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「25の春、彼女は男だった」下

 性は、最近とみに重要視される様になった。頻繁に使うTwitterにも今年に入ってからちらほらと、男性同士の出会いのためのアプリケーションが広告で出てきたりするし、LGBTを公言する公人は増えた。だが頭で理解しても、直面すると理解を迷う時は多々ある。
それまで連れ添った恋人が男性だと理解するのは、かなりの苦しみを要した。私にとって、子供を作る事は人生で最重要の項目に思えていたから、まずそこに苦しんだ。次に、親の理解を得られない事に苦しんだ。彼らに打ち明けたのは随分経ってからだったが、母は歯に衣着せず反対をした。これまで彼女、と呼んでいたのを、彼と呼び変えた。私は傷ついたが、当然だとも思う。
私は彼女の性別を知ってから、まず一週間誰にも打ち明けられずに悩んだ。別れるべきなのか。知った、と打ち明けるべきなのか。気付かないふりをするべきか。何故打ち明けてくれなかっただろう。これまでの思い出を振り返ると、涙が止まらない。嗚咽が洩れるそれでは無かったが、気付くと止め処なく流れた。一週間経ってTに悩みながらも、"何かを隠しているのであれば、打ち明けられる様になってからでいいから、打ち明けて欲しい、責めはしない、理解しようと努力するから"と伝えた。我ながらずるい物言いだった。彼女はこれまで通り私を質問攻めにし、ついには答えざる負えなかった。

 その後の彼女の語りは、要領を得なかった。隠していたとも隠していないとも、悩んでいたとも悩んでいないとも、濁した言葉には語られなかった。次第に理解のない日本人や、友人達への非難の言葉に変わった。
今思えば、それで仕方なかったろう。Tの性は、生まれた時から女性であり、不運にもただ、体の作りが一致していなかっただけのことだ。生まれながらにして背負った病に、他者の理解を求める必要はあるだろうか。一言の説明は必要だったかもしれないが、理解は違う。
その後Tとの関係は、2020年の初春、小さな切っ掛けが火種となって別れるまで、およそ三年続いた。

 私が性の問題を、完全に乗り越えたかというと、そんな事はない。理解しようと努めたが、その後Tに彼女の性について切り出す事はほとんどなかったし、彼女も説明をしようとはしなかった。最後の一年は真剣に結婚を考えたが、Tからそれを望む話は出なかった。私の中にも半ば自棄くその様な気持ちもあったかもしれない。ただ今でも、Tとの別れに胸が痛む。彼女の性を理由に別れたのだ、とだけは思わないで欲しい。別れは凡庸な理由だったと、知って欲しい。書けば書くほどうまく言えないが、乗り越えずとも好きだった。

LGBTを、病気や障碍、と表現するのは、間違いだ。そう生まれてきたからそうなのだ、それが当たり前なのだ、と言われれば、そうだと答えたい。だが、直面した私には、綺麗に片付けることがどうしても出来なかった。理由を付けねば説明出来なかったし、納得出来なかった。だから私は、結局乗り越えられなかった。Tに心から申し訳ないと思うし、それでも心の底から好きだったと、矛盾を感じながら痛感する。

 私たちを取り巻く環境は、これからもどんどん自由になるだろう。やれることとやりたいことは広がり、伴い権利と義務も増えるだろう。そして、その度選択が増える。自由と選択は、必ず対だからだ。
別れた今、勝手だが、Tには自由に生きて欲しいと感じている。性や友人に振り回されずに。これまで通りに。そう選択をして欲しい。

四度目の滂沱の涙は、性と生き方を私に教えた。25の春、彼女は書類の上で男だった。だが少なくとも私の中では、彼女はいつまでも、彼女のままだ。

#性同一性障害 #ジェンダー #恋愛

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