『いきどまりの自由』における三つの立場に対する一視点
↑これに対する
↑この反応はそんなに大きく外れていなかったよなぁという話をしてきます。
※だいたい次の fusetter に書いている内容です。
『いきどまりの自由』に出てくる主要な人々
さて、まず最初に、今回の登場人物をざっくりと振り返ってみましょう。
ノクチル(とプロデューサー)
まずはノクチル(とプロデューサー)。これについてはまあ出ないわけにもいかず、それはそうといところ。
専門学生(監督)
次に今回外せないのはもちろん専門学生の「監督」。周りの創作に対する熱にもあてられ、自ら映像の道から外れることを選択したために、今回ノクチルが出演する卒制のショートフィルムは当該人物にとっての気持ちの区切りのようなものになりました。
都内の卒展自体は有名どころだと 1 月中に一般公開の期間が気持ち集中するので、若干落ち着いた時期でのイベコミュ公開となりました。が、やはりこの時期に卒制・卒展のテーマを持ってくることは季節感ある~と思いますし、なによりその卒展は今回の「監督」のような学生さんにとって一種の「終活」のようなものだなと、結果今後も芸術・創作にわき目も振らず邁進してく人の作品と肩を並べさせられている様子を見ると痛感するものです。
撮影の際に「監督」と一緒に動いていたクルーの学生たちも、最後だから気持ちよく終われるように協力するという旨の発言をしていて、初見時はなんていい関係なんだ……とうなだれてしまいました。
単純な人の良さというものだけでなく、ノクチルへ自由律俳句を依頼した後のどのような形にするかの相談を見ている限り、本当に表現するという行為に対して真摯な人間だなという印象があり、それがあのいい学友に囲まれ(そしてその次の向き合い方へと繋が)る要因なんだなと思います。
だいたい「お先真っ暗」という自由律俳句を書いているものの、そもそもそういった機会・場所へと足を運ぼうという気持ちがある時点で偉すぎる。偉い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!10000000000000000000000000000000点!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
本当にめちゃいい人。
インフルエンサー
一方でなんか雑~な感じで粗悪な人間として描かれていたのがインフルエンサー。
(シンプル無礼・失礼パーソンとしてうろついていて草、と思ったら、中盤でこの人に一番心を刺されました、という話をこの後でします)
こいつもまあカメラを回す側の人間として出てきてはいたいけどさぁ……。「てか心スポって何?」って思ったけど、検索したらまあ割と使われている用語っぽい。なんか大学の体育の講義の略称みたな語感だね。
それはそれとして、出番としては冒頭の学校での講演(?)と283事務所凸と心スポの3回。イベコミュ自体短かったものの少ない出場機会ながらしっかりと印象を与えたコスパのいい登場人物でした。
他にも俳句の先生など出てきましたが今回は割愛。これからは以下 3 つの立場について考えていきます。
ノクチル
専門学生の「監督」
インフルエンサー
※ちなみに樋口円香は「咎人の雛」を本当に面白いと思っている(はず)。
『いきどまりの自由』における表現者に対する死生観
インフルエンサーくんの居場所
結局このコミュは死生観というか、表現者に対する生命倫理のような話をしていたんだなと思います。
一番クリティカルだったのは、実は専門学生が出てきたシーンではなく、さっきも少し触れたインフルエンサーが心スポに向かっているシーンでした。
それは、このシーンでこのインフルエンサーは「正しく」息を止められなかった生霊のようなものだ、と突き付けられたからです。
なんか執拗にノクチルに近づこうとしていたのも、夢だけを語り続ける姿も、それはいつの間にか自らが表現者として一定の意味での「死」を迎えていることに気づけていない、あるいは気づこうとしていないような振る舞いで、それがわかってしまうとこれまでのインフルエンサーのセリフがあまりにもグロテスクなものに思えてしまいます。初見の際これに気づいて割と重めの胸やけを起こしてしまいました。
読み終わって振り返ると、心スポに行こうとしていたときにノクチルに会った後はぱったりと出てこなくなったのも残酷だなと思わされます。
インフルエンサーがノクチルに出会って、結果自分が「生」側に立っている存在でないことを突き付けられて、心霊スポットへ向かっていく姿はこう……何かもう救いはないんですか……。
さらに追い打ちをかけたのが、ED の最後に出てきた女子高生3。こちらも「正しく」高校生という時間の終わりに気持ちの折り合いをつけられずに、次なる「生霊」候補生として描くだけ描いてその後は触れられず。残酷~~~~~~~~(残酷さを指摘する IKKO)。
奇跡のような「監督」の姿
一方で専門学生の「監督」は正しく息を止める存在として描かれていたように思います。
実際こんなにきれいに生まれ変わることができる人なんて、特に芸術方面での知り合いを見ている限りではおそらくその界隈の妄信性ゆえに相当数が限られているのも事実で、でもそれを肯定的に描いてくれるのはノクチルが絶対的な「生」の立場側にいるからなのだと考えています。
絶対的かつ一片の曇りもない「生」の存在
これらの二つの「死」を描く上での生き物としてノクチル、そして息をしているだけの浅倉透が曇りなき「生」の象徴として描かれていたのはこれまでの文脈からしても必然でした。
生霊でもなく、終活をしているわけでもない。他者から見たら一片も死を匂わせないノクチルが果たしていつか迎えるその時にどちらの道へ進むのか。
その選択自体も自由であれば、その先の生き方そのものはもちろ評価こそされるものの、誰にも否定することはできないものであるということを今回の周囲の人物たちによって描かれているように思いました。
これはノクチルにしか描けない死生観であり、そのうえでノクチルが描かなければならない死生観であるようにも思います。
この世に永遠がないということは、例えば「クロノスタシス」や最近出たやべー PSSR のコミュでもありましたが、それに対するノクチルのアンサーを WPFG とは少し違うより俯瞰的・相対的な観点で描いたコミュだったと私の中では総括しています。
なんかとりとめのない感想になりましたが、最後にちゃんと気持ち悪い樋口円香で締めようと思います。
でも冷めきったカイロをぬるくすることのできるような熱を持った小糸なんだね……。
それはそれとして卒展面白いから、みんなも行ってみよう!
それでは~
🐚
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