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【F1 2024】あれから30年…1994年の「悪夢のイモラ」を振り返る

2024年4月30日
SNSのTLに流れてきた、Rラッツェンバーガーのポスト。
1994年のサンマリノGP予選中にクラッシュし、天に召されました。

※F1公式ポストより

今年はその日から30周年とのこと。
あれから30年…ということは、セナの死からも30年経ったということです。


あの日以降、レースやテスト走行による死亡事故は残念ながらゼロにはなりませんでした。
しかし、あの日のことが教訓となり、安全性を高めるために新たなデバイスやルールによって、多くのドライバーの命が救われてきました。


F1人気は海外はもちろん、国内でも人気が定着していて、今年も鈴鹿には多くのファンが詰めかけました。
そんな中、当時の事を知らない若いファンも増えてきました。

私は10代の頃、あの日のイモラでの出来事をテレビ越しに見ていました。
あの悲劇があったからこそ、モータースポーツは「ドライバーが命を落とす死傷事故が発生する可能性がある」ことを覚えておいてほしい。

そのために、1994年当時のF1について、そして悲劇のイモラについて振り返り、その後どのような対策が取られてきたかを考えてみたいと思います。

【注意】
この記事で参照する映像や記事サイトは、F1公式やモータースポーツを紹介するメディアのもの(出版社のサイトやF1解説者様の動画など)に限定しています。
プライベートなアカウントでは当時の映像を扱ったものが多いですが、この記事ではそういった映像等の紹介は控えたいと思います。


1994年のF1を簡単に振り返る

1994年のF1を語る上で欠かせないのが、ハイテクデバイスの禁止。
前年まで、ハイテクデバイスがグランプリを席巻していました。

ハイテクデバイスとは、当時次々に導入された、新たなテクノロジーを使用したデバイスのこと。
アクティブサスペンションやトラクションコントロール、ABSなど。

トラクションコントロールとは、スタート時のホイールスピンを自動的に抑制し、スタートの失敗を防ぐもの。

ドライバーの腕が試されるF1において、スタートが半ば自動制御となってしまっては誰でもスムーズにスタートを成功させることができるし、このデバイスを採用できるだけの潤沢な資金があるチームが有利になってしまうため、1994年をもって禁止となりました。

アクティブサスペンションとは、サーキットのレイアウトやバンプの有無などの路面の状態をコンピュータに記憶させ、サスペンションを能動的に動かすことによってその場の最適なポジションで走ることができるというもの。

開発自体は80年代から行われてきましたが、かなり完成度の高いデバイスをウィリアムズが1992年のマシンに採用。
ナイジェル・マンセルが他を寄せ付けない強さで早々にチャンピオンを獲ったことにより、1993年からは各チームが搭載することになりました。

※津川哲夫さんのYoutubeチャンネル「F1グランプリボーイズ」より。
アクティブサスペンションの力を最大限に発揮したマシン、FW14Bを”哲爺”こと津川さんが詳細に解説してくださっています。

こちらもトラクションコントロール同様、開発や維持にかなりのコストがかかるデバイスだったため、94年から禁止に。

その他、ブレーキロックを防ぐABS(アンチロック・ブレーキ・システム)も94年から禁止になりましたが、こちらは一般車には今や搭載されているのが当たり前の機能。
そしてアクティブサスペンションと同じ技術は新幹線にも導入されています。

次世代の技術を一般社会へフィードバックする目的も担うモータースポーツですが、ハイテク技術が満載になると資金力があるチームばかりが有利になるため、チーム間により大きな差が生まれてしまいますし、コストが跳ね上がってしまうと参加チームの減少を招いてしまいます。
そういった理由から、ハイテクデバイスが一斉に禁止になったのでした。

しかし、マシンそのものの開発はハイテクデバイスを元に行われており、そのデバイスを急に廃止にしたことでマシン開発に混乱をきたし、安定性を欠くマシンに仕上がってしまったようです。
それが、イモラの悲劇に繋がってしまったのではないか、という声もあります。


さて、開幕前から注目を集めていたのが、マクラーレンから常勝ウィリアムズに移籍したアイルトン・セナ。
ようやく再びチャンピオンを狙えるマシンを手に入れたのでした。
マシンも青と黄色が中心のマシンから、今や広告が全面禁止となったタバコの銘柄である、ロスマンズカラーに変更となりました。

※autosport web様の記事より。

モータースポーツ界にとって、このカラーリングは有名。
スポーツプロトタイプカーでは、ワークスのポルシェチームがこのカラーリングを纏いシリーズを席巻。
ル・マン24時間レースを含むいくつものレースに勝ち、一時代を築きました。

そんな有名なロスマンズカラーのレーシングスーツを身に纏ったセナの姿がなんだか新鮮でした。

セナのライバルと目されていたのが、ベネトンチームのエース、ミハエル・シューマッハ。

後に最多ワールドチャンピオン獲得記録を打ち立てる「皇帝」。
1991年途中にデビューし、この年が3年目。
既に優勝も経験し、次世代のチャンピオンとして注目を集めていました。

セナとサーキット上でも政治的な場面でも激しく争ったアラン・プロストが1993年に引退。
F1界は世代交代の最中にありました。

チームラインナップにも2つのチーム、シムテックとパシフィックが新規参戦。
ローランド・ラッツェンバーガーはシムテックチームからF1デビューを果たしました。

また、日本人ドライバーとして片山右京がティレルからフル参戦。

ティレルは1990~91年に中嶋悟が乗ったマシンと基本的なコンセプトが変わらないマシンでずっと戦い続けてきましたが、この年から新しいコンセプトのマシンを投入。
それが功を奏し、右京も上位を伺うシーンが何回も見られました。
エンジンはヤマハのV10でした。

ちなみにティレルチームは現在のメルセデスチームの前身です。
ヤマハエンジンを使っていたのにメルセデス?
…その説明をすると長くなってしまうので、またの機会に。

1994年は日本でグランプリが2戦開催されました。
4月に岡山のTIサーキット英田(岡山国際サーキット)にて「パシフィックGP」が開催されたのです。
ポールポジションはセナでしたが、決勝では開始早々にリタイヤ。
勝ったのはシューマッハでした。

日本にとって記念すべきグランプリを終え、グランプリはイモラへと流れていきます。


日本でも活躍した苦労人 ラッツェンバーガー

1994年、イタリア、エミリア・ロマーニャ地方にあるイモラサーキットで開催されたサンマリノGP。
サーキットの近くにある「サンマリノ公国」の名前を借りて開催されてきたグランプリ。
現在は、「エミリア・ロマーニャGP」として復活しています。

1994年当時、予選セッションは金曜、土曜に1時間ずつのセッションが設けられていました。
すべてのマシンが好きな時にタイムアタックを行い、スターティンググリッドを決めていきます。


悲劇は金曜日の予選1日目から起こりました。

ジョーダンのルーベンス・バリチェロがアタック中にコースを飛び出し、タイヤバリアに激突。
すごい勢いで縁石に乗り上げ、スピードに乗ったままタイヤバリアまで飛んでいったのです。

バリチェロは意識を失い、病院に搬送されましたが、幸い一命は取り留めました。
目を覚ますと、同郷の先輩であるセナの顔が目に入ってきたそうです。

そして予選2日目。
前日をも上回る悲劇がF1を襲います。

ローランド・ラッツェンバーガーが乗るシムテックのマシンが、トサコーナー手前で体勢を崩し、そのままクラッシュ。

どうやら、フロントウィングが脱落したことが原因だったようです。
映像が切り替わった時にはマシンが粉々だったので、どのようなクラッシュだったのかはあまりよくわかりませんでした。

マシン側面はえぐれ、ドライバーはうなだれた状態で動かない…。
当然セッションは中断。
なんとかマシンから助け出されたラッツェンバーガーは病院に搬送されましたが、そのまま息を引き取りました。


当時、予選の模様はあまりテレビでは放送されなかったので、この事故はスポーツニュースで知りました。
しかも、日本でも活躍したお馴染みの名前だったので、そのショックは計り知れません。


ラッツェンバーガーはヨーロッパでレースをする傍ら、日本のSARDチームからJSPC(全日本スポーツプロトタイプ選手権)に参戦。
トヨタのグループCカーで、ルマン24時間レースにも参戦しました。
現在のハイパーカー「GR010」の名前のルーツとなった、自然吸気式エンジンを搭載したトヨタのグループCカー「TS010」の開発ドライバーも務めていたのだとか。

90年代初頭には全日本F3000選手権にも参戦。
星野一義さんをはじめ、ミカ・サロ、ジョニー・ハーバート、エディ・アーバインといった、後にF1でも活躍するドライバーたちとしのぎを削っていました。

そんな努力や活躍もあってか、94年から新興チームのシムテックからF1デビュー。
詳しい経緯は分かりませんが、当時は今よりも発給条件が緩かったスーパーライセンスも取得していたようでした。
ただ、日本で開催される2レースを含む5レースのみの契約だったようです。

デビューから3戦目でこんな悲劇に見舞われるとは…。
この事故は、日本のレース界にも暗い影を落としました。

当時、SARDチームからその年のル・マン24時間に参戦予定だったラッツェンバーガー。
代役は彼と仲良しだったエディ・アーバインが務めましたが、マシンには彼の意志を継ぎ、ラッツェンバーガーの国旗と名前がマシンに刻まれたそうです。


天に召された「音速の貴公子」

悲劇に見舞われた予選。
そのことを誰よりも気に病んでいたのが、ポールポジションを獲得したアイルトン・セナでした。

セナについては説明の必要はありませんね。
80年代〜90年代を席巻したF1界のスーパースター。
88、90、91年のワールドチャンピオンです。

「音速の貴公子」とは、1989年からF1中継の実況を担当した古舘伊知郎さんが付けたキャッチフレーズ。

古舘さんのワードセンスは凄まじかったですね。
放送中に「荒法師マンセル」や「中嶋の刻み納豆走法」といったフレーズを次々と生み出していきました。
「妖怪通せんぼジジイ」なんてのもありましたね。

セナがワールドチャンピオンを獲得したのは、すべてマクラーレン・ホンダ在籍時でした。
ホンダエンジンのマシンに乗るスーパースターですから、日本人としてはこれほど誇らしいことはありません。
テレビCMにも登場したり、日本での人気もかなり高かった。
F1ブームが巻き起こった要因のひとつでもあります。

予選が始まれば誰をも寄せ付けぬ速さを見せつけ、数多くのポールポジションを獲得。
決勝でも先頭で逃げると完璧な速さで勝ってしまう。
今ほどマシンに信頼性がなかったのでトラブルでリタイヤすることも多々ありましたが、現代のマックス・フェルスタッペンのような鬼神の強さを誇っていました。

しかも、チャンピオンシップを争う上で数多くのドラマも演出。
ライバルであるアラン・プロストとの一騎打ちは、良くも悪くも歴史に残る争いでした。

そのせいもあってか、日本人の目から見たマクラーレン・ホンダやアイルトン・セナの人気は凄まじいものでしたが、当然海外のファンの目からも伝説のチャンピオンでした。

ルイス・ハミルトンも幼少の頃セナvsプロストのレースを夢中で見たと言っていますし、マクラーレン在籍時にはコレクションとして保存されているセナのマシンにジェンソン・バトンと共に乗り込んで嬉しそうな表情を浮かべていました。

2014年にホンダがマクラーレンと再びタッグを組むと発表した時、その名前から来る期待だけでフェルナンド・アロンソがフェラーリから移籍を決意したほど。
残念ながらチームの状況がセナの頃と大きく異なり、結果は散々でしたが、マクラーレン・ホンダという名前が彼らにとって大きな意味があることを証明しています。

そんなセナは、事故が起こるとナーバスになり、一目散に現場に駆けつけることでも有名。
バリチェロがクラッシュした際もすぐに病院に駆けつけましたし、ラッツェンバーガーの事故の後も現場を見に行ったほど。

長らくF1の緊急医療班の代表を務めたシド・ワトキンス博士との会話は有名です。
あまりにもナーバスになっているセナに対して、友人でもあったワトキンス博士が「君は3度もワールドチャンピオンに輝いた。もういいじゃないか。辞めて釣りにでも行かないか?」と話しかけたといいます。
しかしセナは「それでも、私は続けなければならない」とその提案を拒否したそうです。


結局予選はセナがポールポジション。
フロントロウにはミハエル・シューマッハが並びました。

悲劇を乗り越え、サンマリノGPがスタート。

するとスタート直後、ペドロ・ラミーとJJレートのマシンが接触。
前年から導入が開始されたセーフィティカーが入り、マシンを先導します。

しかし当時のセーフティカーは現在のような高性能なGTカーではなく、普通のセダン(オペル ベクトラ)だったため十分なスピードが得られず、ドライバーたちはタイヤの温度が下がることを懸念していたそうです。


6周目にレース再開。
先頭はセナ。すぐ後ろをシューマッハが追います。

順調にレースが進むと思われた7週目。
シューマッハのオンボードカメラが前を走るセナの姿を捉えました。
するとその刹那…

セナのマシンが急に向きを変え、タンブレロコーナーの方に突っ込んでいく姿が…

次の瞬間カメラが切り替わると、セナのマシンがウォールに激突し、その反動でコース上に戻ってくる姿が映し出されました。

またも発生してしまったビッグクラッシュ。
しかも今度はトップを走るアイルトン・セナのマシン。
見ていた人全てが、信じられない気持ちに支配されました。

セナはコックピット内でうなだれたような状態。
当然動くことができません。
すぐにメディカルカーがタンブレロコーナーに到着し、救出が始まりました。

レースは当然赤旗中断。
テレビはセナを救出すべく奮闘する医療チームの姿をずっと映し続けています。

詳細は分かりませんが、映像には鮮血も見えます。
その場で切開治療が行われたのでしょうか。

すると、メディカルヘリがコース上に飛来。
安否不明のセナを収容すると、すぐに飛び立っていきました。
ヘリが飛び立つ姿をずっと映像は追い続けました。
実況を担当していた三宅正治アナの「必ず元気な姿で戻ってきてほしい」という言葉が忘れられません。


当時のテレビ放送は深夜帯での放送がほとんどで、現地のレースが終わった後に録画中継が始まる流れでした。

この日の中継はセナの容体がはっきりしない状況で始まりました。
冒頭に実況の三宅アナ、解説の今宮さん、ピットリポートの川井さんが映り、セナの事故についての報告があった後にレースの模様が放送されました。

セナを乗せたメディカルヘリが飛び立ったシーンの後、長い中断が明けての再スタートする模様が放送されました。
何事もなかったかのように淡々とレースが進みます。

すると、急にニュース速報のけたたましい音が。
それは、アイルトン・セナが亡くなった事を告げる速報でした。

テレビを見ながら、その場で凍りついたのを覚えています。
文字だけの情報でしたから、全く信じられないのです。

程なくして、オープニングに登場した3人が映りました。
川井さんをはじめ、スタッフも情報収集にあたっていたようですが、セナ死去の報を受け、急遽特別なプログラムに変更されたのでした。

夕暮れのイモラに佇む3人。
鎮痛な面持ちでセナの死を伝える。
今宮さんが涙を流しながら「それでも…グランプリは続いていくんですね」という言葉が印象的で、忘れられません。

セナはホンダのスタッフとも親しく、その流れで日本のフジテレビのカメラにも気さくに話しかけるシーンも見られたほど。
日本人ととてもフレンドリーな関係を築いていた印象です。
セナとの思い出がたくさんある分、中継を担当した3人の悲しみは相当なものだったことでしょう。


事故を乗り越え、F1はどう変わったか?

スーパースターを突然失ったF1。
それだけでなく、3日間で3回もの重大な事故が発生してしまったのですから、これを重大インシデントとして捉え、早急な対策が必要になります。

ここからは、悪夢のイモラを乗り越え、F1がどのように変わっていったかを、簡単ではありますが振り返ってみます。
主に変わったのは空力、エンジン、そしてレース進行に関わるルール、そしてドライバーを守るためのマシン構造です。


空力パーツについては段階的に細かく変わりました。
急な変更だったため、資金力に乏しいチームはかなり苦労したようです。

分かりやすい変更としては、マシン下部のパーツでしょうか。
1970年代に一世を風靡した、いわゆる「ウィングカー」が1983年に禁止。
その代わり、マシン底面をフラットにする「フラットボトム規定」が採用されてきました。

それでも、マシン最後部を跳ね上げる構造(ディフューザー)を設けることでウィングカーと同じような効果を出し、ダウンフォースを得てきました。

事故を受け、ダウンフォースを抑制し、マシンスピードを下げるために、新たに「ステップドボトム規定」が翌年から始まることになりました。

ステップドボトムとは、マシン底面に段差をつけることにより、マシン底部を流れる空気を一部抑制するというもの。
マシンの中心よりも、サイドポンツーン寄りの底面が少し高くなることで、マシン底面を通り抜ける空気の速さを抑制するわけです。

当然、ディフューザーの大きさも制限がかけられ、マシン底面を流れる空気から発生されるダウンフォース量を著しく低下させる狙いです。

また、マシンの中心、コクピットの下あたりからディフューザーの手前にかけて「スキッドブロック」という木の板を取り付けることにより、その効果をより高めようとしました。
1994年は、先行してシーズン途中からこのスキッドブロックの取り付けが義務付けられました。

このルールはかなり厳しく、ブロックの厚さまで車検の項目に追加されたほど。
この年のベルギーGPで、シューマッハのマシンのスキッドブロックが規定の厚さに満たず、優勝したにも関わらずレース後失格を言い渡される事件が起きてしまいました。

このステップドボトム規定はその後も長く続き、マシン底面の形状が変わった現在のF1でもスキッドブロックは必ず取り付けなければなりません。
ただ、ブロックの一部に金属の板を取り付けるルールになっていて、マシンが高速で駆け抜けると火花が散る、という派手な演出にも一役買っています。

※F1速報様の記事より。
現在のレギュレーションにおけるスキッドブロックについて紹介されています。


エンジンについては、出力の抑制が計られました。
当時は3.5リッターの自然吸気エンジンを使用していましたが、翌年から3リッターの自然吸気エンジンを使用するレギュレーションに変更されることになりました。

流石にシーズン途中からエンジンの排気量を変えるわけにはいかないので、約1年の猶予が与えられた、というわけです。

でも、エンジンパワーをそのままにするわけにはいかない。
自然吸気エンジンですから、取り込む空気の量を抑制すればパワーは落ちます。

そのため、マシン上部のインダクションポッドから取り込んだ空気を逃すための施策が各チームに要求されました。
ほとんどのマシンは、カウルに穴を開けて対処していました。

この排気量の削減により、F1のエンジンはより高効率、高回転を狙ったものに変化していきました。
たくさんのシリンダーを設けて大きなパワーを狙うV12エンジンよりも、重量バランスに優れたV10エンジンがもてはやされるようになります。

そしてなんと言っても、あの甲高い音!
高回転のV10エンジンが奏でるあの音が、F1の一時代を象徴していると言っても過言ではありませんね。

その後、エンジンは最終的に2.4リッターV8へと制限がかけられます。
これはコスト削減はもちろんのこと、環境への配慮も徐々に考えられた結果です。

そして2014年からは、現在も採用されている1.6リッターのターボエンジンに、2つのモーターを組み合わせたハイブリッドなパワートレインが採用されています。
甲高い音は消えましたが、より環境に配慮する世界的な流れに合わせる形で進化しました。

2026年からはさらに、エンジンとモーターの出力が50%ずつとなる、新しいパワーユニットも登場予定。
この30年で、エンジンは大きな進化を遂げたのでした。


レースの運営でも、94年は緊急的な処置が取られました。
危険と判断された高速コーナーには、タイヤバリアを並べて簡易的なシケインを作り、マシンスピードを強制的に抑える施策が取られました。

あのスパ・フランコルシャンサーキットの名物である、オー・ルージュの途中にもタイヤバリアが並べられ、高速で駆け抜けるはずのマシンが一旦減速しながら走り抜ける様は、見ていて気持ちのいいものではありませんでした。
当時はひょっとして毎年続くの?と思いましたが、この年だけの緊急処置でした。

そして実は、セナが搬送された後に再開したレースでもある事故が起きていました。

ピットでタイヤ交換を終えたミナルディのアルボレートのマシンの右リアタイヤが突如外れ、ピットクルーが負傷するというものでした。

今では信じられない事ですが、当時はピットレーンの速度制限がなかったのです。
早速次のモナコGPから、ピットレーンでのスピード規制がルール化されました。

現在は他のカテゴリーでも当たり前になっているルールですね。
今はステアリングの専用ボタンを押せば、自動的に規制速度まで落として走行することができます。

ドライバーだけでなく、参加しているすべての人の命を守る必要があることを思い知らされるルール変更でした。


セーフティカーも前年から導入されていましたが、その後も大幅な進化を遂げました。

イモラでセナ達を先導したセーフティカードライバーはその後、責任感に苛まれたそうです。
セーフティカーが遅いせいでタイヤが冷え、事故につながったのではないか、という声が上がったから。

Motorsports.com様の記事にて、このお話は初めて知りました。

もしそうだとしても、そのドライバーのせいではないことは明白。
一般車のほとんどは、サーキットを高速で駆け抜けるようにできていませんから。

しかしその後、F1に復帰したメルセデスがここに目をつけ、AMGの高性能GTカーをセーフティーカーにするよう売り込んだそうです。

そこから、セーフティーカーはサーキット側で用意するのではなく、主催者側が用意してF1マシンと共に各サーキットを移動するようになりました。

大雨の日でも路面チェックのために高速走行するセーフティーカーが映る時がありますが、確かに速くてカッコいいですよね。

※メルセデスAMG公式Youtubeより、セーフティカーを紹介する動画を発見!これはカッコイイ!!


さて、簡単にではありますが、94年の事故から大きく変わった要素を振り返ってみました。
でも、一番重要なのはドライバーを守る装備です。
事故を経て、一番大きく変わったのはマシンの安全対策じゃないでしょうか。

コクピットは年を経るごとにサイズが大きくなり、事故の際に早く逃げ出したり、救出しやすくなりました。

1996年からは、頭部を守るウレタン性のプロテクターも使用開始。
ドライバーがマシンから降りるときにいつも外しているあのパーツです。
裏側を見ると、ちゃんとピンクのウレタンが入っているのがわかりますね。

2000年代に入ると、クラッシュ時の衝撃から頭部がステアリングなどに激突することを防ぐ「HANS(ハンス)」の使用が義務付けられました。
ドライバーがヘルメットを装着するときに一緒に肩に通す、あの黒いパーツです。

HANSを肩に取り付け、シートベルトをその上から装着します。
首の後ろのパーツが広くなっていて、そこへストラップを通して、ヘルメットの左右に取り付けます。

もし正面から壁やタイヤバリアに激突しても、首の後ろから通したストラップが頭部を引っ張る形でコクピット前面への衝突を防いでくれます。

クラッシュ時の衝撃で頭部が前に持っていかれ、ハンドルやコクピットに激突すると、ヘルメットを被っていてもぶつかった衝撃で頸椎や脳へのダメージが大きく、命のリスクが高まります。
でもHANSを装着することにより頭をぶつける事が無くなったため、より安全性が増したと言えます。

4輪レースの必需品ですから一般的にも広く販売されていて、楽天市場でも買えるみたいですよ。


ここまで対策が進んでも、残念ながら死亡事故は無くなりませんでした。

記憶に新しいのは、2014年の日本GPで発生したジュール・ビアンキ選手の事故でしょう。

激しい雨の中、最終コーナーでスピンしたビアンキのマシンがランオフエリアに猛スピードで侵入したにもかかわらず、その前にランオフエリアに入ってしまったマシンを撤去する重機がまだ残っており、そこへ前から激突してしまったのです。

頭部に重傷を受け、昏睡状態が続いていましたが、翌年に亡くなってしまいました。

頭部保護デバイスはその前から検討が進められてきました。
頭部保護の必要性が高まった事故はいくつもありましたが、この事故が導入の後押しとなった一つの要因でもありました。

様々な検討がなされた結果、コクピットの前面から頭部の上までをバーで保護するHALO(ヘイロー)が採用されました。

今までフルオープンだったフォーミュラカーのコクピットに、突然頭部を覆うようなバーが出現。
一部のドライバーやファンからは「カッコ悪い」と批判も出ましたが、その後に発生した事故がきっかけで、批判的な意見は完全に消えてしまいます。

F1では、2018年のベルギーGPでしょう。
スタート直後のクラッシュ時に、ルクレールの頭上にアロンソのマシンが乗り上げたのです。
もしHALOがなかったら…と思うとゾッとする事故でした。

その後もHALOはドライバーの頭部を守る大きな役割を果たしています。
昨年のシルバーストンでの周冠宇の事故もその一つ。

マシンがひっくり返ってもドライバーの頭部を守ってくれるはずのロールバーが、ひっくり返って地面を滑るうちに粉々に無くなってしまったのです。
HALOがなかったらかなり危険な状態だったに違いありません。

※NumberWeb様の記事より

盛り上がった今年のイモラ

悪夢のイモラを乗り越え、F1は年々進化を遂げながら続いています。
今年もイモラを舞台にエミリア・ロマーニャGPが開催されました。

昨年、大雨に見舞われたエミリア・ロマーニャ地方でしたが、今年は快晴。

相変わらずフェルスタッペンが盤石の強さを見せましたが、前戦マイアミで初優勝を遂げたマクラーレンのランド・ノリスの終盤の追い上げはエキサイティングでしたね。

ひとつ勝ったことをいいキッカケにして、より強さを身に着けて終盤に向けてタイトル争いをしてくれればもっとシーズンが面白くなるはずです。

そして我らが角田裕毅も大活躍!
序盤のアンダーカットが大成功。
その後もすごいオーバーテイクを見せるなど、チームの地元で大活躍の10位入賞でした。

角田は今年、本当に活躍していますね。
チームの状況もいい事が高いモチベーションになっているのだと思います。
トップチームへのいいアピールになっているのではないでしょうか。
当のレッドブルはなんだかいろいろあるみたいですけど、レッドブルがスルーするのなら、他のトップチームが黙っていないかも??


そしてレース前には、セナ没後30年という事で、セレモニーが行われました。
なんと、あのセバスチャン・ベッテルがセナのマシンをドライブするというのです。

1993年にセナが乗ったマシン「マクラーレンMP4/8」がサーキットに登場。
なんとベッテルの私物なんだとか!!

セナと自身のヘルメットのデザインを半分ずつ塗り分けたスペシャルヘルメットで登場。

実際の映像はこちら
F1公式Youtubeより、セレモニーのライブ映像です。

赤白のマクラーレンが懐かしい!
エンジンはフォードV8なので、エグゾーストノートはあの甲高い音ではなかったですが、それでも懐かしい音!

今のマシンに比べるとフォルムもシンプルで、エンジンが小さくなったためにフォルムもコンパクトにまとまっていて、実はこのマシン結構好きなんですよね。

それにしてもデモランなのだからゆっくり走るのかな?と思いきや、かなりのスピード。
タイヤは大丈夫だったのかな??

最後はブラジル国旗と、ラッツェンバーガーの故郷オーストリア国旗を掲げる姿が、両者へのリスペクトを感じました。


さいごに

1994年の悪夢のイモラをきっかけに、F1マシンの安全性はかなり高まっていき、多くのドライバーが一命を取り留めたシーンを何度も見てきました。

それでも、シチュエーションによってはまだまだ死亡事故は発生し得ることを、我々ファンは忘れてはいけません。
エキサイティングなスポーツではありますが、時速300km/hで走る乗り物を扱うスポーツなのですから、それだけ危険と隣り合わせのスポーツなのです。

ただ、それでも安心してレースを見ていられるのは、数々の変革と、それに携わった多くの方々の努力によるものだと思います。

予選2日目にセナに話しかけたワトキンス博士。
セナの死を目の当たりにして、安全性向上に尽力してくださいました。
この記事で紹介した数々のデバイス開発にも携わり、多くのドライバーの命を救ってきました。

そんなワトキンス博士も2012年に他界。
天国で、セナと仲良く釣り糸を垂らしながら、今のF1を見守ってくれているといいですね。


※タイトル画像はF1公式Xより使用させていただきました。
エミリア・ロマーニャGP開催に先立ち、セナとラッツェンバーガー没後30年のセレモニーが行われた時のポストより。

セバスチャン・ベッテルが旗振り役となり、タンブレロコーナー付近にあるセナの銅像に集まった後、ホームストレート前で記念撮影。
現役ドライバーを含む多くの関係者が参加したそうです。

セレモニーには角田選手も参加。
偶然かもしれませんが、日本で多くのレースに出場してくれたラッツェンバーガーの故郷、オーストリア国旗を持ってくれるのが、リスペクトを感じて嬉しいですね。

※as-wabの記事より。

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