見出し画像

34年前に 金沢→東京 耐久ランをしたときの話

 東京と金沢を結ぶ交通網は鉄道,高速道ともに新潟回りか滋賀回りとなるが,国道でアルプス山脈を超えれば直線的になり最短距離で移動することができる.これをロードレーサーで走り通したら面白そうだと思い,1989年8月19日から20日にかけて決行した.
 ルートは金沢市→ 細尾峠 → 白川郷 → 天生峠 → 高山 → 安房峠 → 松本 → 塩尻 → 甲府 → 東京,距離455km,獲得標高7768m となるコースである.

1.使用した自転車

  • フレーム:Rossin (Columbus AELLE)

  • コンポ: シマノ サンテ 7速 (Wレバー, Fメカ,Rメカ,ブレーキレバー), シマノ600EX (キャリパーブレーキ,クランク)

  • ホイール:カンパ Victory Strada(リム) + アルテグラ(ハブ) 36Hの手組み

  • ペダルとサドル: LOOK PP66,サンマルコ ロールス

  • メーター:CATEYE CC-7000

  • ヘッドライト:ナショナル  フォーカスライト FF-292S (ハブに取り付け), CATEYE HL-200(ハンドルに取り付け)

 DHバーはスコットのクリップオンバー.つい1ヶ月ほど前のツールの最終日にて,グレッグ・レモンが伝説の逆転劇をしたパリの個人タイムトライアルにて使っていたものである.
 DHバーの性能にいたく感激し,当時ミーハーであった私は急遽取り寄せて装着した.この耐久ランが初めてのDHバーの使用であった.

 サドルバックの下のシートステーにはウインドブレーカーが,ダウンチューブの下にはスペアタイヤがトゥーストラップで括り付けてある.

 携行品は次の通り:

  • 工具一式 (六角レンチ,ドライバー,ニップル回し,チェーン切り,リムセメント)

  • 着替え (レーパン,レーサージャージ,宿泊先用のシャツと短パン)とタオル

  • 輪行袋(体積も重量も今の輪行袋の3倍くらいありデカかった)

  • 輪行時用のシューズ (中学生の時の体育館シューズを流用)

  • 地図(昭文社 2輪車 ツーリングマップ,中部版,関東版)

  • ワイヤー錠,カメラ,ライト用の単一電池,単二電池数個

 これらの荷物は自転車の後ろに写っているLOOKのポケット付きナップザックで背負った.ズッシリとくる重さで ,本当にこれで走れるのだろうか? と最初は自分でも不安になるくらいであった.

2.神奈川から金沢まで

当時住んでいた,神奈川県綾瀬市を8月16日昼ごろ出発した.

1989年8月16日撮影

お約束の国道1号最高地点(箱根)にて
ここまではいつものトレーニングコース

その後,国道1号線を夜通し走ったが,0時を過ぎても気温が30℃を下回らない熱帯夜で,とにかく蒸し暑かったことを覚えている.

名古屋駅前にて(1989年8月17日)

翌 8月17日朝,名古屋駅前通過
初めて愛知県を走って知ったこと
(1) コンビニで休憩していると,地元の若者から「ケッタマシンでどこまで行くの?」と声をかけられた.
愛知では自転車のことをケッタと呼ぶことは,噂では聞いていたが,本当なんだ!と少し感激した.
(2) 愛知のコンビニは サークルKがやたらと多い

 のんびり走って,15時頃に,滋賀県木之本町の琵琶湖の近くにある賤ヶ岳ユースホステルに到着した.走行距離は390kmであった.


翌日 8月18日朝,金沢に向けて出発.

近江塩津の駅前にて(1989年8月18日)
上の写真の20年後,同じ場所に立つ筆者
輪行で乗った電車(419系普通電車)

武生に10時頃到着
金沢まではあと90km,当初は金沢まで走るつもりであったが,前日の疲れが抜けきっておらず,翌日のトライに影響しそうだったので,武生から金沢までは輪行で移動することにした.
駅弁を買って車内で食べた.

昼ごろ金沢に着いて,午後は散策などをして過ごす.
夜は松井ユースホステルに宿泊
松井ユースは定員15名の小規模な施設で,自分以外は大学生か社会人のバイクツーリストがほとんどであった.互いに情報交換などをして楽しく過ごした.


3.金沢 → 東京 耐久ラン

出発の朝,同宿の方と記念撮影

1989年8月19日
実は今日は僕の17歳の誕生日である(狙ったわけではなく,偶然そうなった)
朝7時  金沢市を出発
(以下,当時のメモがないので,記載の時刻は自分の記憶です)

天気が良く,まだ涼しい国道304号を快調に走った.
43km地点細尾峠のトンネルを抜け,坂を下ると国道156号に出る.ここからは南下して白川郷に向かう.

 しばらくすると,フル装備のランドナーに乗ったサイクリストに追いついた.キャンプツーリングをしている大学生の方であった.
 僕はこの後も峠が控えていることから,体力を温存しながらのんびりと(20-25km/hくらいで)走っていたので,しばらく一緒に走ることにした.

  76km地点,白川郷に11時半頃に到着
 蕎麦屋で昼食
何を食べたのかは忘れたけど,大学生の方にご馳走になったことだけは覚えている.

昼食を食べた蕎麦屋の前にて(1989年8月19日)

ランドナーの大学生の方とはここで別れた.
ここから国道360号に入り,天生峠を目指す.

国道360号から見た白川郷の一部(1989年8月19日)

国道沿いにも茅葺屋根の家屋が多くあり,雰囲気のよい上り坂であった.
しかしそれもすぐに途絶え,その後は静かな山道となった.

天生峠にて(1989年8月19日)

14時頃,天生峠(標高1290m)に到着
ここから宮川までは快適なダウンヒル
宮川に出たら,国道をJR高山本線と宮川沿いに南下する.

 途中,クロスバイクに乗った地元の若者を追い越したところ,後ろに必死についてきた.疲れてはいるが,ロードレーサーに乗っているのに抜かれるのも恥ずかしいので,こっちも必死に漕ぐ.
10kmくらいそんなバトルをして,無駄にエネルギーを使ってしまった.

 高山市内に入る手前5kmくらいのところから県道89号に入り,近道をして,平湯峠に向かう国道158号に入った.
ここから平湯トンネルまで21kmのヒルクライムである.
補給食を食べたり,休憩をしたりしながら,少しずつ登っていく.

休憩中(1989年8月19日)

 登っているうちに日が暮れて,平湯トンネルを越えて平湯の温泉街に着いたのは19時頃であった.
 温泉街は観光客が多く,お土産屋さんがとても賑わっていた.
 折角なので,僕もここで何か土産を買うことにした.
 選んだのは「飛騨高山の写真集」
 ただでさえリュックが重いというのに,ますます荷物が増えてしまった.


さて,ここからは安房峠に向かって登っていく.
道は真っ暗闇
遠くは見えないので,ライトで照らされる目の前の白線だけを追いながら登っていく.
安房トンネルはまだ建設中の頃であったが,峠を超える車はほとんどなかった.
20時半くらいに安房峠(標高1790m)に到着した.
峠の茶屋があったが,もうこの時間には閉まっていた.

 ここから松本までは快適なダウンヒル… と言いたいところだが,真っ暗闇で道が全く見えない(当時はライトに関する規則が無かったのと,電球式でもあったので,ヘッドライトが今では考えられないくらい暗かった).
 少しでも車が走っていればマシなのかもしれないが,この時間帯に峠越えをする車は皆無である.

 ライトで照らされる白線を見失わないように,ゆっくりと下る.油断をするとすぐにスピードがあがってしまうので,上りよりも遅いくらいの速度で,ソロリソロリと下った.

 安房峠の松本側の下りは下の図にも示すように,へピンカーブが連続するので,とにかく怖かった.

 ソロリソロリと下っていると,3個目のヘアピンカーブくらいのところで救世主が現れた.
 たまたま後ろから走ってきた乗用車が,暗闇の中を自転車で下っている私を見て不憫に思ってくれたのか,私の速度に合わせながら,後ろから車のヘッドライトで道路を照らすように走ってくれたのだ.これには本当に助かった.

 釜トンネルの入り口のところまで下ると,そこからは道路照明があり,ようやく普通に走れるようになった.照らしてくれた乗用車の方にお礼を言って,頭を下げた.


 ここからは快適なペースで走って,新島々の駅前を過ぎて松本に向かった.
 腹が減ってきたので晩飯としたいが,食堂もコンビニも全く見つからない.結局,松本インターのところまで下ってようやくファミレスを見つけて,そこに入った.
時刻は22時頃,220km地点であった.

 松本からは国道19号に入り,塩尻に向かう.
 途中,国道沿いにEPSONの大きな工場があった.
 当時,自宅でNEC PC98のパソコンとEPSONのドットインパクトプリンタを使っていた.
 その頃,僕にとってEPSONは新進気鋭の先端企業というイメージの会社で,信州地方を本拠地としていることは知っていて,どんなところだろう? と興味があった.
 ロードレーサーにまたがりながら,工場の前で立ち止まり「ここがエプソンなのか!」と感銘を受けたことを覚えている.

塩尻市内のEPSONの工場(昭文社 2輪車 ツーリングマップ,中部版より)


 夜0時頃,236km地点の塩尻に到着
 ここが国道20号線の起点である.
「あとはこの甲州街道一本で東京まで」と思うと気持ちが楽になった.
 ここから塩尻峠までは4車線ある上り坂で,深夜でありながらも交通量が多く,どの車もかなりの速度で走っている.
 個人的にはヒルクライムはこういう道が一番苦手だ.
 塩尻峠(標高1012m)を越え,諏訪湖に下る際の夜景が綺麗だった.

 
 深夜の国道20号をひたすら走る.
 途中で腹が減ってきたが,コンビニは全くない.
ようやくオートスナックが見つかったので休憩し,自販機のハンバーガーを食べた.

 富士見峠(960m)には登りらしい登りを感じることなく,いつのまにかに到着していた.「なるほど,この峠を越えれば,富士が見えるということか」と素直に感じた.
 峠を越えると,次第に朝の気配がやってきた.
 
 朝の韮崎市内にて,国道20号の下り車線に警官人形がポツンと立っているのが見えたので,記念撮影をした.

韮崎市内にて(1989年8月20日)
同じ場所の現在の様子 (Googleストリートビューより) 
警察官はいつしかいなくなったようだ

 その後,甲府手前のコンビニで休憩し,朝食をとった.
 甲府にははじめて来たので,国道20号から外れて,甲府駅(324km地点)まで行ってみた.
 甲府の街の様子を観察するなどしたのち,国道20号に戻り,笹子トンネル(標高739m)を超えて,大月に入った.
 大月まで来れば,ここから先はよく知った道である.

 相模湖から大垂水峠に向かって登る.
 はじめて大垂水峠を登ったのは13歳のとき
 当時はほとんど押して歩いたが,今ではこれくらいの峠なら余裕で登れるようになった. 
 402km地点の大垂水峠(標高392m) を越えて高尾に向かって下る.

府中のあたりにて(1989年8月20日)

国道20号を都心に向かってひた走る.
そして,午後2時頃,ついに455km地点のゴールの代々木ユースホステルに到着した.
全く眠くならず,体力的にも精神的にも余裕をもってのゴールであった.

代々木ユース入口で記念撮影(1989年8月20日)

 代々木ユースでは,フランスから来た旅行者達と同じ部屋になった.ツール・ド・フランス や ベルナール・イノー の話題で盛り上がった.
 外国人と初めて英語で話をして,自分の英語もちゃんと通ずることが分かって,とても嬉しかったことを覚えている.

4.翌日

 翌日8月21日は代々木と渋谷で過ごしたのち,夕方東京を出発し,国道4号線と121号線をナイトランして日光に向かった.
日光のいろは坂に登ってみたかったからである.

 8月22日の朝,日光駅前で休憩をしているとき,埼玉県鳩ヶ谷市から輪行でやってきたH君と出会った.同い年ということがわかり,意気投合して一緒に登ることになった.
 いろは坂は思っていたのと全然違って,勾配がきつくなく,ラクに登れて拍子抜けしてしまった.

日光 明智平にて,H君と(1989年8月22日)
H君が撮ってくれた走行中の私(1989年8月22日)

 H君とは帰りも一緒に走って,鳩ヶ谷で別れたのち,22日の夜遅くに神奈川の自宅に帰宅した.8月21日から22日にかけての 東京→日光→神奈川 の走行距離は350kmであった.

1989年 高校2年の夏

8月16日から22日にかけて,3泊7日の楽しいロングライドであった.


終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?