダードになりつつある、ダイエットに適した食材リスト。カロリーへの言及があるのは、一番下の飲み物のところだけで、それ以外は糖類や良質なたんぱく質の有無が表示されている。よく摂取カロリーを気にする人が多いが、一番に気にすべきは糖類。いくら高カロリーのステーキを食べても、ご飯を一切食べなければ太らない。

1-2. 継続のために工夫したこと

 持続可能な習慣とすることを第一にした。身体的あるいは精神的に無理をしない範囲で、それでも効果が出るようにするには、それなりに工夫が必要だった。私の場合、一番最初に必要だったのが「やり方が妥当であり、ある程度科学的に根拠がある」と納得することだった。人によってこのあたりの考え方は変わってくるため、自分の性格に合わせてベストな準備方法を模索するのが良いのだと思う。私の場合は、理屈が通ったことであれば、迷わずに実行できる性格だったので、このことを最優先にした。

 1) 栄養学の基礎知識をインプットする
 2) 周囲に食事制限をしていることを宣言する
 3) チートディ(制限開放日)を設ける
 4) 計測結果をもとにPDCAを回す

1) 栄養学の基礎知識のインプット
 糖質制限、ケトン体、ロカボ(Low Carbohydrate)あたりのキーワードが入っている書籍を10冊程度読んだ。まだ、完全に科学的に立証されているわけではないものもあったが、普段読まないジャンルの本であるため、大変勉強になった。インプットを通して、ほぼ確信するに至ったのは、現代人は糖類を過剰摂取しているということ。それゆえに、多くの人が糖尿病になってしまっているという現実だった。

 また、一般に言われている「誤った栄養に関する知識」が、身体のメカニズムを理解することを通してアップデートされた。

 例を2つ挙げる。まず、「ブドウ糖を摂取しないと脳に栄養がいかない」ということがよく言われるが、これは大きな誤り。人間の身体には、たんぱく質(アミノ酸など)から体内で糖を生成する機能(=糖新生)があり、このお陰で血糖値が適切なラインでコントロールされているのだという。現代人の多くは、むしろ糖をお菓子やご飯、パン、メン類などから直接摂取してしまっているため、これらの過剰な糖を抑えるためにインスリンが分泌されている。(このインスリンの分泌によって、私たちは眠気をもよおす。)

 もう一つが「米食は、日本の伝統的な食生活」というもの。確かに、稲作は少なくとも弥生時代(最新の研究によれば、縄文後期から集団での稲作がなされていた可能性があるとの報告もある)に遡ることができる。しかし、実際に秋に収穫されたお米を日常的に食することができたのは、歴史の教科書に登場するような有名人など、一部の特権階級のみに過ぎなかった。市井の人々は、稗、粟、麦、雑穀などを食し、菜食中心の食生活を送っていた。この食事は、現在で言うところのマクロビオティック(通称マクロビ)に近く、ビタミンやミネラルを豊富に含んだバランスの良い食事であった。他方で、例えば平安貴族の間では、脚気(一般にビタミンBの不足により発症)が流行していたようである。砂糖菓子や白米などの高級食品を食べ続けていた弊害は、逆説的に権力者の特権的な煩い事であったという。(このような事例は、日本の歴史を紐解くだけでも枚挙に暇がない。)

 ご飯やパンを食べない(あるいは少量にする)代わりに、たんぱく質とビタミンが豊富にとれるような食生活を心掛けるようにした。具体的には、サラダ、肉魚、チーズやナッツなどをメインとする食生活へと切り替えた。俗にいう三大栄養素(炭水化物、たんぱく質、脂質)に関しても、ここで補足しなくてはならない。

 いわゆる三大栄養素と、それに基づく1日に摂るべきカロリーなどの項目は、かなり恣意的かつ無根拠に決められていることが、読書を通して明らかになった。先ほどからやり玉に挙がっている、ご飯やパンから得られる炭水化物の摂取目安量は、人間の身体を維持するのに必要な量が表示されているわけではない。実際は、平均的な日本人の食事では朝昼晩の3食でおおよそこれくらい摂取されているから、この程度は摂取するものだ、という概算で表示されているに過ぎないらしい。権威ある組織や機関が定めた基準値というのが、いかに根拠薄弱であったか、ということがこの例だけでもわかると思う。

↑ 保健体育の時間でおそらく一度は目にしたことのある三大栄養素。黄色に相当する炭水化物が、当然のごとく摂取すべきものとして描かれており、私たちはその刷り込みイメージのままに、漫然と食事をしている。

2) 周囲への食事制限の宣言
 どうしても、ランチを上司と一緒にしなければならない、という事情があると思う。私自身も食事制限を始めた当初は、上長も糖質制限中であったために、何らストレスなく食事を共にすることができたが、プロジェクトが変わってしまったタイミングで、何の工夫もなしに食事制限をすることが難しくなった。

 そこで私は、ご飯やパン・麺を食べると午後の作業に支障をきたすような体質に変わったことを、割と真剣なトーンでプロジェクトメンバーに伝えた。そのことで、ある程度選択肢があるお店で食事を摂ることになった。(例えば、ラーメン屋や中華だと全メニューがアウトだが、定食屋であればご飯なしで用意してもらえる)

 ライザップを使っていた人が、急激な肉体改造に成功しているのも、「私は結果にコミット中」であることを周囲に宣言し、それに対して周囲も理解を示してくれるからではないかと思っている。ライザップを修了してから、リバウンドした人の多くは、ライザップという立て看板がなくなり、周囲と異なる食事を摂ることへの大義名分がなくなってしまったことが、リバウンドの一因であるような気がしてならない。

3) チートデイ(制限開放日)を設ける
 そうは言っても、完全にパン、麺、ご飯を食べないわけではない。1週間に1食程度は、お好み焼きやケーキなどの高糖質なものを食べても許される日を作った。多くの場合は、友達とのご飯の日がそれに当たっていたため、自発的に設けることは少なかった。また、自分でお店を決められるときは、イタリアンやアメリカンな料理は避け、肉・魚を中心にした料理が食べられるお店を選ぶようにしていた。それによって、チートデイを温存するようにしていた。

4) 計測結果をもとにしたPDCAサイクルを回す
 はじめのうちは、1週間で1~2kg程度落ちることも珍しくなかったが、徐々に下がり方に鈍化がみられた。その際、体組成計の数値(体重以外にも、骨格筋率や基礎代謝が表示される)を参考に、どの数値を重点的に伸ばすような食事orトレーニングをすべきかを検討し直し続けた。

1-3. 体質改善を通した気付き

 すでにある程度言及してきた気もするが、以下3点に集約される。

    1) 一般常識、固定観念から自分を解放することの大切さ
 2) 「嗜好は変わる」ということ
 3) 自分の身体に関する数値は、最も簡単に改善できる数値である

1) 一般常識、固定観念から自分を解放することの大切さ
 糖質制限を始めるにあたり、周囲から「バランスの良い食事が大事」、「甘いものを食べることで脳が活性化する」、とかもっともらしい言葉を何度かけられたか分からない。ただ、自分で糖質制限やロカボと言われるものを調べてみると、むしろ一般に流布しているような学説、言説にこそ、思い込みや何らかの穏やかではない事情が裏側にあることが分かった。

 特に衝撃だったのは、糖尿病患者に対して日本の標準的な医療機関は「バランスの良い」食事を勧め続けているということだった。2019年12月時点で、農林水産省が定めた「バランスの良い」食事によれば、身体活動量の少ない成人男性はご飯をおおよそ小盛で5杯分は食べないといけない。それに含まれる糖類は、250gほどであり、角砂糖70コ分に相当する。これの意味するところは、糖の過剰摂取状態にある糖尿病患者に対して、1日平均角砂糖70個を食べ続けろと勧めている、ということだ。(もっと正確に言えば、ほかの食材にも少しずつ糖類は含まれているため、80~100個分は摂取していることになる)これでは、当然症状が回復することはなく、結果、インスリン注射を継続することになるという。

※農林水産省のHPを改めてみていただきたい。すると、本来は別個のものとして捉えるべき、人間が1日に摂取すべき栄養素と、食料自給率のトピックが一緒くたになって記述されている。このあたりにも、農林水産政策的な意図が見え透いていてならない。

 なぜ、このような事態が継続しているのか。あくまでもこれは私の邪推に過ぎないが、適切な糖質制限(強調しておくが、糖質ゼロとは異なる)で簡単に患者が回復してしまえば、糖尿病患者に対して従来施していた処方や助言の誤りを認めることになる。それは、既得権を有する学会や権威ある先生の学説、ガイドラインを否定することにつながるから、簡単には承服しかねるのだと思う。これは本来の医療の在り方ではないが、現実はこれに近い事態になっているものだと思う。この状況を憂い、個人的に患者さんに対して糖質制限を進めている医師もいるらしく(糖質制限の新書の著者にも何人か)、水面下では静かな変革が始まっているようだ。

 糖質制限を調べていく中で、やはり「常識を疑え」という教訓を得ることができた。「知識は力」とはよく言ったものである。一部の人にとって都合の悪い真実は、一般常識や慣習という名の衣に包まれて隠されていることが多いのだ。情報が簡単に手に入る時代だからこそ、私たちは何か壁にぶつかった時には、簡単に諦めることなく「何か良い方法はないか?」と問い続ける姿勢が必要なのだ。

2) 嗜好は変わる
 糖質制限のことを話すと、大体このような反応が返ってくる。

「白米を食べないなんて無理」
「食べたいものを食べるのが一番」
「ピザ、パスタ、お酒を日常食べられないなんて、人生損してる」 etc...

 それぞれ、本人の思想なのでそれ自体を否定はしない。ただ一方で、私たちの嗜好は変わるのだということも、今回の身体実験で学んだ。私は元々、甘いものに目がなく、和スイーツをはじめ、あれば手あたり次第に食べていた。そのため、糖質制限開始当初は、相当我慢をしていた。ただ、ビタミン、ミネラル、良質なたんぱく質を摂れる食生活を続けているうちに、身体が欲して食べたいものが徐々に変化し始めた。

 それまで必要だと思って食べていたサラダは、今では食べたいと思って食べているし、晩御飯の代わりに食べるチーズやナッツも、何度も食べているうちに好きな食材の一つとなってきた。また、いまでは「ロカボ」マークのついたお菓子がスーパー、コンビニに陳列され始めており、そこまで我慢をすることなく、好きなものを食べられる環境が整いつつある。最近は、ロカボチョコ(食物繊維が豊富で、糖類ゼロ)なども開発されており、今後ますます増えていくものだと思われる。

※最近、頻繁に使っているナチュラルローソンには、ロカボ商品の棚がある。時代が徐々に、適切な食生活に私たちを導いてくれている予感がしているのは私だけだろうか?

 これは何も食生活に限らないことだと思っている。仕事も初めは与えられたものかも知れないが、業界知識や専門知識が増えるにしたがって、できることになり、運が良ければ好きなことへと格上げしていくこともあり得ると思う。それを妥協と捉える人もいるだろうが、今年亡くなられた国連難民高等弁務官(UNHCR)の緒方貞子さんも、初めから難民問題に関心があったわけでなく、UNHCRで働き始めるまでは政治学者として、日本政治外交などを教えて教鞭に立っていた。それでも、彼女は国内避難民に関する問題に断固とした決断を行い、また人間の安全保障というコンセプトを提唱、世に広める発起人の一人となった。

 時代が求めるものと、自分が求めるものが必ずしも合致するとは限らない。それに、自分が求めるものというのも、振り返ってみると、ある時点においてたまたま身近であったことに過ぎないのかも知れない。私たちは、趣味嗜好という型に自ら当てはめて知らず知らずのうちに、機会を逸してしまっている可能性がある。目的のためには、嗜好すらも変えられる。それくらいの柔軟さは持ち合わせてもいいのでは、そんなことを思った。

3) 自分の身体に関する数値は、最も簡単に改善できる数値
 世の中の多くの仕事は、程度の差こそあれ、結果を実感できるまでにどうしても時間がかかる。長い間、日の目を見ない地道な努力が必要なこともあるだろうし、時間をかけたのに徒労に終わってしまったこともあるだろう。そんな中にあって、自分の身体というのは素直だ。ほんの少し、食生活を改めるだけで、トレーニングの方法を適切にするだけで、数字に表れる。

 日本、世界を問わず経営者やプロフェッショナルと言われる人の多くが、筋トレやヨガ、ランニングなどに励む理由もおそらくこのあたりにあるのだと思う。こういう人は、非常に辛抱強く、事業の成功までの努力を続けていっている。しかし、心の中では、歯痒い思いもしているに違いない。そんな時に、日々、成長を実感できるもの。それが、持ち上げられるバーベルの重さであったり、ハーフマラソンの完走時間であったり、身体の可動域の伸び幅であったりするのではないか。

 主従関係で言えば「従」に相当する営みにおける数字に振り回されては元も子もない。けれど、積極的に自分のモチベーションアップに活用して、それが巡り巡って「主」とする営みの結果に跳ね返るような仕組みにできれば、もっと毎日を豊かに過ごせるような気がする。

2.平凡なことを侮らない、きちんとやりきる

 今年の1月~6月までの半年間、前田塾のトップキャリアコースに第一期生として参加した。少し概要を説明する。このコースの狙いは、20代~30代前半の社会人が、全15回の講義+ワークショップ+懇親会(最後が一番重要)を通して、今の社会人に必要な素養(会計・ファイナンス、AI・機械学習、日本政治、ビジネス全般)を身に着けることにある。塾の主宰者である前田さんが選抜した講師陣の面々は、歳がかけ離れたベテランばかり…というわけではなく、受講生との年齢差でいうと、斜めの関係が築けるくらいの開きである。にも関わらず、どの方も素晴らしい経歴を持った人たちばかりであった。(今回は書けなかったが、このコースに参加した受講生の仲間たちも、良い刺激をくれる人たちばかりだった。社会人になって人間関係が会社に閉じてしまっている最中にあって、これ以上求めることができないほど良いコミュニティだったと振り返る)

 そのような人たちから実際に語られることの多くは、輝かしい成功談ではなくむしろ悪戦苦闘、試行錯誤、紆余曲折、といった言葉で形容せざるを得ない、そんな体験談ばかりであった。

(※興味がある人がいれば、ご一報下さい!)

 何か、彼ら/彼女らに共通点はあるか?

 全コースを終え、また第二期で新たに加わった講師の講義を受け、その場に居合わせた受講生と語らう中で、出した結論が表題の言葉に集約される。

平凡なことを侮らない、きちんとやりきる

 実はこの言葉、私が卒業した横浜翠嵐高校の理念である。高校HPにある「大平凡主義」の記述を少し引用する。

本校は、大正3年に前身である県立第二横浜中学校が開校してから100年を超える歴史と伝統をもつ学校でありますが、その校風として必ず取り上げられる言葉に「大平凡主義」があります。これは、初代校長の滝沢又市先生が生徒に話された「平凡主義」という言葉が、時代とともに「大平凡主義」という言葉になって現在に伝えられています。「大平凡」とは、平凡であることを大切にする、平凡であることの価値を認めて大切にする、言い換えれば当たり前のことを大事にして、一日一日を大切にすることです。
(強調著者)

 平凡という言葉が喚起するイメージに惑わされ、長年、意味を掴み損ねていた。ただ、齢30歳を前にしてその言わんとすることが腑に落ちた。私なりの理解を示すと、おおよそこのような感じになる。

 社会的に成功を収めている人が成し遂げたことは、長い時間を要する大事業(ビッグプロジェクト)である。一足飛びには出来そうなことではないし、限られた人しか出来そうにない。けれど、一大事業を細分化してみると、一つ一つの要素は、物事を突き詰めて考えれば、むしろやらないことが不自然な「やって当たり前」のことに過ぎない。それを、目的達成のためにきちんとやり抜くか、手抜きをしてしまうか…それが最終的な結果の差異となって表れる。面倒臭くても、少々遠回りのように感じられても、愚直になすべきことをきちんとやる。それこそが、平凡を超えた大平凡主義を体現する行動様式ではないか。(読者各人で具体的なケースに当てはめて、考えてみてほしい。敢えて抽象論のまま、この話題については筆をおろす)

 もちろん、運/不運といった不確定要素も、成功を左右する。一方で、運以前で私たちができることはたくさんある。結果に一喜一憂する前に、自分の頭で想像しうる限りにおいて、ベストを尽くすことを2020年においても肝に銘じておきたい。

3.直感に素直に、違和感を言葉に

 今年の初めからすぐに取り組んだのが、表題の言葉だ。ある時、自分の過去の意思決定を振り返る機会があり、私にとっての重要な決断(作為/不作為ともに)を、現在の視点からみて優れた決断であったか、後悔してもしきれない誤った決断であったかに大雑把に分類し、次に各々の決断に至る判断の過程を可能な限りで思い出してみた。

 その結果分かったことは、高校卒業後の意思決定に限って言えば、私の決断は、直感的に良さそうだと思った選択肢はその通り良く、そうでない場合は直感通りに不幸な結末を迎えていた、というものだった。もちろん、他の選択肢を取っていたらどうなっていたかは検証できない。一方で、だからこそ直感に従ってみても良いのではないかと思った。

 直感的に正しいと思ったことは、すでに気持ちが実行することに向かっているのだから、多少苦労をすることはあっても、最後までやり通せる。他方、直感的に違和感があると実行に迷いが生じる。迷いは、自分のみならず周囲も不安にさせる。さらには途中から意思決定自体への否定に繋がり、不断に自分を責めることになりかね無い。「なぜ、その決断を下してしまったのか」と。

 では、直感的に違和感のある時にどうすれば、自分の気持ちに折り目をつけて「実行する/しない」の適切な判断ができるのだろうか。これも当たり前のことだが、違和感を言語化する、に尽きるのだと思う。なぜ、その意思決定がマズイと思うのか。正反対の意思決定をした場合と何が違うのか。想定されるリスクは何か。といったことを一つ一つ意思決定の段階で言語化しておくと、最終的な意思決定において、少なくとも意思決定権者である自分自身は迷わない。迷いがある場合は、言語化の程度が甘いのだ。

 徹底的に思考し、脳内で試行を繰り返した末の決断は、確固たる意志を伴う。その意志は、未来を自ら望むようなものへと導く推進力となるに違いない。パーソナルコンピュータの父と呼ばれる科学者、アラン・ケイの言葉ではないが、「未来を予測する最も確実な方法は、それを発明することだ(The best way to predict the future is to invent it.)」

4.結び

 今年は、長々と紙幅を割いて記述した心身の改革に時間とお金を投資した年となった。2020年は、この自己投資を少しずつ回収していけるよう、ベストを尽くしていきたい。

 なお、来年からは旅・書籍などからインプットしたことを、noteでアウトプットしていくつもりである。時間のある方は、お付き合い頂きたい。皆さま、良いお年を。

大学院での一番の学びは「立ち止まる勇気」。変化の多い世の中だからこそ、変わらぬものを見通せる透徹さを身に着けたいものです。気付きの多い記事が書けるよう頑張ります。