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生きるとは、死ぬことと見つけたり

昔から長生きしたいという願望はなかったけど、「球脊髄性筋萎縮症」を発症してからは、その気持ちがもっと強くなってきた。今この瞬間にすべてを投げ出してしまうのは、自分勝手かつ自己本位な考え方だから、行動に移すことはないけど、底なしの沼にはまりそうなときがある。

「死にたい」という積極的な気持ちはないけど、「死んでもいいかな」といった気持ちは消えることがない。その原因は、「球脊髄性筋萎縮症」という難病を受け入れていないことにある。今出来ることを、しっかりと理解する。そして、出来ることを楽しむ。取るべき行動は、単純なことかもしれないけど、なかなか割り切ることは難しい。未だに頭の中のイメージは、発病前とあまり変わらず、現実と理想のギャップが埋めることができない。

この間、球脊髄性筋萎縮症患者のオンライン交流会に初めて参加した。本音をぶつけ合う感じではなかったけど、個人的な印象としては、淡々と病気という事実と向き合う、諦観にも近い空気感を感じた。前向きな言葉を拾うことはできなかったけど、「死んでもいいかな」という気持ちも含めて、あるがままに現実を受け止めること。それは自然なことで、無理のない難病との付き合い方のような気がした。ネガティブな感情を抱くのは当然で、その気持ちを否定することにエネルギーを割くのは得策ではない。そう考えると、肩の力が少し抜けて、ホッとため息が出るような気がした。そして、オンライン交流会に参加して、救いだったのは、難病の進行は想像以上に緩やかで、人生のロスタイムがまだまだありそうなことだ。

まだまだいろいろな選択肢を持つことができそうだけど、カラダが動かなくなる未来はそれも少なくなる。もしかすると、時間が経つことに比例して、死への渇望が濃くなる可能性がある。そんな感情と共存しながら、ボクは生きていくのではないかな。そして、忘れないようにしたいのは、自分らしく生きるための選択を見誤らないこと。今のボクがイメージしているのは、長生きのための無意味な延命治療はせずに、「生」に対してポジティブなイメージのままで死を迎えたいと思っている。


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