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「25の春、彼女は男だった」上

 人生で、本当に滂沱の涙を流したのは、数度しかない。私はまだ27で、あと数日で28になる若者だから、今後何度もそんな涙を流す時に出会うのだろうが、それでもこれまでの幾度かは、死ぬまで忘れられないのだろうとも思う。
初めての涙は、母の貯めた金を盗んで使い込んだ時。彼女がその金を特別な思いで貯めていたのを知った時、自分の愚かさを身を切る程の痛みで知った。涙は止まらず、喉から聞いたこともない声が出た。
次の涙は、中学で上京し、つらい寮の一年目に耐えかねて脱走し、逃げついた長野駅から野尻湖に向かう電車の中で流した、悔しさの涙。耐えれられない自分に耐えられず、これからも逃げ続けるのか、と考えると溢れ出して止まらなかった。結局その後、東京に戻った。
三度目は、大学に進学して一月程経った時届いた、幼馴染みの訃報。彼女はなんの意欲もなく一貫で進学した私とは一線を画す労を払い、有数の美大に進学した。命の重さが何によって決まるのか分からず、交通事故などという有触れた理由で死んだ彼女と私を天秤にかけて泣いた。
最初の涙が人の痛みを教えてくれ、二度目の涙は決心を、三度目で命の重さを学んだ。その後も幾度も、学びに背く間違いをしたが、滂沱の涙は流していないから、学びを汚さずには済んでいるかもしれない。
今回、記憶する限り最後の四度目の涙を、つらつらと書きたい。これは、私の体験した性と生き方に関する学びの話だ。

 2014年の冬、ヨーロッパにいた。旅の動機は色々あったが、根本は"人に出会うこと"が目的だった。知らない人と会って、話したり笑ったりしたい。だから、カウチサーフィンを使う事にした。カウチサーフィンは一種の民泊だ。街の住人が自宅のカウチ、いわゆるソファーを寝床として貸し出すサービスで、宿泊料金が発生する事はなく、泊めてくれた晩に飲む酒や飯を奢ったり、簡単な土産を持っていく事で成り立つ、貧乏旅行者専用のサービスである。ヨーロッパの旅は危ない目にもあったが期待通りに終わり、帰国後今度は泊める側に回る事にした。何人もの旅行者を泊めるうちに、"彼女"は現れた。

 彼女、Tは、すれ違えば振り返りたくなるほどの美女だった。後で知ったがクオーターで祖母のロシア系の影響だろうか、身長は180cmを越え、肌は白いが国籍であるアジアの血がエキゾチックさを添えた。友人とのこっぴどい別れで傷ついて旅に出たのだ、と話すTに、いつの間にか夢中になっていた。
モテたことも、モテることも無かったから、私は駆け引きも探り合いも知らない。数月の間に何度か泊まりにきた彼女に、一世一代のつもりで告白をした。そこから、Tの住んでいた名古屋に旅行をしたり、ついぞ経験したことのなかった甘やかなバレンタインを祝ってもらったりし、東京にTが転職してきて、いつの間にか同棲を始めるまで、ほとんど時間は掛からなかった様に思う。

 あの頃の生活は輝いていた。学生だった私も、転職したてのTにも金は無かったから、特別な事は何もしなかったが、恋人と過ごす時間はこんなにも甘酸っぱいのだと知った。時間は瞬く間に過ぎた。彼女にも私にも、少しづつ問題はあった。だが少なくとも私には、取り立てて大きな支障はなかった。
これまで出会った誰よりも美しくて女らしいTが、本当は男性なのだと知ったのは、同棲を始めておよそ3年経った春の事だ。
切っ掛けは特別ではない。彼女に贈った革の財布は、2年ほど経った頃から美しい飴色になり、革好きの私はソファに置かれたそれを、何の気無しに手に取った。撫で回し開くと、見慣れぬ在日外国人の居住証明証が見えた。すっと引き抜くと、genderと書かれた項に、Mと印字されていた。一度見て、何かの間違いかと思い、二度見て辞書を引いた。三度見て初めて、狼狽した。
思えば知識としてあった、「生理」のためのナプキンを家で一度も目にした事はなかったし、「行為」についても気付くべき節はいくらでもあった。それでも経験の少なさと思い込みが、一度として気付く機会を与えてくれなかった。

経験の少なさを、恨むべきだったろうか。出会い自体を恨むべきだったろうか、打ち明けてくれなかった彼女を?そうは思わない。何故なら、私はTが好きで好きで堪らなかったからだ。それよりも、姓の範疇を理解出来ない自分を恨んだ。Tを理解してあげられない、理解不足を恨んだ。四度目の滂沱の涙は、ここで流された。

「25の春、彼女は男だった」下

#性同一性障害 #ジェンダー #恋愛

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