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20240703 くたばれ

全てがアホらしい。

5月に植えたニラが育たない。北西向きの部屋では、いくら陰生植物(?)のニラといえども、やはり育たないのだろうか。6月からは、焼け石に水の気持ちで、栄養剤を混ぜつつ水やりを続けているが、一定以上から成長する気配を見せない。最近は小バエすら起きつつある。隣に住むおじさんは外干し派だから、洗濯物についてしまったら申し訳ないなと思う。そういえば、この家に住み始めてちょうど1年が経つ。入居時、電気ガスの契約を忘れて2日ほど友達(どうせ俺のnoteは読まないだろうしあえて言うなら親友と呼ぶべき人間)の家に居候させてもらってから、もうそんな月日が経ったのかと。7月が異動時期の我が職場にも、昨日、後輩の方々がぞろぞろと入ってきた。まだ何も手についていないのに、何かを教えることができるのか、という対外的な心配の前に、内面的な事由、主に自分の心の不安定さに嫌気が差す。あまりに、脆い。父親には「お前は意外とストレス耐性が強い」と言われたが、それは元々ガタガタなメンタルに無理矢理、体育会精神という強化外骨格を、町田駅の周辺のビル群、通称“町田のハリボテ”のように貼り付けているだけであって、根本的な解決になっていない。ストレス耐性マイナスだったのを、上手い昇華方法を覚えてプラマイゼロに戻しただけで、強いわけあるもんか。高校時代の同級生に行ける時に病院行っといた方が良いと言うアドバイスもいただいた。ご尤もである。話は全然変わるが、今日は小さい劇場でonelifeという映画を見てきた。WWⅡ中のチェコスロバキアで現地の子ども達の英国疎開を行った難民支援者の話。“始めたら終わらせろ”ってのが、私には刺さる。どんなことでも出だしは早いし経過も順調だけど、結論を出したり話をまとめるのが非常に苦手だ。福部里志ではないけれど、けど、里志の心持ちはとても共感できるなと素直に思う。当時氷菓を見ていた頃の、全能感があった頃の、あの頃の自分とは違う捉え方をできるようになった。なってしまった。勝ちに拘らない、とかね。勝ち負けがつくことが、根本的に好きじゃないのだろう。体育会に本当に向いていない。勝利至上主義でなくてはならないのに。組織は好きだけど勝ちに拘るのは好きじゃないという、その内面も、なんとも気持ちが悪い。私の好きな言葉で、「たゆまざる合理化の過程にある」というものがある。とあるTwitterアカウントの自己紹介欄にも書いてあるが。マックス・ウェーバーの解説本?かな?詳細は忘れたけど、に書いてあった言葉。合理化ってのは有名な防衛機制の方ではなくて、無駄を削ぎ落とす、効率化、の方ね。自分は、最終地点だけではなくそこに至るまでの過程も相当大事だと思っているから、寄り道が非常に多い。先輩がよく仰っていた「無駄なことなんてないからね」と言う教えには共感できる。最近はSNSを見ていても、余韻を楽しめない、インスタントな娯楽しか楽しめない、そして自分の意に沿わないとキレる、みたいなことが多くて、息苦しい。そういうやつは私が全員‪✕‬‪✕‬‪✕‬から待っとけな。冗談として。だから、Twitterの見る頻度は落ちた。今までがやりすぎた。私は私を保つためにSNSから身を引いていくべきなのだろう。何もかも、変わらずにはいられないからね。過去を振り返って見れば、いつだって、光の向こうに見えるのは遠い、遠い学生生活で、そこにいた仲間たちで。それも、その関係も変わらずにはいられなくて。これからは一人で大人になっていくしかなくて。見慣れた街も、母校も、通ってきた道も、帰る度に、見る度に変わり征きて、全てそのままではいられなくて。その変化には、一生ついていけないのだろう。ついていけないやつはくたばれと、社会に言われるようになるのだろう。もし、もし仮に、この変化についていけるようになった時、きっと私は、私自身の「合理化」を済ませ、「合理化」前の私を南無阿弥陀仏をして荼毘に付すことになる。それが、一人で大人になる、ということだと、今のところは理解している。つまり、私は一生子どものままということである。

思ったことを書いてたら1,700文字になっていた。

私はまだ、「たゆまざる合理化の過程」にある。その過程を、その余白を、まだ楽しみたい。合理化は、まだ先でいいかな。その点では、たゆんでいるのかもしれないが、その不一致すら楽しもうではないか。全ての事象は、私の仕事同様、くだらないのだから。

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