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映像の世紀バタフライエフェクト「ビートルズとロックの革命」

2023年12月30日に放送された、映像の世紀バタフライエフェクト「ビートルズとロックの革命」。

6月に「赤と青」の前後編で放送された番組の年末スペシャル版。
新たな映像やエピソードが追加されたスペシャルバージョンで放送されました。

「映像の世紀」は本当に大好きな番組。
90年代にNHKスペシャルで放送されて以来のファンです。

「バタフライエフェクト」としてNHK総合でレギュラー放送が始まってからは毎週録画しているのですが、さすがに全部見る暇もなく、6月の放送も後編だけ見ていました。

年末スペシャルもちょうど家事をしながら見ていたらハマってしまい、洗い物が疎かになる始末。
元旦はゆっくりしようと思い、ようやく前後編も見ました。

年末年始のテレビ番組の中ではこの番組が最も興味深かったので、新年1発目の記事として振り返ってみたいと思います。

私にとってのビートルズは、有名な曲はだいたい知っているという程度。
今まで語られてきたエピソードの数々で、どのようなバンドだったのかは理解しているつもりです。

今や彼らの影響を受けていないミュージシャンが果たしているのでしょうか?

この番組は、ビートルズの活動を知る上での「導入部」に触れる事ができ、音楽的な視点はもちろんのこと、社会的な視点でも彼らの活動を描いてくれたので、とても興味深い内容でした。

そして最後に新曲「Now And Then」についても扱ってくれました。
この出来事は非常に興味深く、ぜひ語ってみたかったので、この機会に言葉にしてみようと思います。

栄光と波乱に満ちたビートルズの活動

結成からデビューまで

番組では、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの出会いからビートルズの結成までを丁寧に描いてくれました。

当時のイギリスの若者はアメリカのロックやブルースをこぞって聴いていたことは有名な話。
ローリング・ストーンズのミックとキースの再会もブルースのレコードがキッカケでした。

ポールが影響を受けたリトル・リチャードの「のっぽのサリー」。

ジョンの前でポールがこの曲を歌った事で意気投合。
その後も番組ではひとつのキーワードとしてこの曲が折に触れて出てきます。

ジョンはアートスクール出身。
そこで「クオリーメン」というバンドを組んでいたことは聞いたことがあったのですが、ポールがそのライブを観に来て意気投合した、というエピソードはうろ覚えでした。
その時のライブ音源が残っていたことも貴重。

もう一人のギタリストであるジョージ・ハリスンはポールが連れてきた、というのもうろ覚え。
その時のドラマーはピート・ベストだったはず。

ジョンはアートスクールの友人、スチュワート・サトクリフを連れてきました。
ビートルズは5人の時があったのです。
そして、武者修行としてドイツのハンブルクへ。

ハンブルクの武者修行時代は映画「バックビート」が詳しいと思います。

長く武者修行時代が続いたと思っていたのですが、3か月のみだったのですね。

スチュ(サトクリフのあだ名)については是非この映画を観ていただきたい。
この映画を見ると「Twist And Shout」で泣けるようになります。
オススメです。

マネージャに就任したブライアン・エプスタインは彼らにとってキーパーソン。
ビートルズのエピソードには無くてはならない存在として紹介されました。

粗野な恰好だった4人にスーツを着せ、マッシュルームカットにするようにアドバイスした話は有名ですが、「曲終わりにお辞儀をする」と指示したのは初めて知りました。
あのお辞儀も確かにビートルズの代名詞。

ドラマーもピート・ベストが解雇され、既に他のバンドでデビューしていたリンゴ・スターがバンドに加入。
4人は遂にデビューを果たします。

「ビートルマニア現象」もビートルズのエピソードには欠かせません。
観客席に多くの女の子が押し寄せ、彼らの姿を観ただけで絶叫し、中には気絶してしまう人も。

あの姿は未だに理解できません。
それだけビートルズの存在がセンセーショナルなものだったのか、はたまた「ビートルズを見て叫ぶ」という行為そのものが流行りだったのか??

ビートルマニアの存在は、番組では「女性の性的抑圧や性的なダブルスタンダードに抗議する」という解釈で紹介されました。
また、「女性の性革命の最初の、そして最も劇的な蜂起だった」とも。

6月放送の前編では許可が下りなかったのか、スペシャル版ではあの「エド・サリヴァンショー」の映像が流れました。
1964年ですから、東京オリンピックの年になります。

あの「Back To The Future」のロバート・ゼメキス監督がビートルマニアを扱った映画を撮っていた事も知りませんでした。
映画「抱きしめたい(I Wanna Hold Your Hand)」。

これを観たらビートルマニアの事をだいぶ理解できるかもしれませんね。

また、番組はレノン&マッカートニーについても取り上げてくれました。
ビートルズのほとんどの曲はジョンとポールの二人が書いているので、それを称して「レノン&マッカートニー」と呼びます。
これもビートルズの代名詞のひとつ。

曲は作詞家、作曲家に頼み、ミュージシャンは演奏に集中するという事がスタンダードだった時代に、自分たちで曲を作って世に送り出す。
これが音楽界を大きく変えた、と言っても過言ではありません。

ビートルズ来日

番組ではもちろん、ビートルズ来日についても取り上げられました。
約1時間の番組ですから、扱いは少しでしたが。
せっかくなので、その他のエピソードも加えて語ってみます。

ビートルズは数々の映画を公開していますが、日本で劇場公開された時の若者の反応を描いたニュース映画を初めて見ました。
恐らく「Help!4人はアイドル」の封切り日だったのだと思うのですが、前日の夜中から人が集まり、映画が始まると絶叫!

「リバプール・ビートルズ」なる紛らわしい偽物が来日しただけで当時の若者は大騒ぎだった、というエピソードも語られるほど、来日公演は皆が待ち望んでいたのでしょう。

1966年の来日公演については有名なエピソードが様々あり、資料や映像で当時の熱狂ぶりを知ることが出来ます。
タラップを降りるときに着ていたハッピはJALの職員の人が用意した、とか。
志村けんさんも同級生を半ば騙してチケットを奪い、武道館へ観に行ったという事を生前話されていました。

6月放送の前編では当時の警視庁の記録映画も公開されました。
ビートルズ日本公演の警備の様子を伝えるものだったのですが、この映像は初めて見ました。

時事通信映像センター様のYoutubeより。
映像を記録していた警視庁へ2014年にNPO法人 情報公開市民センターが情報公開請求を出し、2022年に加工した映像が公開されたそうです。

Wikipediaで調べて知ったのですが、ombudsmanjp様のYoutubeにオリジナル版と情報公開請求についての詳細が紹介されています。

当時は武道館でライブをすることに反発する右翼団体の抗議活動から市民を守るために、大規模な警備体制が敷かれた、という事も初めて知りました。

そういった反対運動や殺到するファンから守るため、ビートルズ一行は公演以外はホテルに缶詰め。

ただ、彼らに会いに来たゲストについてはウェルカムだった様子。
加山雄三さんがビートルズとの接見を許され、会いに行ったら大歓迎されたという事を話していました。
自身のレコードを持参したら、そのレコードをかけて喜んでくれたそうです。

アイドルの葛藤とコンサート活動の終了

ビートルズ来日は日本人にとって大きな出来事のひとつで、4人もたいそう楽しんで帰ったと思っていたのですが、その当時彼らが抱えていたストレスは相当大きなものでした。

フィリピン公演ではマルコス大統領夫人の晩餐会に欠席したことで国民の怒りを買い、険悪なムードが漂ってしまう。
そしてアメリカでも、ジョンの「ビートルズはキリストより有名」という言葉がキリスト教批判と広まり、不買運動にまで発展。
ジョンは「子供にとっては」という意味だったと釈明する騒ぎに。

そういった事がメンバーのツアーへの意欲を削いだ、と番組では紹介されました。

ビートルズがツアーをやらなくなった要因としては、「演奏しても観客はキャーキャー叫ぶだけで、誰も演奏を聞こうとしない」からという認識でした。

逆に日本公演ではそういった叫び声が欧米に比べて少なく、ようやく自分たちの演奏が聴こえたものの想像以上にヘタになっていて、翌日慌てて練習した、と言うエピソードも聞いたことがあります。

映像を見てみると、今では当たり前となっている「ステージモニター」が全く存在しません。
これでは自分たちの演奏が聴こえる訳がありません。
そういった事からステージモニターが開発されたのでしょうか。
確かに、演奏する側としてはモニターがないと不安で仕方ありません。

結局、1966年8月のサンフランシスコ公演がビートルズにとって最後の大規模なコンサートとなりました。
最後の曲はポールのボーカルで「のっぽのサリー」。
ジョンとポールが出会ったキッカケとなった曲を最後の曲にすることで、自分たちがライブツアー活動と完全に決別する、という強い決意の表れを感じました。

スタジオワークスが音楽史を塗り替えた

再びビートルズが姿を現したのが、あの有名な世界同時中継番組「アワ・ワールド」。
「All You Need Is Love」の演奏風景は非常に有名です。

ビートルズが人々の前から姿を消し、あの熱狂的な空気が沈静化していたのですが、その後に発表されたアルバムはいずれも世界中の音楽界で高い評価を得ています。

その代名詞となり、番組でも大きく取り上げられたのは「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」。
ライブで精力的に世界中を回る活動から、スタジオに籠って質の高い芸術的な曲を仕上げていく。

「A Day In The Life」について、40人ものオーケストラのサウンドを大胆に取り入れた、と紹介されたのですが、その曲がいわゆる「放送禁止歌」となった事は知りませんでした。
歌詞の一部にドラッグをキメる、という隠語を使っていたから、という事だそうです。

そう言われて聞いてみると、確かに途中からストリングスの複雑な旋律が聴こえてきて、徐々にトリップする感覚を味うことが出来る…気がします。
そういった事が「最高傑作」たる所以なのかもしれません。

「Lucy in the Sky with Diamonds」も、タイトルに禁止薬物「LSD」を連想させる、という事で放送禁止歌に。

LSDは社会問題になった薬物ですが、逆に60年代アメリカ文化を象徴する物でもあります。
あのヒッピー文化を生み出した要因の一つなのです。

ビートルズのメンバーもレコーディング時に使用していた事が語られました。

6月放送の後編では、ヒッピー文化が花開いたアメリカにジョージが訪れたエピソードも紹介されました。
さぞ華やかな文化なのだろう、と思ったのですが、実際はLSD中毒者が街に溢れ、想像を絶する光景でした。

こういった経験から、ジョージを始めとするメンバーが東洋文化へ傾倒していったのではないかと思います。
メンバーがインドを訪れ、瞑想体験を行った事も番組で紹介されていました。

でも、若き横尾忠則やスティーブ・ジョブズもその影響を大きく受けたひとりだったとは初めて知りました。
しかもビートルズを追うようにインドに渡ったというのも興味深い話です。

「Lucy in the Sky with Diamonds」の件については、後のジョンへのインタビューで真相が語られました。
息子が「ルーシーがダイアモンドと一緒に空にいる絵」を書いていて、それが素敵だったから曲にしたそうです。
なんともジョンらしいし、芸術家らしい答えです。

ブライアン・エプスタインの早すぎる死も初めて知りました。
しかも薬物のオーバードーズが原因とは…。
彼に何があったかまでは番組では語られませんでしたが、ビートルズが破滅へと向かってゆく最初のキッカケだったのではないかと思います。

1970年。ビートルズ解散。
番組では徐々にメンバー同士の関係が悪化する様も、あの有名な「ルーフトップコンサート」にも触れられませんでした。
ビートルズが社会に与えた影響がテーマなので、そこは仕方ありません。

ビートルズの晩年について、興味のある方はこちらを是非。

ディズニープラスに加入する必要があるので、まだ私も見てないんですよね…。
ルーフトップコンサートの完全版が見られるのだとか。
そのうち時間を作って観ないと!

1980年。
ジョン・レノンが凶弾に倒れます。
そのニュースは世界中に轟きました。
どんな状況だったかは、映画「陽の当たる教室」で知ることができます。

2001年にはジョージ・ハリスンも肺がんで亡くなりました。
番組ではリンゴが最後にジョージと交わした言葉も紹介されました。
最後までユーモアを忘れなかったそうです。


ビートルズが世界に与えた影響

階級社会を打ち破ったビートルズ

ジョンやポールが労働者階級の出、という事は知っていたのですが、当時のイギリスの階級制度がどのようなものかも知ることが出来ました。

6月放送の前編では、階級社会の詳細についての映像も。
貴族などの上流階級、医者など専門職を担う中流階級、そして単純作業に従事する労働者階級。

ビートルズは、労働者階級から飛び出し、世界的に有名になりました。
王室御前コンサートでパフォーマンスした際、ジョンの「安い席の人は拍手を。それ以外の人は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」というMCはかなり有名。

番組では階級制度が希薄化し、若者文化が華開く様子も描かれました。
「ミニスカートの女王」ツィッギーも労働者階級の出だとは知りませんでした。

ツィッギーについては「来日した」という話だけ知っていたのですが、それだけ日本でも当時はよほどの騒ぎだったのでしょう。
1960年代の変革の波が日本にも訪れた、という証拠だと思います。

人種差別撤廃への大きなキッカケ

番組ではアメリカでモハメド・アリとの共演についても紹介され、人種差別への動きについても触れられました。

1960年代は公民権運動の時代。
キング牧師やマルコムXが現れ、人種差別撤廃に向けて戦い、公民権法を勝ち取った時代。

しかし、ビートルズにとって黒人とは、リトル・リチャードやファッツ・ドミノといった憧れの存在。
多くのイギリスのミュージシャンも同じ。

当時のアメリカの白人社会は、黒人文化を全く受け入れない風潮がありました。
黒人を忌み嫌っていた、と言うよりは、白人社会の保守派層による抑圧的な風潮があったと理解しています。
古い考えを持った大人ほど、人種差別を積極的に行っていた、という風潮です。
それは、黒人がアフリカから奴隷として連れてこられたルーツが関係しています。

そんな中でも、白人の若者は黒人向けのラジオ放送を聞き、ロックやブルースに夢中になっていたという話もあります。
そんな時代の動きの中で「若者文化の象徴」ビートルズが現れ、古い価値観を次々と壊していく。

フロリダ州ジャクソンビルでのコンサートの話は初めて聞きました。
この出来事は公民権運動にとって決定的な出来事なのではないでしょうか。

「人種隔離をするならコンサートを開催しない」
ビートルズのこの主張に古い価値観を持った大人たちは批判しましたが、結局コンサートは決行。
その結果、黒人と白人が入り乱れた客席で共にコンサートを楽しむことになりました。
6月放送の前編では、幼少の頃のウーピー・ゴールドバーグもその場に居たというエピソードも。

そして公民権運動の大きなうねりが結実し、公民権法が成立。
人種差別は撤廃されたのです。

法律では人種差別はNOになったものの、その後しばらく差別は続きます。
でも最近はそんな話は全く聞かなくなり、完全に社会構造が変わってしまいました。

東側諸国とビートルズ

その頃のソ連では、西側文化を完全に弾圧していました。
ビートルズに似せた長髪を見つけようものなら、その場で坊主頭にされるほど。

プロパガンダ映像を流したり、共産主義のアメリカ人をヒーローに仕立てる、など当局も試行錯誤をしていましたが、若者のパワーを完全に押さえつける事はできなかったようです。

6月放送の後編では、病院の不要になったレントゲン写真のフィルムにビートルズの曲を削った「肋骨レコード」が闇売買された、というエピソードも。
また、エレキギターを作るための部品取りに公衆電話が破壊されるというお話もありました。

ルクセンブルクのラジオ局にビートルズが出演したエピソードも知りませんでした。
短波放送で、かろうじてソ連でも聴けることから、西側体制からの東側へのメッセージが込められていたのだと思います。

番組では、あの名曲「ヘイ・ジュード」にまつわるエピソードも。

ジョンがオノ・ヨーコと結婚し、のべつまくなしに一緒に居たため、ジョンの前妻との子供であるジュリアンはポールに懐いていました。
そんなジュリアンを励ますためにポールが書いたのが「ヘイ・ジュード」だったと言うことも知りませんでした。

そんなヘイ・ジュードは世界中で大ヒット。
その歌は東側にも届きます。

ソ連を構成するエストニアのシンガー、イヴォ・リンナがオリジナルの歌詞をつけてヘイ・ジュードをテレビで披露。
しかも、民族の言葉、エストニア語で。
エストニアは小国だったためか、ソ連当局の規制が甘かったようです。

またチェコスロバキアでは、マルタ・クヴィショヴァがこの曲をカヴァー。
チェコスロバキアは「プラハの春」のころ。
ソ連の武力行使により、力で抑えつけられていた時でした。

チェコ語で武力弾圧への抗議のメッセージを込めたこの歌は瞬く間にヒット。
しかし、クヴィショヴァは音楽界から永久追放となってしまいます。

ビートルズが解散してから15年後の1985年。
ソ連の書記長にゴルバチョフが就任すると、ロックへの規制が解かれました。

そうなると、エストニアに動きが。
1988年に30万人が集まるライブが開催されたのです。

その中心にいたのが、イヴォ・リンナ。
国民的な歌手になっていたリンナは、ソ連からの独立を求める歌を歌いました。

「歌う革命」
その場には人々が隠し持っていたエストニア国旗が揺れたのです。

1989年にはチェコスロバキアでも革命が起き、長く続いた共産党支配が終わりを告げました。
それにより、音楽界を追放されていたクヴィショヴァが人々の前に姿を現したのです。
人々はクヴィショヴァと共にあのヘイ・ジュードを高らかに歌ったのでした。

ソ連の構成国、衛星国で次々と起こった出来事。
ビートルズは東側諸国の民主化への動きへも背中を押していたのでした。

最先端のテクノロジーが可能にした新曲「Now And Then」

2023年6月。
ポールがビートルズ最後のリリースとなる新曲を出すと発表。
番組の終盤でも、この新曲「Now And Then」について紹介されました。

11月2日の23時に音源が公開。
私もその時間になるのを今か今かと待ち侘びて、23時過ぎにサブスクサービスで聴くことができました。

この機会に新曲「Now And Then」について語ってみたいと思います。

ビートルズ解散後に新曲としてリリースされたのは、「Free As a Bird」と「Real Love」。
1995年のアンソロジープロジェクトの一環として制作されました。

アンソロジープロジェクトとは、BBCでの未公開映像を含むドキュメンタリー番組の制作と、未発表音源の発表、そしてポール、ジョージ、リンゴが手掛ける新曲の発表、という大掛かりなものでした。

BBC制作のドキュメンタリー番組は、日本ではテレビ朝日が放送。
1995年の大晦日に一挙放送されたことを覚えています。

ポールがこの計画を元に、ビートルズの新曲を制作する事をオノ・ヨーコに伝えたところ、ジョンが1978年に録音したデモテープがあると伝えられ、テープがポールに託されました。
ジョンがピアノを弾きながら歌ったデモだったそうです。

ポールはジョージとリンゴを呼び出し、ジョンのデモに音を重ねて楽曲を制作。
こうしてできたのがその2曲。
新曲は未発表音源と共にCD化されました。

1995年当時も「ビートルズが新曲を出す」と話題になりました。
そして、発表された曲からジョンの歌声が聞こえてきたことに驚きました。
今となっては2曲ともスタンダードなナンバーになりましたが、当時は驚きを持って迎えられたのです。

2曲とも話題になったものの、実はジョンのデモはもう1曲あり、それにも演奏が追加されていたのでした。
それが、「Now And Then」。
元々3部作の予定で、3枚目のCDに収録予定だったそうです。
(CD自体はリリースされました)

しかし、このデモだけ録音状態が悪く、ノイズが酷かった。
当時のレコーディング技術をもってしても、ノイズを除去したり、目立たなくする事は困難だったそうです。
せっかくレコーディングしたのですが、結局お蔵入りとなってしまいました。

その後、2001年にジョージもこの世を去り、ポールとリンゴだけになってしまったビートルズ。
しかし、ポールはこの曲を世に出す事を諦めず、試行錯誤を続けます。

2022年。
ビートルズの晩年を描く映像作品「Get Back」の制作中、モノラルの音を分離させるためにAI技術を採用。

ポールはこれに目をつけ、ジョンの歌声とピアノの音、雑音を分離できないかと制作チームに依頼します。
試してみると、ジョンの歌声が見事に分離されたのです。

その歌声を元に、ポールとリンゴが演奏を新録。
1994年にレコーディングしていたジョージのギターソロと、未完成な部分を補完して、遂にビートルズ最後の曲が出来上がりました。

どこか寂しさ漂う穏やかなメロディ。
そして本当に驚いたのは、言うまでもなくジョンのクリアな歌声。
ブースの中で最近録音したんじゃないか、と言うくらいにクリア。
そこに3人の演奏、コーラス、そして美しいストリングスのサウンドが重なる。

ファンの誰もがこんな事が起こるなんて想像だにしなかった事でしょう。
ジョンが遺したメロディが、最先端の技術でビートルズの曲として生まれ変わったのですから。

翌日23時からはMVがプレミア配信。
MVを手掛けたのは、映画「Get Back」の監督を務めたピーター・ジャクソン。

映像が公開される前にコメントが公開されました。

このコメントを事前に読んでいたので、どのような気持ちでMV制作に取り組んだのか、どんな映像が表現されているのかを知る事ができました。

映像はファン泣かせの映像のオンパレード。
「I miss you」と言う言葉に、スタジアムで歌うジョンとジョージの姿。
自身や仲間の若い姿を見守るように表現された、現在のポールとリンゴ。
最後はブライアン・エプスタインの言いつけ通りに深々とお辞儀をする4人。
そしてその姿がステージから消える。

最後にして最高のMVでした。
今でも何度も見返してしまう程です。

おわりに

番組の最後に、ジョンのインタビューが紹介されました。

僕が気に入らなかったのは、僕たちが何かをリードしているという主張だった。
60年代は”新しい世界を発見しに行く船”だった。
そしてビートルズは、その船の見張り台に立っていただけだ。
僕たちは「Land Ho!(おーい!陸地だ!)」と叫んだ。
それだけだ。

ジョンのインタビューより

ビートルズのファンにとっては多少物足りない部分もあったかもしれませんが、「ビートルズが60年代の社会に与えた影響」を振り返るには最高の内容だったと思います。

60分ほどの番組でしたが、1960年代というエキサイティングな時代を追体験することが出来たと思います。
どれだけエキサイティングだったかは、このジョンの言葉が物語っています。

ビートルズのエピソードや映像は次々発見され、リマスターされて世に出ています。
この番組を見て興味を持った方は、是非そういった多くの資料に触れて、ビートルズの活動をもっと知ってほしいと思います。

私も触れていない資料がまだまだあるはず。
赤盤、青盤に収録された曲ぐらいは知っていましたが、これをきっかけに音楽界に変革を与えた、活動後期のアルバムを順番に聴くことにしました。

まだ途中ですが、一番のお気に入りは「Magical Mistery Tour」でしょうか。
「Hello, Goodbye」が本当に好きなので。
他にも「Strawberry Fields Forever」や「All You Need Is Love」など好きな曲が目白押しです。

ビートルズにとって最後の新曲が発表された特別な年に、素晴らしいドキュメンタリーを届けてくれました。
「映像の世紀」は語りつくせぬほど面白くて興味深いテーマを取り上げてくれるので、また折を見てちょっとずつ語ってみたいと思います。

※タイトル画像はBeatlesオフィシャルサイトの「I Want To Hold Your Hand(邦題:抱きしめたい)」のミュージックビデオよりスクショした画像を使用させていただきました。
初期のビートルズの曲ではこの曲が一番好きですね。


さて、2024年1発目の記事も結局長くなってしまいました…。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
今年も試行錯誤を続けながら、皆さんに楽しんでもらえる記事を書いていこうと思っていますので、宜しくお願いします。

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