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欧州旅行記❺「ベルリン 鐘が鳴り」

 ベルリン行きの夜行電車は、乗車時刻になっても、一向に到着しない。一緒に待っていた女の子の似顔絵を描いて喜んでもらったりしていたが、結局その日、電車はこないままだった。何故遅れたのかオランダ語の説明に訳もわからぬまま、鉄道が用意したホテルにチェックインしたのは夜中の2時過ぎ、久しぶりの広々としたベッドは、非常識な4時のチェックアウトを寝過ごすのが怖くて使えず、最後の最後まで治りの悪いオランダなのだった。

ホテルに着いてぶっ倒れる様に眠り、次の日起きて外に出て一番最初に目にしたのは、ベルリンテレビタワーだった。第二次大戦時、徹底して連合軍に焼き尽くされたベルリンには、これまで目にしてきたヨーロッパの古都の景色とは全く違う近代の街並みがある。建築物の高さ規制も無いから、そこここに背の高いビルが立ち並び、クラフトワークに代表されるドイツテクノは、石畳ではなくアスファルトの上でこそ生まれたのだと感じる、そこはかとない未来感があった。

 ベルリンで私は、疲れ切っていた。日本を出てからまだ、二週間も経っていないのに、先のオランダは、心をへこませた。ただでさえ金が無かったから、現金は鞄やブーツの中、トランクの奥底へと分けていたが、アムスの宿を飛び出した後、100ユーロ無くなっている事に気付いたのだ。ウィードばかり吸っていたジェイだろうか、それとも…詮無いことが頭の中で渦巻き、更に疲れは加速した。
宿でぶらつき、無料の珈琲を啜る私に声をかけたのは、中国人の歩上と、アルゼンチン人のイグナシオだった。歩上は同じアジア人に、何の気無しに声をかけたらしかったが、話をすると共通点が多いことも分かった。黒縁メガネに自分で切っている髪の毛、彼も私も、ギャップイヤーを取って旅をする、同い年だった。イグナシオはというと、もう随分と長くベルリンでクダを巻いている様子だった。無精髭を伸ばし遠い目をする彼に連れられて、行きつけのケバブ屋や何料理か定かではない安いアジア料理を食べたが、何故旅をしているのか、ドイツで立ち止まっているのかは、ついぞ分からなかった。今でも時折彼の写真をFacebookで見る。どうやら美しい女性と結婚した様だ。

 戦火の追悼を、街のあちこちで目にした。当時西と東を隔てたブランデンブルグゲートは、今では人の往来が絶えないが、広場にあるユダヤ人追悼記念碑、と呼ばれる巨石の碑群は、中に入るとしんと静かで、時が凍りつく。鐘が鳴りこだますると、今でも流される涙の音の様だった。ベルリンは、その街自体が記念碑か墓標の様な冷たさを纏っていた。いくら信号機のアイコンが可愛くても、巨大な熊のぬいぐるみを店先に並べても、石の様に静かだ。
ベルリンを離れる最終日の朝、歩上と連れ立って、数ブロック先のイーストサイドギャラリーに向かった。東西を隔てたベルリンの壁を、およそ1kmに渡って保存している。壁には様々な描き手が、壁の向こうを夢見て絵を描いていた。ブランデンブルグゲートを鳩が持ち上げる絵、自動車で壁を突き破る絵、東ドイツとソビエトの首脳が接吻する絵、、、これは、日本にもあったはずの世界なのだ。分断され、生き別れ、夢見たはずの向こう側…また鐘は鳴っている様な気がした。

プラハへ向かうために、宿に荷物を取りに戻り、起きたばかりのイグナシオに別れの挨拶をしに行くと、彼はぽつりと、俺もそろそろ、この街を離れようと思う、と言った。

ベルリン、鐘が鳴り。2014年2月22日-25日。
#旅行記 #ヨーロッパ #ドイツ #ベルリン

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