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知らんぷりの匙加減

会社からの帰り途、歩道の端にネギが落ちていた。
スーパーに並んでいただろう、透明なフィルムに包まれた姿のままで。

こういう時のふるまい方の正解が、いつもよく分からない。

こんな嵩張るものを落として、なぜ気づかない?
拾ったとしてもなぁ、どうしたら、、交番に届けるほどでもないし、でも明らかなゴミでもないし、、ほら、落とした人が取りに戻ってくるかもしれないしね。
そう逡巡して、結局は通り過ぎてしまう。

アタマの中で逡巡しているとしても、ふるまいとしては、ただ”知らんぷり”していることに代わりないな、と歩きながらふと思った。

たとえば、それがネギじゃなくて、誰かにとって大事なもので、あちこち探していたら。
たとえば、具合の悪そうな人だったとしたら。

自分がスルーしても、根本的に困る人は少ない、世界は止まらずにどうとでも進んでいく。そう思いがちだけれど、でも、出来るだけ目の前のことに知らんぷりせず、手を伸ばせる人でいたいとは思う。
それは、優しさとはやや違う、誠実さをもった世界との向き合い方のようなもの。

ゴミを丁寧に分別することも、買った野菜をダメにしないで食べ切ることも、少し気を抜くとサボりそうになるけれども。
眠くて不機嫌な朝に、管理人のおじさんに挨拶するのが面倒と思うこともあるけれども。
そこは、ふっと気持ちを強めて、知らんぷりをしないでいよう。


一方で、知らんぷりをした方がいいのになと思う場面もある。
たとえば、SNSなどでの過干渉。発信者の少しの配慮の足らなさに、ギャラリーが過敏に反応する、この傾向。
ワクワクするコンテンツを面白がりたい気持ちはあるのに、そこにクリーンさを過度に求めている。

マスメディアだけが発信源ではなくなった現代では、少しのミスや思い違いは起きるだろう。加減を見誤ったり、見落としがあったり。
そういう時に、知らんぷりして立ち止まらない、反応しないのは、ある種の余裕と優しさだ。
クオリティを追求するのは大事なことだけれど、人はミスをすることもあるし、調子が狂う日もある。そう思って、一呼吸して、知らんぷり。そんな余裕がみんなにあるといい。


“知らんぷり”は、場面によって、しないほうが誠実だったり、するほうが優しかったり、いろいろと難しい。けれど、その匙加減が上手な人でいることが、優しい未来のために、私が出来ることだと思う。

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