【読書感想文】優秀だった研修医の生き方

今回は先日読了したサマセット・モーム著『月と六ペンス』の感想文を綴った。

小説の概要

他の版が存在するか知らないが、新訳を銘打った文庫を手に取ったため一応補足すると、今回私が呼んだのは金原瑞人さん訳版の本(新潮文庫)である。

訳者あとがきより、この小説を一言で表す説明を引用する。

恋愛小説でもなく、冒険小説でもなく、壮大なロマンスでもなく、気の利いたトリッキーなミステリーでもないのに、一気に読者を引きずり込んで最後まで離さない。

本当にこの通りだった。私は通学時などに本を開いてもすぐに眠くなるタイプである。(..)

しかし今回この本をカバンに入れて外出した時は早く先へ、という気持ちが止まず車内に落ち着いた時のみならず駅に着いた途端から本を開き二宮金次郎を現代でやりそうになった。歩きながら本を読む勢いであった。

小説の力そのものを実感させてくれる。小説の面白さとは一体なんなのか、その答のひとつがここにあるような気がする。

語り手である主人公はロンドンの若い小説家。主人公と交流のあった(友人と呼んでいいのかもしれない)、「天才画家」ストリックランドの足跡を辿る物語である。

主人公はその時を生きた画家・小説家といった文化人を招くのが好きなストリックランド夫人を介して彼との付き合いを始める。

主人公にとってストリックランドは素敵な女性である夫人とは対照的に無口でつまらない、というか取るに足りない人物であるというのが始めの印象だった。

証券取引所で勤務し夫人、二人の子どもと平均的で幸せな生活を送っているかに見えた。

しかしストリックランドは突然妻の前から姿を消した。駆け落ちして若い女とパリへ飛んだと噂されていた。

夫人の頼みでパリへ向かった主人公はストリックランドの変わりように驚くこととなる。女と暮らす高級ホテルと聞いていた場所へ足を運ぶと、そこは高級とはまるで違う、薄汚く狭い場所だった。女はいない。

「奥様を捨てたのは、女性が原因ではないんですか?」
「冗談じゃない」

「じゃあ、どうして奥様を捨てたんです?」
「絵を描くためだ」

家庭を捨て、突然今までまともに描いたこともない絵を描くために日雇いで画材を買うための金を稼ぐような生活を始めたストリックランド。

夫の帰りを待つ家族を養う責任がある、他人に非難されるだろう、今までの生活の何が不十分だったのか。

何を言っても通じない。

「あなたは最低の男だ」
「これでいいたいことはみんないってしまっただろう。夕食を食いにいこう」

彼の奔放で、常識などの全く通じない人格に嫌悪感と同時に小説家としての興味を覚えてしまう主人公。

後に主人公もパリへ暮らすこととなり、その間の交流やその後、ストリックランドが余生を過ごしたタヒチで出会った人々から聞いた話を通して天才画家がいかにして生きたのかが語られている。

話すのが下手だというストリックランドの本来の言葉に代わり作中では主人公が適当な台詞を当てて、当時が振り返られている。

このような読みやすさも物語のテンポをよくし、作品に没頭させる要因なのかもしれない。


優秀だった若い研修医の生き方

ストリックランドが熱望していたタヒチに着いたときの言葉はこのように語られている。

「甲板を洗っていると、いきなり仲間がいった。『おい、あれだ』顔をあげると島の影がみえた。すぐにわかった、おれはこの場所をずっと探してきたんだ、と。」

タヒチでのストリックランドをよく知る女性ティアレはこうも語っている。

「ときどきそんな人がいるの」
「あたしが知ってる人は、船に荷を積むあいだほんの数時間、上陸しただけなのに、二度と船にもどらなかった。」

タヒチには『生まれる場所をまちがえた人々』がよく集まってきたという。

彼らは生まれたところで暮らしてはいるが、いつも見たことのない故郷を懐かしむ。生まれた土地にいながら異邦人なのだ。

このティアレに対し、主人公は病院付属医学校で知り合ったエイブラハムという男の話をした。

エイブラハムは奨学金を得て入学すると、在学中に取れる賞は全て取り、内科と外科両方のインターン生になった。そしてそのまま病院に入るとそのキャリアは確かなものになった。エイブラハムは誰もに優秀であると認められ、医師として最高位につくことが誰にでも想像できた。まるで富と名誉が彼を待っているかのようだった。

エイブラハムはやがて新しい職に就く前に休暇を願い出る。知人の好意で船医として地中海へ向かった。

数週間後、エイブラハムは病院に辞表を提出した。彼はだれもがうらやむ研修医の地位を辞退し、消息が途絶えた。

十年後、主人公はアレクサンドリアにてエイブラハムと偶然の再開を果たす。

休暇で地中海へ旅立ったときには、ロンドンにもどって聖トマス病院の仕事をはじめることしか頭になかったという。ある朝、船がアレクサンドリアに停泊した。甲板に立ったエイブラハムの目に、街の光景が飛び込んできた。
エイブラハムの中でなにかが起こった。ふいに激しい喜びを覚えたのだ。すばらしく自由な気分だった。故郷に帰ってきたように感じた。そして、その場で心を決めた、文字通りその場で、死ぬまでここで暮らそうと決めたのだ。

これまでイギリスを出たこともなかったエイブラハムだったが、突然降り付いたこの地に故郷を感じた。役所に勤め始め、困窮していたが研修医に戻ろうとはもはや考えられなかった。

「後悔したことは?」
「いや、一瞬たりともない。食べていくだけで精一杯だが、満足している。望みはこの地で死ぬことだけだ。すばらしい人生だと思っている」

こののち、主人公は別の旧友カーマイケルとも再会する。

今では彼は洒落た屋敷に住み、美しい妻を持ち、六つの病因で上級医師をつとめている。

彼の成功のきっかけは優秀だった研修医、エイブラハムの辞職だった。学生時代一度も勝つことのできなかったエイブラハムが席を空けたところへ、カーマイケルがポストを得たのだった。

「もちろん、彼がいなくなって残念だなどというつもりはない。それは偽善だ。わたしは結局得をしたんだからな」「だが、わたしが赤の他人なら、才能の無駄遣いを惜しんだと思う。ばかばかしいにもほどがある。あんなふうに人生を棒に振るなんて」
わたしは首をかしげた。エイブラハムは本当に人生を棒に振ったのだろうか。彼は本当にしたいことをしたのだ。住み心地のいいところで暮らし、心の平静を得た。それが人生を棒に振ることだろうか。


自分なりの成功を規定する

エイブラハムの生き方を通し、主人公が思い至ったのは「人生における成功は一つではない」という珍しくない結論である。

しかし、ストリックランドの人生を辿り、ティアレを始めとする人々との交流を経たあとでは、これ以前とは違った質感でこの答えに触れることができた。

本記事では作中主人公が書くつもりではなかったと語る、ストリックランドという主軸からするとおまけあるいは蛇足であるエピソードにフォーカスしてきた。

あらすじでもこのエイブラハムを登場させるため主人公、ストリックランドに次ぐ重要な登場人物ストルーヴェを一切省いている。

私の言葉では伝えきれなかったストリックランドの非人間的とまで思われる人物像、そしてその波乱の人生。これを通して読者に残る感覚は作者本人の言葉を参照して得てみていただきたい。



さて、カーマイケルが得たような、あるいはエイブラハムに約束されていたと見えた絵に描いたような「成功」を手中にできるのはごく僅かな人間だけである。

その成功とは異なる形でも『本当にしたいことをし、住み心地のいいところに暮らし、心の平静を得る』ことはある人にとって成功だと言えるだろう。


しかしそれだけだろうか。

エイブラハムにとってのアレクサンドリア、ストリックランドにとってのタヒチ、そして「絵を描く」という行為そのもの。

その人それぞれにとっての「人生の目的地」は誰にでも導かれるものなのだろうか。

私にはむしろこれまでの人生を捨てて向かう、人生の目的地に導かれる人もカーマイケルのような成功者と同じくらい希少なものに思われる。


エイブラハムもストリックランドも、困窮をものともせず迷いなく後悔なく一心に自分の魂の声を聴いた。そして自分の人生に一片の悔いなしというところで生き抜いた。

私たちのうちどれだけがこのような人生を送れるだろうか。

自分にとってこれを行うことが正しく、目指すべきものである。

と取り組んできたものが上手くいかなくなり喘いだ時、それは自分の存在が根底から覆されるような苦しみになるはずだ。

果たしてこの時私たちはストリックランドやエイブラハムのように「自分の選択に後悔はない」と答えることができるだろうか。

多くの人にとって、自分の人生で目指すべきものを規定し、そこへ向かって進み続けること自体が簡単ではない。


誰もが自分の選択を振り返り、時に悔い、迷いながら人生を進んでいく。

その中で重要なのは「一般的な成功」ではなく「自分なりの成功」を求めること。そして自分の規定したその成功自体も確かなものではないと常に理解しておくことだ。

これは現時点で人生の目的地、自分なりの成功を規定できていない私なりの答えだ。

あるいは私もいつか突然絵を描きたくなるかもしれない。



言葉にした結論がいまいちしっくりこないので修正、非公開にすることがあるかもしれない。しかし一旦世に出してみる。

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