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人生は選択の連続。同時に問い掛けの連続。

コロナやワクチンの騒動、それ以前からある様々な社会や世界の問題、一人の人間としての生き方。そういった様々な事を想ったり考えたりして、人生は選択の連続であり、同時に問い掛けの連続でもあるなと思いました。

人生は選択の連続については以前から思っていた事なのですが、問い掛けの発想が生まれたのはジョージア・ガイドストーンです。陰謀論として人口削減が話題になっていますが、僕は視点の一つとして「三年飛ばず鳴かず」を連想しており、逸話としては中国の春秋戦国時代に楚の荘王が忠臣と佞臣を見極めていた時に、忠臣からの諫言によるやり取りがあります。それなのでジョージア・ガイドストーンというものはありますが、ただあるだけであり、あなたはどう思いますか?という問い掛けでは?という視点ですね。

因みにジョージア・ガイドストーンは1980年に建てられ、解釈は様々ですが「広く合意を得ている解釈としては、荒廃した文明を再構築するために必要な基本概念について説明したものだという説がある。ブラッド·メルツァーは、石碑が冷戦さなかの1979年に建設されたことから、その意図は第三次世界大戦の生存者へのメッセージである可能性を指摘した。モニュメントに刻まれた「人口を5億人以下に維持する」という提案は、人類がすでにこの数以下に減少したという前提で記されたのかもしれない、とする。従って、現在文明を築いている人類が滅亡した後の世界に向けた、”文明再建のためのレシピ”だと主張する論者が多くいる。」と判断されているようですね。

そして敢えて「人類は5億人以下」と強調された画像も出回っています。


歴史を学ぶと人類の歴史は戦争の歴史でもあります。戦争は正義vs悪の対立ではなく、正義vs正義の対立です。そこから学ぶ事は価値観の強制が極悪なのかも知れません。

そして価値観の強制が強くなると、多様性や自由選択の尊重が薄まり、懸念や危険性に対する問題提起も失われていきますよね?

歴史上でも全体主義は自滅を迎えていました、現代の日本でも全体主義や同調圧力や皆一緒を問題視する提起が多々あります。

ですので多様性や自由選択の尊重が失われていくと、その失われた集団は自滅を迎えやすくなる危険性が高いと思います。

多様性や自由選択を尊重するという事は、結果的に自分の身を護る選択にも繋がっていくのでは?と思うのです。


そして難しく思うのが善意や善行なんですよね。世間一般で良くないとされるギャンブル依存症とか薬物中毒とか、他にも挙げたら多々ありますよね?

そしてそれを良くないよと改めさせようとする時に自由選択を阻害して正しいとされる事を強制しようとしてしまっているんですよね。

もう少し進めると、学問をした方が良いです、遊んでばかりは良くないです。でも遊びにも学びはありますし、学問が好きな人にとっては学問も遊びです。修行での苦行も、ゲームでの縛りプレイも遊びです。ただ世間一般としては遊んでばかりであまり考えず学問をしない人は不幸になりやすいとされています。そして個人の主観として学問をせずに遊んでばかりと観える人に対して学問を勧める事の是非はどうなのだろう?と。


勧め方にもよると思います。子育てや部下の教育についての話題でもある事ですが、頭ごなしや上から目線や脅迫的なものは良くないよねとされていて、実際に僕もそうされて嫌だと感じたので徹底的に反抗してもきました、逆に良くないよねとされている事をしてしまった事もあります。

冷静に考えれば良くないよねと思う人は多いと思うのですが、心理としては自分の考えに従わせたいという価値観の押し付け正義の強制というものがあり、価値観の押し付けをしたい対象は大きく分けると、大切な存在であるからという場合と、自分にとって都合良く動かしたいからという場合があると思います。

後者の自分にとって都合良く動かしたいからは私利私欲なので多くの人が悪いと思うでしょう。前者の自分にとって大切な存在であるから、この場合は物凄く悩みます。

危険性が低く時間が掛けれる事であれば、様子を見ながら適度に伝えていく事も出来ると思います。危険性が高く時間を掛けれない事であった場合は?そして緊急時の正義の強制も100%正解では無いかも知れない?

出来る事の限界はあるので、大切な人を優先したり、ベストではなくともベターの選択をなるべくしたり。それが考える上で仕方の無い選択になるのかな?

また、善意や善行も欲望だと思うのです。安心安全健康で居続けたいと思うのも欲望で、金儲けしたいと思うのも欲望です。その欲望を悪巧みで利用しようとする詐欺師や謀略家は枚挙に暇がないです。


僕は生い立ちに様々な不幸とされている出来事があって、でもそれらの体験が学びとなって現在の幸せに繋がっている。小学校の勉強すらまともにやっていない中卒だけど、好奇心や探究心が旺盛で独学で何でも学ぶし行動して体験したりもする、それも現在の幸せに繋がっている。

でも世間一般としては普通とされている人生が幸せになる為のものとされていて、でも幸せになる為のものとされている普通の人生とされている生き方によって不幸だと主張する人達が社会に多くなってきてもいる。なぜだろう?


政治や社会に於いて英雄を求める声もあったりする。英雄に全てを任せて責任を預けてしまえば楽かも知れない。しかし英雄任せにした選択は多くの不幸を歴史が物語ってもいる。

英雄に全てを任せて自分の人生を全て預け全てがうまくいくのであればそれも有りなのかも知れない?けれども英雄が失敗したら英雄の責任にして終えるのだろうか?英雄は判断ミスをしないのだろうか?英雄は悪事を働かないのだろうか?英雄は心労を溜めないのだろうか?


ウィンストン・チャーチル曰く「民主主義は最悪の政治形態だ。これまでに試みられてきた他の政治形態を除けば」

そしてナチスを生み出した政治形態は民主主義だったんですよね。これは民衆が自分の人生に責任を持たなかった事により暴君を生んでしまったのかも知れない?

創作物の「銀河英雄伝説」の中にある一つのテーマは「清廉な専制政治vs腐敗した民主政治」ですね。

資本主義にも共産主義にも長短があると思います、冷戦の頃の資本主義側は共産主義に傾く人々を懸念して福祉を手厚くしたという話があります。

現代までは共産主義は失敗を重ね自滅してしまいました。戦後昭和の日本は官僚による護送船団方式とも言われ、唯一成功した社会主義国とも言われていたようです。

蜂や蟻は自然に共産主義的な生態をしていて種を繋いでいます。そこには残酷な側面もあり、子供を産めなくなった女王は巣から捨てられてしまうようです。雄は極少数であり基本的に働かないようです、交尾の為だけに存在していて交尾と同時に死ぬようです。蜂や蟻は脳や心が複雑でないから出来ているのかも知れませんね。

そして現代は均衡を保っていた共産主義が衰退した事によって資本主義が勢力を増し新自由主義が進む事となっています。それによって様々な問題が提起されるようになりました。

民主主義の国々で管理を強める傾向が高まる一方で、かつての共産主義国であるロシアやルーマニアが自由選択を強める傾向になっている。これは何を物語っているのだろう?

人類は永遠に満足しない?塞翁が馬?糾える縄?循環?


管理社会についても様々な話題がありますね。

自由を尊重した場合は自己責任の度合いも高まり、判断して選択する事が苦手な人は生きるのが難しくなってしまうから優秀な人に管理されたいと思うかも知れません。

管理を尊重した場合は自由の度合いが低まり、管理されるのが苦手で自分で判断し選択した方が生きやすくなるから自由がいいと思うかも知れません。

兼ね合いやバランスや臨機応変さ、物事に対して個々に是々非々などあると思いますが、自由と管理、責任の所在や割合などとても難しい問題だと思います。


ギフテッドや発達障害、勝ち組や負け組、区別したり分類する必要ってあるのかな?

区別や分類すると一見は解りやすくなるよ?でもその区別や分類は正しいのかな?

区別や分類する事で解ったフリになってしまって思考停止してしまう懸念や危険性もあると思うんだ。

そして区別や分類が差別や対立を生み出してしまう懸念や危険性もあると思うんだ。

僕はある意味で後進国の人達の方が幸せかも知れない?という視点があって、それは文明のメリットを享受出来ないけども、文明の禍で不幸にならずに済んでいそうであるから。最近ではアフリカの部族的な人でもスマホを持っていたりもするけどね。

解りやすくする為の区別や分類が差別や対立を生み出したり、より良く生きる為の文明が大きな禍を生んだり、哀しいね。


コロナもウイルスも自然災害も問い掛けかも知れない?僕は何かを憎んだ事もあるし、何かに感謝した事もあるし、何かのせいにした事もあるし、何かを反省した事もあるよ。

学校も会社も友人も恋人伴侶も、飲み物も食べ物も道具も、様々な選択の機会が訪れるけれども、様々な問い掛けを受けているのかも知れないね?買い物は投票だっていう意見もあったり。


みんなが部分的に智者であったり愚者であったり、善人だったり悪人だったり、多数派だったり少数派だったり、みんな色んな面があってそれで良いのが社会かも?

僕も学問の話をしたり、ウンコの話をしたりする。
最近も怒ったり、泣いたり、笑ったり、忙しい日々を過ごしている 笑。
でもそれは僕が人間であるから自然な感情なんだ。
僕が生きているからこそ湧き上がる感情なんだ。


これを書く事は社会貢献とか世の中を変える為ではないんだ。
ただ僕が想った事や考えた事を公開しただけで自己満足なんだ。

僕は世間一般の価値観を強制される事態や、集団から馬鹿にされたり虐められた体験があって。でも現時点に於いてはそういう人達に比べて僕の方が幸せになっていない?という事から、そういう人達を度々馬鹿にしたりする発言もしていたから良くないなと思い始めてきました。

また、侮蔑的に大衆という言葉を度々使っていたけれども、それもですね。それと主要メディアの影響で多くの人がって批判があって、僕はそれに対してメディアが何を報道しようとも個人の選択は自由と書きつつ、大衆がどうしたいか?的な事を書いた事があるけれども、僕の反省点としては大衆がどうしたいか?は僕の生き方には全く関係無い事だなと思った。つまりは僕も大衆のせいにしているところがあったなって。

僕は定期的に自分という存在を疑問視している、それで反省するところは素直に反省して今後に活かすようにしている、誰の為でもなく僕が成長し続けたいからで、成長し続けた方が幸せだなって思っているから。

常に敵は自分自身なのかも知れない?僕は自分自身に負けたくない♪

僕はより良くの為にブレ続けると以前に書いているし、僕の責任は僕の人生と妻の人生。
だからこれを読んだ人の人生の責任も読んだ人にあると思うんだ。

僕はこう思うけど、あなたはどう思う?と振ってしまうのも、ある意味で考える事を強制してしまうのかも知れない?とも思って。
だから考えない自由もあると思うんだ。難しいね。


僕は愛する妻と、愛を教えてくれた亡き猫のかみゅくんを愛している。

僕は愛する妻と平穏な日々を過ごしたい、過分な権力も金銭も要らない。
だから僕は、僕と妻が平穏を過ごせる日々について考えるし行動する。
自由が好きだから正義の押し付けには反抗するし、自分もしないように気を付ける。
困っている人がいたら無理しない範囲で助けれる時は助ける。
それが僕が正しいと思う生き方、あくまで僕の価値観、大衆の中の1人である僕の価値観や選択。
僕は政治家にも教祖にもなろうとは思わない、あくまで大衆の1人なんだ。

あくまで僕は大衆の1人、世界中で生きている人間の1人、生きている生物の1匹。
永い歴史の中で、どれだけの生物が過ごしていったのだろう?
その生物達は何を想い何を考えていたのだろう?
この世って宇宙って地球って不思議だね、凄いね、謎がいっぱいだね。


人間は誰しもが永遠に未熟であるから永遠に成長の機会があるのかも知れません。
この世の答えは永遠に出ないから永遠に思考し続ける楽しさがあるのかも知れません。

こういう思考に至れたこの世に感謝します、ありがとう♪
(=^・▽・^=)ノシ ~♪


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