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蝸牛角上で争う螺旋

以前に海外移住をするとしたらどこの先進国が一番好ましいか?と考え、後にどこの後進国が一番好ましいか?と考えるようにもなった。ケニアでケニア人が野生生物への水遣り活動を何年もしていて何年も前からネット上で観ていて、そういうのっていいな~って思う。

機能不全家族、虐待、虐め、精神疾患、自殺、非行、発達障害、異能、ギフテッドやサヴァン、そういった事への関心が高かった時期もあったけど、人が絡む事は結構疲れる。頼ってきた人の中では他の人に「福祉職員さんはお金を貰っているから私の相手をしてくれるのでしょう?」と言っていた事もあった。

人間以外の生物では人間が好みやすい犬や猫の保護活動をする人は多いが、絶滅危惧種や特に人間に好まれにくい生物は見向きもされない事も多い。虫なども見る人の主観によって益虫や害虫と呼びレッテルを貼る。

短期的や目先で善かれと思った事が中長期的には新たな問題を生み、そんな事を人類史は繰り返してきていて、行き着いた先が昨今の世の中。

例え人類が国や人種などに関係なく理解し合えて平和に調和や協調が成り立つようになっても、人類の為に犠牲になる肉や野菜や果物や穀物はどうしてもあり続ける。何も傷付けず殺さず、それで過ごせたらどんなに幸せで平和な世であろうか。なぜ生きる為に何かを殺して何かを食べなくてはいけない設定なのだろう?種を遺す為に同種や多種で生存競争をし続けなければいけないのだろう?

俯瞰して観れば生きる為に殺し食べる事は地球という一つの生命が細胞の新陳代謝を行っているだけの事かも知れない。それを特に人類は主観によって蝸牛角上の争いを繰り返し続けているだけなのかも知れない。


2022年07月11日 記

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