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食での「贅沢」という言葉の再定義を目指した方が良いのではないだろうか?

こんにちばんわ。

今日はタイトルに書いているように贅沢という言葉の意味を少し考えていきたいと思う。そこで辞典でそもそもの意味を調べてみようかと思う。

大辞林第三番解説
ぜいたく【贅沢】
( 名 ・形動 ) スル [文] ナリ 
①必要以上の金や物を使う・こと(さま)。 「 -な食事をとる」
②金・労力などを多くかけている・こと(さま)。 「 -な建物」 「布地を-に使って仕立てる」
③その人物の立場に比べておごっている・こと(さま)。 「 -な悩み」 「君にこの服は-だ」
[派生] -さ ( 名 )


辞典で調べてみると、これは結構なネガティブワードなのが分かる。
確かに、言わんとしていることはわかるけど、たぶん現代のほとんどの人が「贅沢」という言葉の概念は「richリッチ」だと思いポジティブワードだと認識しているのではないだろうか??(まあこれは②に当てはまるか…。)

「贅沢な食事をとる。」
という例文が①にでているが、これは実は現代の人々が無意識的に行っている行為なのではないだろうか?

ハレの日には外食ができ、腐らない食べ物が重宝され、時短や料理をしなくていいといった手軽さを価値にする物がなければ仕事すらできなくなり、海外の食べ物を「インスタ映え」と呼び、もてはやすことがそれに当たるのではないだろうか??と考えた時があったが、現実的にこれらの要因をなくしてしまったらそれこそ生きること自体が難易度ハードモードだ。

で、あるなら「贅沢な食事」とは家族そろって地元の物を美味しい状態で丁寧に料理したものを食すことなのではないだろうか?
料理を食べれる時間的余裕と食品鮮度からみた直接的な食品摂取までの時間の速さ、そして安堵感のある食卓の空間というものは現代人にとってそうそうできるものではないのかもしれない。ということだ。

そう思った時にこれからの外食産業での新しい可能性(わざわざそこのお店にいってまで食べなければいけない価値など)のキーポイントは

「再現性の低さと希少性、そして文化的価値」

だと思う。

どいうことかというと
1、再現性の低さとは「その人が作らないと同じ味にならないもの」
2、希少性とは「そこに行かなければ食べれないもの」
3、文化的価値とは「アート的要因を含んでいるもの」
ということになるかと。

1と2はわかりやすい。1はそのシェフやチームでなければ調理の再現度は低くなるということだ。つまりはどこかのお店のパクリをしたところでその店の味にはならないという事。(グランメゾン東京でもやってた)

2は二パターンあるだろう。一つはその場所にいる人に会いに行くこと。そこに行かなきゃ会えない人やバーのマスターなどもそうだろう。もう一パターンは、さっきの「食品鮮度からみた直接的な食品摂取までの速さ」を意味している。例えば熟成や発酵物でも美味しいタイミングはコントロールがしやすいし、「お造り」にいたっては言わずもがなだろう。

3はどいうことかというと、エルブリやnomaはガストロノミーの人にはわかりやすいかもしれない。青森でいえばあかつきの会などもはいるだろう。伝統文化の食を現代に残す活動や、新しい文化の概念を作り出すもの、もしくは社会的風刺を感じさせる物など様々で、その形は人それぞれだろう。

この概念を通してみた時、フォアグラやキャビア、トリュフなどの豪華や贅沢と呼ばれる高級食材は日本では意味をなさなくなる。
わざわざ日本にきてまで海外産の高級食材を食べる意味は遠くから来た人にとっては残念がることはあっても嬉しくなることはないだろう。
「贅沢=金銭的価値の有るもの。」という図式は物流とテクノロジーの発展によりその希少性を失い見事に破綻していると思う。

しかし、これはまだ地方では旧来の図式がすこし生きている。
それはなぜかというと、遠方の人だけがくる飲食店というのはなかなか地方ではやっていけない。【飲食店】という特徴的な業務形態上、その場所に根づかなければいけない為に、どうしても顧客は地元の人となる。
となると、さきほどのキーポイントはすべてが正反対の意味を持ち、滅多に食べることの出来ない外の物に価値が出てくる。つまりは、「まだ」地方では昭和的な飲食店を続けていけるだろう。

なぜ、「まだ」かというと自動運転のおかげで移動コストが減るからだ。
つまり、移動しながら生産性の高められる人類が来た時、遠出をすることは自然になる。時代がすすめば家全体が移動をする日も遠くはない(キャンピングカーが自動運転になればいいだけなのだから)

そうしたときに、食にとっての贅沢という言葉は今の意味と異なってくる。

また、SDGsも関わってくるだろう。アメリカ産の牛肉やメキシコ産のアボカドような環境(社会的環境も含む)に負荷のかけた大量製造食品はそれだけで需要がなくなる可能性がある。そうしたときに自国の物やあらゆる認証を受けた「人が暮らしていく為の持続可能性を考えた」食物、または野生の木の実などの希少性と人件費がかかった食物などに需要がより、食品の価値は今よりは高い物になる可能性があるからだ。

こうしたことを考えて、これからの食の未来を考えた時、贅沢をまだポジティブワードとして使うならばその意味は再定義されるのではないだろうか??

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