欧州旅行記❿「あなたのミラノ」
タラップを踏みホームへ降りると、薄汚れた駅舎は耳慣れぬ軽快な言葉で溢れている。いつものことだ。エスカレーターはない、長い登り階段に溜め息をついて、これもいつものように、重たいトランクと登り始めると、後ろから伸びる毛むくじゃらの腕が見えた。泥棒かと思って振り返ると、丸顔の男が、人懐こくウインクをして見せた。彼はそのまま、トランクのハンドルを握り、階段を登りきると、あたふたと礼を言う私に、またウインクを飛ばし颯爽と雑踏に消えた。ミラノはそんな、いつも通りではない一瞬から始まった。
先進国と途上国は、その地域が持つ気候が生んだ差だと語る本を、いつか読んだことがある。寒く、飢えていて、一筋縄では生きられない地に生まれた人々は奪うことを覚え、暖かく食べることに困りにくく、生きやすい地に生まれた人々は、呑気な生活を覚えた。両者には、生や勝敗の価値観に大きな違いがあるのだ、と書かれていた。まるごと正しいとは思えないが、納得できる気もする。ミラノには、これまでの国々には無かった南欧独特の悠長さがあった。享楽的で刹那的。怠惰で幸福。腹の立つことと暖かい気持ちになることが交互に訪れ、推し量ることの出来ない深みと、ぺらぺらの軽薄さのどちらがこの国の本質なのか、見えなかった。
路面電車、トラムのチケットは、街中の煙草屋で買うことが出来る。片道切符、ワンウェイチケットが欲しいと言うと、ワンウェイはもうない、ワンデイを買え、と言われた。もう夕方だ、ワンデイなんて買う意味もない。騙されていると思ってカッとして飛び出したが、確かにどこの店に行ってもワンウェイがない。一駅歩いてやっと買えたが、結局ワンデイは損ではなかった。
広場の噴水の辺りに座っていると、アフリカ系の物売りがヘイブラザー、と言いながら近寄ってくる。これは友達のお前へのプレゼントだ、そう言いながら、虹色のミサンガを私の右手に結び付けた。そこから、プレゼントだったはずのそれを、最初は5ユーロ、徐々に3ユーロ、1ユーロと値下げながら金をせびる。よくある手口だ。冷たい私に金は取れない、と諦めて立ち上がる彼に、いい暇つぶしになったと1ユーロを握らせると、複雑そうな顔で立ち去った。
泊めてくれたロザリオという男は実に朗らかな小太りの禿げだった。彼は家に入ると、俺はヌーディストだからと言って全裸になり、私にも郷に従えと、全裸になる事を要求した。仕方がないと脱ぐと、日本のポルノを見よう、しゃぶってやろうか、と続く。彼はホモセクシャルだった。流石に断り、次の日彼の家を出た。
通り過ぎる電車の窓から、高齢の男性が、これまた高齢の女性の重そうな荷物を、声をかけて運んであげるのを見た。
赤信号の度に、停車する車の前に出て行き、見事な大道芸をやって小銭を稼ぎ、信号が変わる前にまた引いていく、わずか1分ほどのパフォーマーを見た。
腹立たしいこと、小気味の良いこと、訳の分からぬこと、確かにそうだと思わざる負えないこと、悔しいこと、素晴らしいこと、美しいこと。こと。こと。こと。ミラノは、あらゆることに塗れている。混沌としているわけでもなく、調和の上に成り立つごた混ぜは、九つのヨーロッパ各国の、どこにも無かった。もう一度行くとすれば、どこへ行きたいかと問われれば、迷わずオーストリアのグラーツ、そしてここ、ミラノを挙げるだろう。私のミラノはそんな場所だ。そして、あなたがミラノへ訪れるなら、また違ったミラノを、見るのだろう。
最終日前日、ミラノ滞在の間ずっとお世話になり、ロザリオの家を出た後泊めていただいた、松本氏の店で髪を切ってもらった。彼は、ミラノで唯一日本人で美容室を営む、静かだが情熱的な人物だ。インドで知り合ってから、もう一度お会いしたいと思っていた。文字通り裸一貫でイタリアに修行に出た彼が、ミラノでお店を構えるに至った話、彼の友人達の話、酒を飲むと旅疲れで居眠りをかます失態も犯したが、毎晩強烈な刺激で心を焦がした。彼に散髪をしてもらったのが、今でも自慢だ。
背の高いイタリア人が、私とすれ違いざま、
"very nice shoes!"
と声を掛けてくれる。
"thanks! it's from your country, made in Italy! my favorite!!"
なんて返せれば、旅慣れているのだろうか、まだ私には、
"a…ah, thank you!"
程度しか言えない。思えば、道を譲る度にグラッツェ!とにっこり微笑んでくれる彼らは、誰しもが善き人々だった、と、思うのだ。
フライトの朝、目を覚ますと日の出の太陽がミラノのシルエットを段々と露わにしていく。あなたのミラノは、私のグラーツであり、彼らのプラハであり、僕のチューリヒであり、君のパリだ。旅は延々と、様々な顔を見せながら、一歩踏み出す足の下に広がっていく。
あなたのミラノ。2014年3月11-17日。
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