河合隼雄ほか『絵本の力』を読んで

幾度となく読み聞かせして、綴込み部分が壊れてもなお、子ども達と読んでいる絵本がある。

アメリカの絵本作家、モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』(神宮輝夫訳、富山房、1975年)だ。

この絵本は本当に素晴らしい。
原書の英語も日本語訳も文章が端的で読みやすい。
主人公の男の子(マックス)はページを捲るたびに表情を変え、感情の推移が豊かに表現されている。
”かいじゅう”として登場する西洋神話の怪物達も、どこか愛らしく描かれている。
圧巻は、見開き3ページに及ぶ”かいじゅうおどり”のシーン。
文章が一切ないにも関わらず、マックスとかいじゅうたちの表情や仕草から、動きが感じられ、歌声や音楽まで聞こえてきそうになる。
そして、温もりある余韻を残す物語の締めくくり。
何度読み終えても、親子の愛を感じ、穏やかな気持ちになれる。

子ども達に絵本の読み聞かせをする時間は、大人にとって大変貴重だと思う。
子どもとの絆を深めることもさることながら、膝の上に抱いたり隣に座ったりして一緒に絵本を読むことを通じて、自分自身がそれまで知らなかった本との出会いや新しい気づき、思わぬ学びを楽しむことができるからだ。

幼少期に自分が読んでもらった絵本を読み聞かせることで、同じ絵を見ているのに感じ方が変わったことに驚いたりもする。例えば、『ももたろう』(松居直 文、赤羽末吉 画、福音館書店、1965年)を読み聞かせた時、お爺さんとお婆さんが小さく見えた。
子どもの頃はももたろうの目線で読み、大人の現在はお爺さんやお婆さんの目線で読むようになったからだろうか。
何とも言えない不思議な感覚である。

何より、仕事に育児、家事、更には夫婦の対話などで時間が過ぎ、一人で読書する、時間をかけて精読する、という時間はもはや皆無に等しい。
絵本は、その点、楽しみ方としての是非はともかく、10分、長くても15分あれば読み切る事ができる。
端的で美しい表現に触れ、色彩やタッチの繊細な絵を通じて想像力を膨らませ、そして子どもたちとかけがえのない時間を過ごす。
中古で購入すれば数百円もかからず名著と言われる絵本に出会える。
あまり使いたくない言葉だが、コスパ、タイパを考慮しても、子育ての只中にいる大人にとってこれほど効率の良い読書はない。

4歳の長男は、元々ロシア語が優位だった。
3歳保育から幼稚園に入ったものの、当初は言葉が通じず、子ども達はおろかスタッフもどう関わったら良いか戸惑っていたように思う。
幼稚園に1年以上通い続け、その間に絵本も1,000冊回以上読み聞かせた。
すると、今度は口から溢れ出すように日本語を話し始めた。(幸いロシア語も残っている)

長男の発話内容は興味深い。
こちらからの問いかけや会話は内容も理解し、何を話しているかもわかる。
しかし、長男が自ら話し始める内容は、時々、いやしばしばよくわからない。恥ずかしい話、夜疲れている時に、ものすごい勢いで空想を語られると、中々いい反応ができない。

「カナヘビを見つけたよ!(冬なんですけど・・・)家の庭にいる!(雪積もってますけど・・・)」

とか。

場面記憶が劣化する一途を辿り、他にもあるはずの具体例が思い出せないのがもどかしい限りである。

ともあれ、よくよく考えてみると(考えずとも当たり前なんだけど)、幼児は現実と想像・空想の世界が明確に分化しない世界を生きている。
文学性や評価の高い絵本は、読み進めていくと、思わぬ出来事や不思議な現象に出くわす。
でも、それは現実世界とは全く異なる世界を描いたファンタジーではなく、現実の延長で描かれたり、子どもの空想が拡張された世界として描かれている。
例えば、『もりのなか』(マリー・ホール・エッツ 文、まさきるりこ 訳、福音館書店、1963年)では、「ぼく」がもりのなかを散歩していると、次々に動物と出会い、ラッパを吹いて更新したりいろんな遊びを興じて、かくれんぼで「ぼく」が鬼になって数えるとお父さんがやってきて家に帰るという話だ。
動物たちが現れて消えたのは神隠しにあったということではなく、「ぼく」は本当に楽しんだ様子が窺えたし、読んだ時に『かいじゅうたちのいるところ』とはまた違う音楽が流れているように感じた。
はらぺこあおむし』(エリック・カール 作、もりひさし 訳、偕成社、1976年)の面白さは、子どもがあおむしのように食べ物にトンネルを作りながら食べ漁ることを想像できるところにあるだろう。
著者のエリック・カール自身が「本とおもちゃミックスしたい」と述べていたそうだ。
つまり、良い絵本というのは幼児の世界認識の特徴を踏まえて、物語が構成されているわけだ。

うーん、絵本って奥が深いなぁ。

上述した絵本の奥深さや、大人が絵本を読むこと、子供と読み聞かせの時間を共有することの意味や意義については、河合隼雄さん、松居直さん、柳田邦男さんの講演をまとめた、『絵本の力』(岩波書店、2000年)から学んだ。

本書は、小樽市にある絵本・児童文学研究センターが主催して、2000年11月12日に行われたシンポジウムを基にしてつくられたもので、とても読み易い。

本書が伝えてくれるメッセージは、大人こそ絵本を読むべき、ということだ。
短文でやり取りするXやLINEなどない数十年前から大人は本が読めない、特に翻訳物の小説を厭うようになっていたそうだ。(耳がいたい)
息が続かない、と河合隼雄さんは指摘している。
その点、絵本は、文章が短いだけでなく、読後の印象が残り、何年経ってもまた手に取ってみたいという気持ちが湧いてくる。
そして、短い文章というのは密度が濃い。
素晴らしい絵本には、松居さん曰く、文体があるという。
一方で、近年の絵本には、その文体が弱まっており、「日本語としての言葉の響きや力やリズムとか、それから当然文体というのがなければ、心に残っていかないし伝わらない」そうだ。
著者だけでなく、編集者の責任も大きいという。

僕は、松居直さんという方は、この本を読むまで詳しく知らなかった。
いくつかの絵本の作者として名前を見る程度だった。
しかし、『絵本の力』で記されている彼の実績や思想に触れ、福音館書店の絵本がどうして魅力的で心に響くものが多いのか、理解できた気がする。
彼は、絵本作家・児童文学作家を発掘し育て上げただけでなく、『ぐりとぐら』シリーズのような横長・横書きの絵本を日本で初めて導入した編集者だという。
また、日本には「12世紀の絵巻以来、世界でも屈指の物語絵の伝統」と「絵で物語ること、また絵から物語を読みとることの豊かな文化」があるとし、絵本にある二つの言葉-文字と絵-を、大人と子どもー購買者であり語り手であり読み手である大人と聴き手である子どもーが体験を共有しているところに絵本の妙があるのだという。
絵を読む子どもをイメージしながら絵本の作り手と共同作業をする編集者だったわけである。

御三方ともに「魂の現実を表現しやすい媒体」として絵本の可能性を信じながら語り合っているので、読み聞かせについて考えたい人にはおすすめの一冊である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?