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裏保健委員だった頃

学生時代の私には、居場所がなかった。学校には行きたくなかったが、家にいるのはもっと嫌だった。第一、心が辛いというのも、身体が辛いというのも、私の家では学校を休む理由にはならなかった。コロナというものが流行してしまった今ではありえないが、小学4年生の私は朝の熱が39度あっても、学校に行かされた。(もちろん屋外での全校集会で倒れた。)

そんな私が唯一心と身体を休ませられるのが、「保健室」という空間だった。小学生の頃から通い始め、大学を中退するまで通った。中学2年生と高校2年生の頃は、1日の大半を保健室で過ごした。「保健室の先生」は私が行くと何も言わずに、ベットに寝かせてくれた。家では日中横になるのが禁止だったせいで、夜以外で横になれるのは、保健室だけだった。

高校や大学では、留年の危機というものがある。そのため私は、授業の先生から課題をもらって保健室でやっていた。それでも、1日保健室から出られなかった日は、とてつもない罪悪感に襲われる。中学の頃は、保健室からグラウンドが見えたこともあり、そこで体育をやっている同級生を見ては息が苦しくなっていた。

そんな私に、保健室の先生はいつもこう言ってくれた。
「今日、私がいない時に来室者の対応してくれたよね。本当に助かった。いつもありがとう、裏保健委員さん。」
私は保健委員ではない。でも、先生は保健室での作業を与えてくれて、私の罪悪感を薄めてくれた。運動会の物品の買い出しを一緒にしたこともある。当日も、怪我の対応をする白いテントで、来室者の対応を一緒にした。

「それじゃいつまでも教室に復帰できないだろ」と思う人もいるかもしれない。だが、先生も週に何回か教室まで連れて行ってくれていたのだ。それでも、入れなかった。何故だかはわからなかったし、今でもわからない。

「保健室」は当時の私にとって、唯一の居場所だった。「ここは私の家だ」とすら思っていた。家庭環境のことも話していなかったのに、よくいることを許してくれていたなと思う。

今年に入ってから、久しぶりに高校時代の保健室の先生に会う機会があった。障害者手帳を取得したことや、今仕事をしていないことを話し、ガッカリさせてしまうかと思ったが、「よく頑張っているね」とチョコをくれた。先生は、いつまでも先生だ。

保健室で飲んだ、先生の作る抹茶ラテが好きでした。

あの頃のぬくもりはずっと心の中にある。いつか私が誰かにぬくもりを届けるね。

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