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好奇心と善悪

 こんばんは、28歳女です。普段は音楽系のコンテンツの編集者をしていて、アーティストインタビューをライフワークにしています。

 先に言いますが、これは長過ぎる愚痴です。では、書き出しが謎な愚痴を書きます。

好奇心の行き場

 ちなみにこの記事の画像は、妊婦の友達のお腹の音を聴きたがる私の姿です。どう見てもセクハラです。

 ところで……自分の好奇心の行き場を知りたいと思いました。散漫な私の好奇心が、日々自分のためにしかなっていないし、たまに他人から怒られたり呆れられる原因になるからです。仕事も自分がとにかく楽しい感が強いこともあり、たまに不安になっています。私の好奇心、悪説。

 そもそも好奇心とは、「知らないことを知りたいと思う心」のことで、その気持ちが強い人間を「好奇心が旺盛な人」と形容することがありますね。小さなころはほめ言葉と認識してました。

 でも私が小さなころから「好奇心が旺盛だ」と言われてきた理由は、他人から見て私が「コントロールできない人間」だったからではないかと思っています。これは私が自分の好奇心の正体を悪だと思う理由の一つです。

  • 勝手に歩きながら、堂々と集団から居なくなる

  • やらなくてはならないことよりもやりたいことを優先する性格

 以上のようなわがままな性格を、良く形容すると「好奇心旺盛な子」だったという解釈です。周囲の利口な子がそう形容されてた印象がない。(他に褒めるところいっぱいあるから)

好奇心は善にも悪にもなる

 先に結論を書いてしまいましたが、「わがままで好奇心旺盛な人」として生きてきたら、自分の好奇心が「完全なる悪」になってしまった経験を何回かしてきました。具体的には書きませんが、友情、恋愛、仕事でも。怒られたらもちろん謝るけれど、心底納得できなくて落ち込みます。だって、すべてに悪意がないからです(それが問題だと分かってます)。

悪な好奇心とは→「変なことしちゃう」

 私は好奇心が悪になる瞬間とは「変なことしちゃう」だと思っています。

 他人から「何でそんなことするの?」と言われるような勝手なことや奇行を、何がしかの「快感を確かめたい」という理由でしてしまうときこそ、好奇心が悪になる瞬間ではないかと。

 頭では分かっています。こんな野外の変な場所で寝っ転がっちゃおかしいよな、とか。こんな物使っちゃダメだよな、とか。

 頭で分かってないこともあります。こんな質問しちゃいけないんだ、とか。これ言ったら人は傷付くんだ、とか。こんなことさせちゃいけないんだ、とか。

 私は放胆過ぎない性格なので、少し他人を振り回す程度で済んでいますが、心からサイコパスじゃなくて良かったなと、思うのです。

悪な好奇心例①犯罪に手を染める

 先に言いますが、私はそこまでいってないです!

 ただ世の中の犯罪はすべて、「自分の幸せのための好奇心」が生み出しているなと時々思います。例が少なくてすみません。

  • 殺人:生き物が死ぬ姿を見たかった

  • 殺人:生き物の身体の中を見てみたかった

  • 殺人:好きな人の浮気相手を消して自分の理想の世界にしたかった

  • 強盗:大金を手にした生活をしてみたかった。相手を困らせたかった

  • 強盗殺人:強盗相手と自分の生活を入れ替えて生活したかった(映画の『パラサイト』みたいな)
    ……etc.


 私の奇行と犯罪者の罪の共通点は、自分の幸せを追求するための好奇心です。どちらも、誰かを傷付けたり、迷惑をかけることがあります。

 実は最近の私には、ある小学3年生の知り合いがいまして(19歳差)、話していたら、学校で詩を書けと言われて「みんなが楽しく 暮らすことができる 人生を作る」という詩を書いたと言うんです。

 これ理想郷への好奇心であり、多分、善ですよね。彼女は共産主義的な意味で発言してないし、ただ「自分だけが幸せ」を願うことに何がしかの嫌悪感があるというだけ。善い好奇心は希望に満ちた子供に宿ると思いました。

 9歳で誰かの幸せの裏に不幸があることに気付いていれば、奇行にも犯罪に手を染めることはないだろう、と私は思っています。とは言え、子供は平気でありを踏みつぶしたりしますから、子供の好奇心が全て良いわけではありません。


悪な好奇心例②常識外れになる

 犯罪もそうですけど、世の中には辺境かつニッチな思想というものがあり、その個人的かつ極端な思想により「健康的な生活に支障をきたす」例があると思います。

 また少なくてすみませんが、例を書いてみます。

  • フェミニズムを気にするあまり、本来便利な表現だった、性別を特定する代名詞を利用するのが怖い世の中へ

  • 親が高い壺ばかり買うせいで学費や生活費がなくて、満足な教育を受けられなくなる

  • 「子供のため」と言いながら結局「自分のため」の離婚をする

  • 究極の愛を探す過程で、さまざまな異性に手を出しては手放したり、向かい風が多い恋愛に手を出してしまう

  • 過労死者を防ぐために残業を取り締まった結果、無賃残業をさせてしまう
    ……etc.

 この利害関係に満ちた世界だと、誰かの善を求める好奇心の裏に、悪……とは言わないまでも課題や問題がどうしても寝そべってしまうのかもしれません。

 誰かの理想が、誰かを傷付けて、不幸を生むというのは、好奇心の弊害だと思っています。良い人を求めるからって異性を取っ替え引っ替えするのは、とても利己的ですよね。

好奇心を向けるべき先はどこ?

とりあえず自己犠牲に注目

 こんなに長々書いたのに……、

 私は良い好奇心を、一言で言い表せません。よく分かっていません。できればどなたかに教えてもらいたいです。

 好奇心をどこに向けたら、他人も自分も幸せになりますか? 何か分野はあるでしょうか。

 例えば2年前に考えごとをして、6割の「自由」と4割の「自己犠牲」を意識して生活をしてみました。(元はほぼ10割自由でした)結果、こんな長々とした愚痴を書くような人間になってしまいました(苦笑)。多分良い割合じゃないんだと思います。

 マイペースで人を振り回したり、自分勝手な好奇心に他人を巻き込んだりして、他人に嫌われたりしたくないけれど、上手く行動できません。私はやっぱりわがままな人間です。

 そんなところで、ふと思い出したのがキリ教の教え、隣人愛です。「神も、敵も、弱い人も、自分みたいに愛しなさい」という意味だったと記憶してますが、違ったらごめんなさい。

 私には、利己的な考えは愚かで、身を結ばないから、思い切って自己犠牲でもして愛を成立させてみては?という提案をされていると思えました。

でも自己犠牲は愛にはならない

 でも自己犠牲に振り切り過ぎたら破綻してしまいます。分かりやすく言うと、相手の言いなりになったら都合の良い女になっちゃいました、みたいな感じです。または、いじめっ子の言いなりを続けることで、進歩のないコミュニティを維持するような感じです。都合の良い女は男に愛を与えることができませんし、いじめを放置することでいじめっ子やいじめられている子は成長の機会を逃す。そんな、流される人間は、やっぱり価値が低いと思います。

 結局のところは、誰もがバランスよく生きなければならないし、周囲に良い影響を与えないといけない。

 ただ私には、その良いバランスがよく分からない……自分の好きにすることと、相手を思いやるバランスが分からないんです。

好奇心を他人への愛に向けるのが難しい

 バランスを上手く取れない私のような女の人は、他人への愛に好奇心を抱くのがとても難しいです。

 なぜなら、他人への愛は自己愛とごっちゃになりやすいから。なぜごっちゃになるかというと、好意の返報性により、相手の自己犠牲として返ってきちゃうからです。

 愛することを望んで投資していたはずが、愛され貯金の投資信託になっちゃってたみたいな事態になる。友人はそれが人間のあるべき姿だと言っていましたが、私は何か返ってきた途端追いつかなくなる感覚で揺らいでしまいます。

 自己犠牲が返ってきてしまうと、結局のところ±0どころか、感覚的には+になっちゃったりして、「私、得しちゃってないかな……?」みたいな。そうならないパターンだと「私、損し過ぎてないかな……?」もあります。こんなこと考えたくないのに。迷惑じゃないかと不安になる。考え過ぎて宇宙船に乗る。

 今日は友人に「元彼を傷付けない報告の仕方」を相談したら、「客観的に見たらあなたは過去に振り回されてきたから、こんくらいはっきり伝えて全く問題ない」という加虐性のバランスに関する指摘を受けて、自分は意外に恋愛で損しやすい人間だったのかと衝撃を受けました。

 私に損をしてる感覚がなかったので、それも含めて少しその指摘には哀しくなりました。

 こうして自分の思いやり、好奇心の方向性は、さまざまなことをきっかけに見失われていきます。

私の好奇心よ、平和のためになれ

 損をしている感覚がやや薄いお気楽な人間なのだとしたら、しれっと損をしながら、誰かを満たし満たされつつ、破綻しないように生きていきたいと思います。

 それに友人から見て良い人間の私だって、もしかしてある元彼から見たら嫌な人間だったりするでしょうし。

 私には、多分、自分でも分からない本性があると思います。

 私にできるかは分かりませんが、自分の愛する自由や好奇心が、たまに誰か他人、ないし自分を傷付けてしまうことを避けなくてはならないと思いました。

 そうやって、何かのためになる好奇心を育まなければならないと思うようになりました。

 愛のためではなく、隣人のためでもなく、自分のためでもない。「世の中の全誠実への捧げ物」みたいな好奇心を探してみたい。

 それは、何でしょうか。信念に沿うことでしょうか。柔軟に受け入れることでしょうか。

 そんな得体の知れない好奇心は、どこかにあるんでしょうか?

 私は一体、何にかき乱されているのでしょうか……迷走しています。こんなに寒いのに、春の香りがして怖いです。

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