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若き魔神のための教科書②

第二章 炎の魔神、学校へ行く

四.「決めようぜ!こーじ!がっこに行けるんだぜ!」

「よぉ、こ~じ、朝だぜ~っ!腹減ったぁ!」
「えっ…あ…まだ六時だよん…」

 冬の日の出はバビロンでも遅い。六時半ごろにならないと太陽は顔を出さない。コウジが学校に行くのは大抵二時間目(大学だから良くある話である)であるから、九時半に起きれば朝飯を食べてゆうゆう間に合う。特に最近は丁度年度末ということで試験も多い。試験勉強をするとついつい夜更かししてしまうので、ますますぎりぎりまで寝ていることになる。
 ところが同居人…右手大魔神…こいつは妙に朝が早い。前日コウジといっしょに酒を飲んだり、試験勉強につきあって(といってもほとんど邪魔をしての)夜更かししても、翌朝はまず確実に日の出前に起きている。いったいなぜこんなに朝早くて平気なのかコウジには良く判らない。魔神に血圧があるのかどうかは判らないが、もしあるとしたらかなり高血圧の方だろう。
 ともかく…右手大魔神がいったいこんな早起きしていったい何をしているのかというと、実はこいつは「朝連」をしているのである。

 大学に入ってからはあまり運動をしていないコウジと違って、右手大魔神は(あの体格でも判るだろうが)どうも相当な運動好きらしかった。一度だけコウジは彼につきあって「朝連」とやらに参加したのだが、内容から見ると…どうも拳法か格闘技の練習らしい。どうも魔神にも「格闘技」の流派みたいなものがあるようである。
 で…なぜコウジが右手大魔神の朝連とやらに一度しか参加しなかったのかというと、それはこの「魔神の朝連」というのが人間族にはとてもついて行けないものだったからである。なにせ空は飛ぶは、火は吐くわ…「火を吐く練習」と言われても人間のコウジにできるわけはない。まあ、それ以外にも普段あまり運動していないのに急に激しい運動しても…というのもかなり大きいのだが、ともかくさすがに一日で止めてしまったというわけだった。。
 まあ、そんなこんなで結局その後は毎朝、右手大魔神は一人で公園に行って「朝連」をしているのである。結果としていつもこの魔神はコウジより早起きで、コウジより早く腹がへってしまうというわけだった。

「なあなあ、朝飯食おうぜ。トースト焼くからさ、ほら起きろよ!」
「もうちょっと寝かせてくれよ~」

 朝の5分の寝坊は至福のひとときであるというコウジの気持ちなどまったく理解せず、魔神は掛け布団を引きはがしにかかる。冬の終わりの寒気がいきなりコウジの素肌に吹きこんで、否応無しに目がさめてしまう。
 というわけでコウジはしぶしぶ…この大飯ぐらいの魔神の朝食を作る羽目になるのである。

*      *      *

 既におわかりのことだと思うが、結局コウジと右手大魔神は奇妙な同居生活を始めていた。大の男二人が…まあ若干広いとはいえワンルームの下宿に暮らすというのはなかなか大変なことだった。とにかく…この魔神はコウジよりも身体が大きい。背丈は同じくらいなのだが、体格が段違いにいいのである。それに大きな翼まである。
 いっしょに生活さえしていなければ、この「でかさ」というのは「すごいな」で終わってしまう話なのだが、同居となると話が違う。いままで「ちょっと広い良い部屋」だと思っていたこのアパートが、いっきに狭苦しいウサギ小屋に思えてくる。
 それに加えて…二人暮らしとなると物が増える。最初に右手大魔神がコウジの部屋に姿をあらわしたときは…ほとんど手ぶら同然だったのだが、生活するとなるとそうはいかない。特にあの「裸同然・炎の翼付き」という格好ではおちおち街(真夏の海岸を除く)を歩くことすらさせられない。
 というわけで、コウジはこの魔神に最初に最低限の上着やら下着やら、ちゃんと人間の着るような服(といってもTシャツとか、だぼだぼなズボンとか…足が太いのでスリムタイプのパンツはとてもはけない)を買わせたのであるが…当然その分の収納でますます部屋が狭くなる。
 さすがに参ってしまったコウジは、もう少し広い部屋へ引っ越しを考えたのだが、試験期間中のこの時期に急に格安の物件が見つかるわけもない。「男二人で同居」、それも「片方は魔神」(といってもそんな事は秘密なのだが)というのであるから、ますます部屋探しは困難を極めてしまうのである。
 というわけで、今日も二人はこの狭い部屋で雑魚寝状態だったわけである。

 右手大魔神がおぼんに乗せて運んできた朝飯は厚切りトースト四枚、熱々のコーヒー、チーズの塊とベーコンというかなり豪勢なものだった。いくらなんでも寝起きである…コウジはそこまですごい朝飯を平らげる自信はない。ということはこの魔神がそれくらい食べるということなのだろう。

「こんなに食べるのか?いつも…」
「えっ?こーじ、朝飯しっかり食わねぇとリキ出ねぇぜ、おまえも食えよ。」
「ええっ…無理だぁ…」

 コウジは目の前の山のような朝食をばくばく平らげてゆく魔神の食いっぷりを呆れたように見た。コウジの食欲がないということで、四つぎりのこの食パンを三枚(つまり3/4斤である)食うつもりのようだし、ベーコンの方は二〇〇グラムくらいならべているし、チーズの塊はたばこの箱くらいのサイズだし…
 と、突然魔神は思い出したように台所に立つと、リンゴを二つもってくるのである。デザートらしい。

「果物食わねぇと身体に悪りぃぜ、ほら。」
「…絶対食えない。無理…」

 皮を剥いていないリンゴを丸々一つ渡されて、コウジはさすがに悲鳴をあげた。

*      *      *

 今日は試験の合間ということで授業もテストもない。まあ、一番の難関である「精霊語二」の試験は無事終わったし、あとはそれほど難しい教科は残っていない。ということでちょっとのんびりしてもいいような日なのである。
 ところが二人はそれでも学校へ行かなければならないのだった。セルティ先生と打ちあわせがあるからである。内容は当然…右手大魔神の「がっこで勉強したい」問題だった。セルティ教授の部屋に行って進展状況を聞くのである。

 二人は朝食の後片付けを済ますと、早速着替えて出発の準備をした。コウジは冬らしく濃紺のダッフルのハーフコートの中に濃いグリーンの丸首セーター、ジーンズというまあ学生らしいいでたちである。ところが右手大魔神のほうはだぼっとした銀色のスノーボード用パンツと、なぜか半袖Tシャツ、無理矢理買わせた革のチョッキというなんだかちぐはくな服だった。

「みぎて~、それじゃ寒いって…長袖の服買っただろ?」
「ううーっ、あれ着るのか?どうして人間族はこんなきついものを着て平気なんだ?」

 とにかく革パンツとかそういった「魔神ファッション」以外は慣れていないらしく、Tシャツですら窮屈と思うらしい。胸板が分厚いもので、サイズは人間XLではなく獣人Lである。(人間以外の種族も多いバビロンでは、服のサイズも種類が多いのである。)
 大きな炎の翼はTシャツやチョッキを通りぬけてそのまま元気に燃えている。どうも服を着ようが着まいがまったく関係ないらしい。何度かコウジが触ってみたときもやけどするでもなく「あ、かなり熱いな」程度だった。ということは、実はこの翼は本当の炎ではなく、右手大魔神の強力な精霊力が形になって見えているものなのであろう。まあそうでなければこんな狭いアパートだと、家具やカーテンに引火してあっという間に火事である。もっともコウジの見るところ、この翼の燃え具合は右手大魔神の「感情」や「心理状態」にかなり左右されるらしく、興奮してくるとちょっと危ないときもあるのだが…
 靴だけは結構立派な革のブーツである。模様が騎馬民族の独特の文様だった。実はこれは今回新しく買ったわけではなく、右手大魔神が精霊界から持ってきたものであった。あまり履いていないらしくほとんど新品同様だが、まるでオーダーメイドのように彼の足にぴったりだった。

 ひととおり服を来た段階で、コウジは右手大魔神にバンダナを手渡した。いや、バンダナというと聞こえが良いが、まるで包帯みたいな無地の布である。せめて青やら緑やらに染めればもうちょっとバンダナらしくなるのだろうが、これでは大きなガーゼだった。
 右手大魔神は布きれをみてげんなりしたように言った。

「やっぱりこれつけるのかぁ?つけなきゃだめかなぁ…」
「だめだめっ!だめにきまってるだろっ!」

 コウジにせっつかれて、右手大魔神はしかたなくその布きれを頭に巻いた。途端に今まで派手に輝いていた炎の翼がぼんやりとして…ほとんど見えなくなる。どうも精霊力を隠す力があるらしい。コウジがセルティ先生に分けてもらった「精霊力ろ過フィルター」である。本来は魔法物質をろ過して、精霊力の強い成分だけをこし取る布であるが、右手大魔神が巻き散らす精霊力を押さえるためにもかなり有効だった。
 もっともあくまで実験用の消耗品なので、格好良い柄のわけがない。まったくの白無地…ガーゼみたいな色で、それも縁がかがっていない。すぐに糸がほつれてくるわ、色が黄ばんでくるわで…ものすごく格好悪い。
 それに加えてこのバンダナで精霊力が漏れなくなるということは、つけている魔神にとっては息苦しい状態らしかった。ちょうど四六時中マスクをしていろというようなものである。

「ううっ、結構しんどいんだぜ、これ…」
「我慢しろって。慣れればなんてことないだろ?」

 そういうとコウジは外れないように…手早くしっかりとバンダナをピンで止めてしまう。右手大魔神は情けなさそうにため息をついた。

「俺さまの格好良い翼を隠すなんて、なんだかすっげー悲しいぜ。」
「聞く耳持たない。さっさと行こう。」

 問答無用というようにコウジは右手大魔神のでかい背中をはたいた。魔神はしかたないというように肩を落とすとブーツを履いたのである。

*      *      *

「あ、コウジ君、みぎて君、いらっしゃい。今日は試験ないのね?」
「セルティ先生、どうもです。」
「あ、せんせ、こんちわー」

 研究室に入ると。卒業研究の生徒達に混ざってセルティ教授は書類を見ていた。どうもだれかの卒論原稿だろう。大きなグラフが何枚もついているのですぐ判る。
 コウジといっしょに入ってきた右手大魔神に、生徒達はいっせいに振りむいた。レスラー並みの立派な体格のこともあるが、それ以上にわずかに(精霊力ろ過フィルターのバンダナから)漏れ出してくる炎の精霊力に気がついたのだろう。「あの子すごいね」とか「だれだろう?」とか…ひそひそ噂をしているのが聞こえる。
 そんな周囲の好奇に満ちた視線を後目に、セルティ教授は二人を奥の教授室に招いた。今回は教授だけでなく助教授や助手の先生もいっしょである。

「どう?少しは人間界慣れた?みぎて君…」
「おう、大分慣れたぜ。人間の服は面倒だけどさ…」

 服を着ているというより、服に着られているという感じの右手大魔神を教授は面白そうに笑う。とにかく着慣れていないのが丸判りなのである。コウジもつられて思わず笑ってしまう。笑われている右手大魔神はちょっと釈然としないようである。
 「不慣れな人間暮らし」(魔神から見た人間の生活というのは実際聞いてみると、とても興味深いものである)の話題に花が咲いて、なんだか茶話会の様相を呈してくる。コウジを含めて「普通の」人はお茶、右手大魔神だけ「沸騰しそうな熱いお茶」である。炎の魔神だけあってぬるいお茶では冷たすぎて飲めないのである。
 とはいうものの、実際「茶話会」をしている場合ではない。時間制限があるというわけではないのだが、肝心の話だけは済ませておかなければならない。

「ところで先生、みぎての…学校の件ですが、どうですか?」

 コウジがちょっと遠慮がちに話を切りだすと、右手大魔神は同じく緊張した面持ちでセルティ教授を見つめる。炎の魔神の…ルビー色に光る瞳が内心の不安感を映し出しているのが判る。
 セルティ先生は…ちょっと言い出しづらい部分があるのだろうか、一瞬のためらいを見せた。思わず視線を左右の助教授達に向けたのである。左隣に座る穏やかな初老の学者…ロスマルク助教授は少し困ったような、それでいながらちょっと「可笑しそうな」奇妙な表情になった。その表情の意味を測り兼ねてコウジと右手大魔神はますます不安になる。
 セルティ教授は一呼吸置いてから…右手大魔神に言った。

「その、みぎてくん…あんまり勉強得意じゃないでしょ?特に数学…」

 右手大魔神はただでさえも赤茶けた肌なのに、ますます真っ赤になって恥ずかしそうにうなずく。隣で見ているコウジが笑えてしまうくらいの単純な反応である。たしかに…まだ一緒に生活して一ヶ月も経たないが、この魔神がどうも「勉強できなさそうだ」ということは想像ついていた。とりあえず読み書きはできるのだが、数学…いや「算数」に弱い。足し算引き算はまあ良いとして、割り算などになるとしょっちゅう間違える。一応は「大学」なのだから、基礎学力があんまり無いというのではさすがにまずい。そう言う点だけで単純に考えると、とてもこの「脳みそまで筋肉」の青年魔神が大学へ行くと言うのは無理な話なのである。有り体に言えば中学校くらいが丁度良いくらいだった。
 しかしそれではコウジは「魔神との契約違反」ということで、命に関わる大ピンチになってしまう。いや、そう言う問題ではない…正直言ってコウジにとってはこの若い魔神が落ち込む姿を見る方が辛い。背中を丸めていじけるところとか、とぼとぼさびしそうに帰って行く光景とか、荷物をまとめて魔界に去って行く後姿(といってもただの家出のシーンと大差はない)とか…そういうシーンが脳裏に浮んでしまう。見様によっては情けない、いささかコミカルな光景なのだが、さすがにコウジは笑う気にはなれなかった。
 引きつった表情の二人を見て、セルティ先生はまた左右の助手達を見る。なんだかもったいをつけているようにも見える。だめならだめだとはっきり言ってくれないと、このままでは生殺しである。そうコウジが言おうと思った時だった。
 突然、隣のロスマルク助教授が突然笑い出したのである。

*      *      *

「だめですよ、教授。あまりもったいをつけちゃぁ、わはははは」
「もう、ロスマルク先生、簡単にばらしたらダメですって!」
「???」

 いつのまにかセルティ教授を含め全員が爆笑している。よほど二人の…特にこの炎の大魔神のしゅんとした様子が面白かったのだろう。何のことなのかさっぱり判らないコウジと右手大魔神は、まだ引きつった表情のままきょとんとして先生方を見回した。ただ、うすうすは…入学できるかどうかは別にして、少なくとも悪いようにはならないらしいということだけは理解できたのである。
 ロスマルク助教授はしばらく笑いつづけた後、やさしい目をして彼らに言った。

「正直な話だが…コウジ君、それからみぎて君。…みぎて君を普通の大学生扱いで入学するというのはいろいろな意味で無理がある。私とセルティ教授の共通見解だな。」
「はい…」
「正式な入試も無しで、いきなり大学生っていっても無理でしょ?判るわね、二人とも…」
「そ、そうか、うん、俺さまも判る…」

 たしかにそうである。いくら彼が魔神だからといって、入試も無しに大学にはいったとなれば他の学生がどう思うことか想像に難くない。それこそ「闇入学」の世界である。
 ところが…一息ついた後、ロスマルク助教授は妙な事を言い出したのである。

「しかしな…実は…」
「はい…」
「我々研究者も、君のような本物の魔神の学生の力を借りてさまざまな魔法実験をしてみたいというのも事実なんだよ。我々の見た限り、そこらの魔法使いなど及びもつかない強烈な魔法力を持っているようだからな…」

 なんだか妙な話である。要するに…学生としては無理だが「研究機材としては是非ほしい」という…とんでもない話なのである。「俺はモルモットじゃねぇ!」といって激怒してもおかしくない。単細胞の右手大魔神はそこまで考えていないかもしれないが、少なくともコウジにはすぐわかる話だった。
 少し怒ったような表情を見せたコウジの顔を見て、助け舟を出すようにセルティ教授が言った。

「要するにアルバイトね。みぎて君は私達の大学で実験に協力する代わりに、謝礼として多少のお金と、それから好きな授業を聴講出来るって具合なのよ。一種の研究生か助手なんだけど…悪い話じゃないでしょ?」
「…」
「そんな無茶な実験はしないわよ。それにコウジ君にも手伝ってもらうわ。それなら安心じゃない?」

 たしかに…コウジ自身が実験に参加すれば、互いにかなり安心であろう。それに実はコウジにもバイト代が入ると言う裏もある。悪い話ではない。
 コウジはどうしたものかと隣の右手大魔神の方を見て相談しようとした。ところがコウジが何も言い出す前に右手大魔神は嬉しそうに微笑んで…コウジの手を取って喜びの声をあげたのである。

「決めようぜ!こーじ!がっこに行けるんだぜ!最高じゃねぇか!」
「ちょ、ちょっとみぎて…お、おい…」

 もう魔神は完全に浮かれてしまっている。興奮しているせいか、さっきまで(精霊力制御バンダナのせいで)ほとんど見えなかった炎の翼がまた真っ赤に輝き始める。となりのコウジまで熱くなるほどの勢いだった。
 コウジは…しかたがないなとでもいうように苦笑すると、セルティ教授のほうを向いて言った。

「先生、判りました。こいつも賛成って事ですから、それでおねがいします。」
「そう?じゃ、これから二人ともよろしくね。」

 微笑みながらセルティ教授は二人に手をさしだした。コウジと右手大魔神はうれしそうにその手を取ると思わず歓声をあげた。それにつられるようにセルティ先生達もいっせいに明るい笑い声をあげたのである。

五.「だ、台所だよ。でっかい…目玉のお化けが」

 試験日程もようやく終わると、長い春休みがはじまる。バビロン大学は二月の半ばから四月の第一週までずっと休みだった。成績判定やら卒論発表会やら入試やら卒業式やら…まあいろいろあるのである。先生方はそんなに暇ではないのだが、学生(特に卒業を控えていない3年生までの学生達)にとってはのんびりとした季節である。
 ところが…コウジと右手大魔神にとっては、この春休みはとても暇どころではない。そもそも今まで大学どころか学校に行ったことのない「みぎて君」である。とりあえず四月から一般の生徒に混じって授業を受けるのであるが、このままではとてもじゃないがついてゆけそうにない。せめて…最低限度の学力は必要であろう。
 というわけで、二人はセルティ先生から何冊もの「本」と、そして「宿題」をいただいたというわけだった。

「こーじぃ、えっと、分母同士をかけて、分子は…」
「みぎてぇ、だからたすきがけ、たすきがけっ」
「あ、えっ?あ、そっか、う~ん…」

 要するに分数の足し算である。こいつが右手大魔神の大の苦手だった。どうも…もともと精霊界では「分数」という概念がいいかげんらしく、右手大魔神自身も変に誤解しているのである。コウジはわざわざ「ケーキ」の絵を描いてもう一度説明しなおしをしなければならないほどだった。

 ともかく、「数学」「自然科学」「社会」といった、一般教養の範囲をこの魔神は勉強しなければならなかったのである。当然コウジが横に座って教えるしかない。となると、当然暇なんかなくなるわけで…これがコウジにとって予想以上の痛手となっていた。
 いくら週に二、三回セルティ先生の研究室などで「実験の手伝い」をしてバイト料をもらえる「予定」であるといっても、それはあくまで「予定」である。正式にはそれは四月からということなので、今月と来月は他のバイトをしなければならない。ところが…その時間が取れないのである。これはもう明らかな収入減だった。
 こういうわけでコウジが密かに計画している「引っ越し」は、ますます延期されてしまったのである。このままではいったいいつになったらこの狭いワンルームアパートを脱出できるのかわからない…が、先立つものがない以上、こればかりは彼にはどうすることもできなかったのである。

*      *      *

 というわけで、その夜もコウジと右手大魔神はほとんど雑魚寝状態であった。
 夕食のかたずけも終わって、夜の分の宿題もまあなんとか…酒を飲みながら済ませてしまうと、そろそろ夜もふけてくる。

「ふぁぁぁっ、そろそろこーじ、俺さま眠りたい。」

 「酒を飲みながら」というのが間違いなのかもしれないが、やはり勉強…文字の列をみていると、右手大魔神は疲れてしまうらしい。「本日のノルマ」がようやく終わった時点で眠くてしかたがないようだった。

「ええっ?もう眠いのかぁ?まだ早いと思うけど~」
「俺さま、朝連するからおまえよりも早く起きなきゃいけねぇし…」

 いうやいなや、右手大魔神は押し入れに直行して布団を運び出した。一刻もはやく眠りにつきたいという言うのがよくわかる。コウジはしかたないなというように笑うと、コップやお酒をかたずけて、布団を二つ(部屋の面積から行くと、実際は重なって敷かなければならないので一つ半である)敷き始める。なんだか…あからさまに危険な世界なのだが、床面積の都合上これが精一杯である。
 敷き布団だけ敷いた段階で、もう右手大魔神はいつもの(外出時のバンダナ付、だぼだぼズボン姿ではなく、例の魔神らしい革パンツだけの)格好で、毛布を片手に布団の端にごろりところがった。よほど眠いに違いない。コウジが掛けぶとんを手渡そうとしたときには、既に大の字になって(腹の上だけ毛布をかけて)寝ついていたのである。翼までだらしなく広がっているのだから…当然コウジの寝るスペースは狭くなってしまうのだが…だからといって蹴りを入れて起こすわけにもいかない。もうコウジは(またしても)「翼を毛布代わりに」寝るしかないという状況だった。

「しかたねぇなぁ…」

 まったく無警戒の子供みたいな寝顔の…この若い魔神の姿は思わず「顔に落書きをしたい」という誘惑に駆られるほどだった。ただ、そんな事をすれば後で間違いなく「四の字固め」とかその辺のプロレス技を食らってしまう。まあ…実際の話コウジ自身もけっこう酔っ払っているので眠いのは同じだった。もうちょっと飲みたい気もするが、そろそろ眠ってもいいかもしれない… というわけで、コウジはコップに残った酒を一気に飲み干すと、歯を磨くために台所へと(ちょっと千鳥足で)向かった。台所のほうは照明を消しているので真っ暗である。当然ゴキブリなどがいてもおかしくはないのだが、酔っ払っているコウジはそんな事気にするはずはない。堂々と行進して台所に突入するわけである。
 と、やはりなにかが動いたのである。「がさがさ」…と台所の奥でなにか音がしたような気もする。

「?ゴキブリかな~」

 コウジは(全然ゴキブリは怖くないので)気にせず流し台にコップを放り込んだ。別に左右を見てもゴキブリらしき物体は見えない。気のせいかもしれない。
 コウジは残っている洗い物を片付け始めた。なんとなく「ゴキブリ」の影がちらつくようで、そのままにしておくのは気にかかるからである。しかし…いくらがたがたと食器を洗って拭いて、食器棚にしまっていっても、いっこうに隠れていたゴキブリが出現する様子はなかった。まあ、それはそれでいいことなのであるが…
 どうしてもコウジは釈然としないのである。なんだか見られているような…そんな気もする。

「おっかしいなぁ~、気のせいかなぁ…」

 そう独り言を言って、コウジは最後の鍋をしまった。そして…部屋に戻ろうと振り返る…
 と、そのときコウジは奇妙なものを目にしたのである。ゴキブリではない。ゴキブリだったら何の事はない(たまにいる)。コウジが目にしたそれは…彼がはじめて見る奇妙な生物だった。
 それは…巨大な、蛸のような触手がある…「目玉」だったのである。ちょうど居間と台所の間の欄間にぶら下がって、そいつはコウジの事をじっと見つめていたのである。

*      *      *

挿絵 竜門寺ユカラ

 どう見ても間抜けな光景である。ちょうどサッカーボールくらいの目玉のお化けとコウジが、あたかもお見合いのように見詰め合っているのだから…端から見ればどうしようもない光景なのはお判りいただけると思う。いや…実はコウジ自身も心の中ではちょっとそう感じているのだが、結果としてそうなってしまったのだからしかたがない。
 目玉は暗がりで、それも逆光で見ている限り、色は暗褐色か濃いグリーン色である。で、天井から触手でぶら下がって、コウジのほうをじっと見つめている。いったいこんなでっかい怪物が、どうしてアパートの中に入り込んできたのかちょっと進入経路の想像がつかない。窓から入ってきたのならば当然判るはずだし、まさかトイレの排水口からというわけでもあるまい。まあいまさらそんな問題を云々している場合ではないだろう。
 ともかく、わずかな間お見合いを続けたあと、目玉はそのまま天井の隅のほうに、それこそ「ごそごそと」移動する。当然こんな不気味な怪生物など見たこともないコウジも、同じようにごそごそと居間のほうへと這っていった。ゴキブリならばまったく怖くないコウジだが、こんな気味の悪い怪物などとてもじゃないが近寄れない。それに噛み付かれるかもしれない(まあ、こんな蛸みたいな怪物が噛み付くのかどうかはわからないのだが)という恐怖感もあったからである。

 部屋に戻ったコウジは大の字になって寝ている右手大魔神を慌てて起こそうとした。

「みぎてっ!みぎてっ!」
「むにゃむにゃ…」

 揺り動かしたくらいでは、なかなかこの魔神は気がつかないようだった。よっぽど慣れない勉強で疲れたのか、なんとも幸せそうな笑顔を浮かべて眠っている。しかしコウジの方はもう…見なれぬ怪生物の恐怖で「幸せな笑顔」どころの騒ぎではない。というわけで押しても引いても起きない右手大魔神に…ついに蹴りを入れたのである。

「みぎてっ!起きろって!」
「う、ぅ…な、なんだよ、コウジ…」

 さすがにキックを食らえば、いかに魔神といえども起きる。右手大魔神はすごく眠そうな、不機嫌そうな顔をしてコウジを見た。

「みぎてっ!怪物だよっ!台所にいるんだ!」
「ぁぁ~っ、か、怪物?むにゃむにゃ…」

 やはりまだ寝ぼけているのである。そのままもう一度眠りにつきそうになっている。慌てたコウジは毛布を引っぺがし、そのまま魔神の肩を思いっきりつねった。

「いてててててっ!」
「みぎてっ!怪物だって言ってるだろっ!起きろって!」
「わ、わかったからっ!だからつねるのやめろっ!」

 ようやく右手大魔神は起きあがった。あきらかにしぶしぶだが、しかし「怪物」と聞いては起きざるを得ない。やっつけるなり、おっぱらうなり…逆に避難するなり、とにかくなにか手を打たないと危ないからである。
 起きあがった右手大魔神にコウジは小声で言った。

「だ、台所だよ。でっかい…目玉のお化けが…」
「目玉のお化け?~ううむ…」

 コウジが指差す方向をみた右手大魔神は、それでもまだ事態を把握していないのか首をちょっと傾げて…そのまま立ちあがるとまったく無警戒に…のこのこと台所に歩き出したのである。

「あっ、だ、大丈夫?みぎてっ?!」
「平気平気っ。」
「あっ、えっと、反対側っ!天井のところだよ。」

 台所に入った右手大魔神はそのまま左右をきょろきょろ見まわした。ところが…どういうわけかそのまま流しの下からお玉をとりだす。シチューとかそういう汁物用のお玉である。バランスやグリップを確かめるように、2,3度軽く振っている。そして…
 右手大魔神はそのまま振り返り、にっこり笑って突然そのお玉をどこかへ向かって思いっきり投げつけたのである。

*      *      *

 お玉はそのまま壁に軽い、拍子抜けするような音を立てて激突した。同時になにかが「どさっ」と転がったのが判る。

「みぎてっ!」
「へへっ!大成功っ!コントロールいいだろっ?」

 右手大魔神はお玉の転がっている台所の隅に歩いて行くと、暗がりからなにかを取り出した。と、それは…さっきの「目玉」だった。右手大魔神が投げつけたお玉の直撃を食らって延びてしまったのである。
 右手大魔神はまるで蛸かなにかを掴むように、目玉怪物の頭(つまり目玉の部分)をわしづかみにすると、そのまま持ち上げてコウジの所に持ってくる。気絶している目玉怪物はだらしなく触手をたらしてまったく動かない。

「あっ!ちょっと、それ、気持ち悪いって」
「大丈夫だって。精霊界には良くいるやつだぜ。『メルディスの目玉』だよ。人間界にはいないのかぁ…」

 コウジは大学で習っている「一般精霊学」の授業を思い出した。『メルディスの目玉』…暗黒精霊の一種である。暗がりを好んで、隠れるのがうまいということで、魔道士の使い魔としてときどき使われるやつである。教科書や図鑑には良く出てくるのだが、実物を見るのは生まれて初めてだった。いや、精霊なのだから普通は(右手大魔神のように理由がなければ)人間界にそんなにいるわけはない。

「へぇっ!『メルディスの目玉』かぁっ…俺、本物ははじめてみたよ。」
「おう、結構愛嬌あるやつだぜ。賢いしさ。なでてみろよ。」

 右手大魔神は気絶している『メルディスの目玉』をつついたり、なでたり…そこらにいる猫か子犬のように扱っている。コウジも言われたとおり…おっかなびっくりだが、この怪生物をなでてみた。ごわごわして…なんだかトカゲかなにかのような皮膚である。良く見ると小さなうろこのようなもので覆われているらしかった。

「みぎて、でもさ…なぜこんなやつがこの家に来たのかな?普通、魔道士の使い魔とかじゃないと、人間界には出てこないはずって教科書に書いてあったと思う…」
「そ、そうなのか?そっか、こいつ、恥ずかしがり屋だからなーっ」
「そう言う問題じゃないんだけどさー…」

 実は「恥ずかしがり屋」とかそう言って済む問題ではない。つまり教科書の教えが本当ならば、こいつは誰か魔法使いの「使い魔」ということなのである。で、わざわざコウジの家に出現して、じっと天井にへばりついていたということは…いったいどういうことなのだろうか?

「こいつ、つまり使い魔なんだって。誰かの…」
「あ、そっか…で、それってどう言う事なんだ?」
「だからぁ…」

 使い魔がコウジの家にこっそり忍び込んできて、天井にいたっていうことは…どこかの魔道士が彼らのことに興味を持って監視しているとか、そう言う意味である。のぞき見されているという事と言っても良い。どこにでもいる普通の学生であるコウジが魔道士の興味を引くという事は有り得ないだろうから、つまり…のぞき見されているのは右手大魔神ということになる。

「えっ?俺さま目当てなのか?」

 右手大魔神は目を丸くして驚いている。自分が「魔道士の興味を引くくらいは」目立つ存在であるということがまったく理解できていないのである。そりゃ、生まれたときから炎の魔神で、それ以外の存在にはなり得ない彼にすれば、「魔神」であることがすごいことだといわれても納得できないのは…コウジにも少しはわかるし、なんだかかわいそうな気もする。少なくとも目の前にいるこの青年は炎の魔神である前に、普通の若者なのである。
 それにしてもこの使い魔を送りつけたのは誰なのであろうか?セルティ先生や同じ講座の先生方という事はちょっと考えにくい。右手大魔神の強力な魔力の秘密とか、どう言う生活をするのかとか…そう言う事ならば、こんないやらしい事をするまでもなく直接彼らに話せば済む事だからである。万一ばれたときに逆効果になるのは明らかなのであるから…まず絶対に有り得ない。
 しかしそれ以外の魔道士だとすると、もう皆目見当がつかないと言うしかない。手がかりは目の前の目玉…『メルディスの目玉』だけであるが、とてもこいつが白状するとかそういうことは期待できない。となると…実際もうお手上げとしか言いようがなかった。

 と、そうこうしているうちに…その『メルディスの目玉』が目を覚ましたのである。

「あ、気がついたみたいだぜ。」
「うわっ!動くっ!」
「あたりめぇじゃねぇかよ、精霊動物なんだからさ~」

 目を覚ました目玉は、頭の部分をしっかりと右手大魔神につかまれているので、触手をくねくねさせながら逃げ出す事ができないでいた。どうも…本気でこの炎の魔神(同じ精霊生物である)に挑まれたら、絶対にかなわないということが判るのだろう。「もう負けました」というように…あんまり抵抗せずにおとなしくぶら下がっているのである。こんな殊勝な様子を見ると、いくら「気味悪い」といってもちょっとかわいそうになってくる。

「どうする?こーじ…逃がしてやるか?」
「そうだなー…うん、もういいや。どうせ雇い主わかんないだろ?」
「うん、まあな~…俺さま、そう言う難しい呪文しらねぇし」

 どうせ雇い主…つまりこの目玉を送ってきた魔法使いを調べる事は彼らには無理である。もし頻発するようならばセルティ先生に相談するとしても、一回こっきりなら…これ以上は面倒な気がする。それに…実は右手大魔神だけ出なく、コウジも眠いのである。
 コウジがうなずくと右手大魔神はそのまま目玉を掴んで窓のところに歩いていった。そしてサッシをあけるとそのまま屋根の上に目玉を置いて手を離した。自由になった『メルディスの目玉』は…二、三度触手を伸ばす。そしてちょっと恥ずかしげにウインク(というかまばたき)すると、そのまま慌ててこそこそと樋を伝って去っていったのである。

六.「彼はコウジくんの同盟精霊なんかじゃないのね」

「じゃ、これでOKね。サインももらったし…字に性格でてるわねぇ…」
「そ、そうなのか?俺さまの字?」

 セルティ先生の尽力で、ようやく正式に「右手大魔神」がバビロン大学に「留学生兼実験助手」という形で入学することが認められたのは、2月の終わりのことだった。右手大魔神がコウジのアパートに転がりこんでから2ヶ月近くが経っている。今日は「今週の宿題を提出する」ついでに、入学の書類を提出するために学校に来たのである。
 セルティ先生が半ば呆れながら言ったように、右手大魔神の「字」というものは、これはもう金釘流もいいところの、荒っぽいものだった。とにかく書類の枠線からいたるところで線がはみ出している。どうも人間語の文字に慣れていないらしい。一文字一文字バラバラに書いているものだから、なんだか文というより記号が並んでいるというようになってしまうのである。おそらく普段、文を書くときには母国語の「精霊語」で書いているのであろう。

「へぇ、みぎて、本名はフレイムベラリオスなんだ…」
「こ、こーじ、恥ずかしいからやめてくれって!」

 当然こういった書類というものは、本名で書かねばならないものなのである。コウジは右手大魔神が書いた手続き書類を見て、やっとこの魔神の本名を知ったというわけだった。ところがコウジが名前を音読すると、右手大魔神はえらく赤面して書類をひったくってしまう。

「別にいいじゃん。『フレイムベラリオス』なんて、すっごくかっこいいとおもうけどさー」
「や、やめやめっ!」

 ますます右手大魔神は赤面して、コウジの口に手を当ててふさごうとする。精霊語では「フレイムベラリオス」は「灼熱の翼」の意味なので、コウジから見れば恥ずかしいどころか、随分格好の良い名前だと思うのだが…ここまで恥ずかしがるというのは、なんだか不思議な気がする。
 セルティ先生は「まあまあ」というように笑いながら二人を制すると、話題を変えた。

「で、これで晴れてみぎて君も大学生ね。おめでとう。実験助手のほう、よろしくね」
「お、おうっ!俺さまうれしいぜ。頑張るからさ!」

 赤面したまま、右手大魔神はセルティ先生にうなずいた。すると先生は傍の引出しから手帳を取り出して、カレンダーのページを開ける。そしてそれを二人の前に置いた。

「今週の終わりか来週なんだけど、せっかくだから歓迎会を開こうと思うのよ。入学祝いって言うか、まあそんな感じね。どうかしら?」

 コウジと右手大魔神はほぼ同時に喜びの声をあげた。二人とも酒は大好きである。コウジの家に右手大魔神が転がりこんでから、二人で毎晩のように酒を酌み交わしているといってもいい。とはいっても…今のところ金欠病の状態なので、ペット瓶の焼酎かウィスキーのようなものになってしまうのだが… ところが「歓迎会」といえば多分「ただ酒」…最悪でも格安の会費でうまい酒をたらふく飲むことができる。これはもう天国というか、大チャンスというか…願ってもない話だった。

「俺さま、いつでもいいぜっ!」
「あ、僕もOKです。都合にあわせますよ。」

 「ただ酒のためなら予定ぐらいいくらでもずらす」というわけである。セルティ先生は現金な二人に思わず笑い声をあげた。

「そうね、会費のお金は教科書を買うのに必要ね。みぎて君、教科書買ったの?」
「きょ、教科書?…あ、そっか…」

 授業に出るためには教科書は当然必要である。すっかりそんな事忘れていた二人は大慌てである。狭い部屋から脱出もできないこの赤貧状態で、さらに教科書代まで取られてはますますピンチになってしまう。二人はまるて天国から地獄に突き落とされたようにいっきに…へにゃへにゃになってしまった。

「しかたないわねぇ…ふふふっ。判ったわ。講座の学生達に声をかけてみるわ。古本でもいいでしょ?」
「せ、せんせー、ありがとー」
「助かりますっ!」

 実はここだけの話だが、コウジ自身も教科書代は悩みの種だったのである。「右手大魔神に古本のご寄付を」ということにして、コウジの分も集めてしまえばそれだけで結構な倹約になる。同居生活の数少ない特権というわけだった。
 セルティ先生はそんなコウジの打算を知っているのか、ちょっと笑って近くにいた講座生に言った。

「みんなに言って、使わなくなった教科書を持ってきてもらって。2冊づつでもいいわ。かわいい後輩に寄付してあげるのよ。」
「か、かわいい後輩って…」
「あら、憎たらしい後輩っていわれるよりましでしょ?」

 やはりこの…きれいだがちょっと「おばさんが入った」女教授は手強いようである。右手大魔神は当然のこと、結局はコウジだって完全におもちゃなのだった。赤面してむくれているコウジにセルティ先生だけでなく、右手大魔神までいっしょになって笑い転げてしまったのはいうまでもない。

*      *      *

 というわけで、その週末「天下の右手大魔神さま歓迎大宴会」が賑々しく…「バビロン大学魔法工学部の教室」を借り切って執り行われたのである。いや、居酒屋とかそういう場所でも良かったのだが…人数の問題もある。セルティ研究室だけで二〇人くらいいるし、ほかの講座からも教授方や「生で魔神を見たい」という学生たちもいっぱい集まったからだった。六〇人くらい入れる教室はあっという間に満員になってしまうほどの盛況である。
 料理とかお酒とかは当然…みんなの手料理である。精霊魔法では有名なバビロン大学であるから当然参加者に留学生も多い。ということで、各国のみょうちくりんな手料理がたくさん登場する。もちろん乾き物(つまりするめとか、柿の種とか)やら屋台で売ってる焼き鳥とか、ペットボトル入りの焼酎とか安いウイスキーとか…かなりの食べ物はコウジ(そしてそろそろ右手大魔神自身にも)おなじみのものだった。

 魔法工学部長のイリスコール教授(わざわざ宴会に出てきてくれたのである)の挨拶で始まったこの大宴会は、「手作り宴会」の割にはずいぶん盛り上がったものだった。「今日だけ特別」ということで、例の「精霊力抑制バンダナ」をはずした右手大魔神は、見事な炎の翼を披露してみんなを驚かせるし、コウジはコウジでほかの教室の教授やら、学部生やら、友達やらから「どうしてこの魔神と知り合ったのか」「魔神との生活はどんな感じなのか」といった質問攻めにあうしと、ずいぶん忙しい。いや、実際にコウジはこれだけの宴会で「本当に主役」になった事はないので、なんだかもう目が回るような気がしてしまう。

「いやいや、しかし大変じゃろうな、魔神の世話というのは…」
「世話って言うほど世話することないんですけど…結局ちょっと変わった同居人ですよ。飯だって洗濯だって交代ですし…」
「それはすばらしい!魔神に洗濯や掃除をさせているのかね!」

 コウジはちょっと辟易しながらうなずいた。さっきからこの教授…アイルシュタイン博士の妙な質問にはかなり困るというのが本音だった。酒が回っているというせいもあるのだろうが、概して質問がピンぼけという気がするのである。どういうことなのかというと…どうも「魔神との同居生活」というのが、特別な生活であるという誤解があるようなのである。いや…確かにコウジ自身もこの陽気な魔神に出会うまでは、魔神といえばおとぎ話に出てくる「ランプの精」とかそういうイメージが強かった。まさかこんなに普通の…飯も食えば風呂にも(まあ風呂は右手大魔神の場合「熱湯そのもの」じゃないとだめなのだが)入る、そんな相手だとは思いもよらなかったのだから、ほかの人には信じがたいことかもしれない。
 そう…特別な事といえばただ一つ、「一緒に住んで、学校で勉強できるようにする」という契約を結んだことだけだった。まあ、ひょっとすると(まだ魔道士として未熟な)コウジには判らないだけで、この魔神とコウジにはなにか特殊な魔法の絆…呪縛みたいなものができているのかもしれないが、だからといって今のところなにも変わったという自覚はない。
 しかし、そこのところを理解してもらうというのがなかなか難しいのである。そろそろセルティ教授やロスマルク先生には十分判ってもらっていると思うのだが、ほかの講座の先生方や学生の連中にはまだまだである。恐らくこのアイルシュタイン教授みたいな誤解をほかのみんなも抱いているに違いない。そう考えると…なんだかコウジはちょっとげんなりしてしまうのである。
 「妙な質問攻め」に辟易している様子のコウジに見るに見かねたのか、セルティ先生が紙コップを片手に近づいてきた。

「コウジくん、もう一杯のんだほうがよさそうね。」
「あっ、すいません。」

 彼女はそばにあった新品の紙コップにビールを並々と注いでくれる。そしてこっそり耳打ちした。

「これ飲んだら、そのままビンを持ってほかの人のところに適当に注ぎにまわったほうがいいわ。それなら逃げられるでしょ?」
「そ、そうですね…でもみぎてのやつが…」
「大丈夫よ。まさかあんなとんでもない質問、『魔神さま』に直接はできないわよ。どうもそう誤解しているのよねぇ…みんな。」

 セルティ先生はそういって笑った。コウジもつられて笑うのだが、心のどこかになんだか不安感がある。さっきのアイルシュタイン教授のしつこい質問攻めが原因なのかもしれない。どこか引っかかりのような…そんな気分なのである。
 コウジはそのままビールビンを持って右手大魔神のほうに近づいた。「みぎてのやつ」は学生やら教授やらに囲まれて焼酎をぐびぐび…ストレートで飲んでいる。いや、焼酎はいつものことなので(どうも炎の精霊界のお酒に一番似ているらしい)別に驚く事はないのだが…しかしちょっとペースが速い気もする。

「みぎて、あんまり飲みすぎるなよっ。適当にしないとみんなに迷惑かけるから。」
「え~っ、こ~じぃ、だいじょぶ。これくらいしんぱいいらねぇって~」

 「だいじょぶ」どころではない。明らかにいつもよりも酔っ払っているようである。二人で飲んでるときは…少なくともコウジはここまでろれつが回らなくなった右手大魔神を見た事はない。どれくらい飲んでいるのか知らないが…いつもの量から考えると、もう2リットルくらいは飲んでいるはずである。いや、この酔っ払い方ではもっとかもしれない。

「みぎて、ちょっと、飲み過ぎじゃないか?」
「なぁにいってんだよ、おれさま、ほのぉのだいまじんさまだぜ~」

 ちょっと口から火まで吐いて右手大魔神は返事はする。周囲で拍手までするものだからますますいい気になってるようだった。コウジはまずます不安になって右手大魔神の手からコップを取り上げた。

「あっ、こ~じも飲むだろ?ほらぁ」
「みぎて、そろそろ帰って寝たほうがいいって。な?」
「ぁに言ってんだよぉ~、まだまだ、これからだぜぇ~」

 そういうと右手大魔神は、そばにあった焼酎のビンを手にするといきなりラッパ飲みをはじめたのである。思わずコウジは慌てて右手大魔神の手をつかんだ。するとビンから焼酎がこぼれて魔神の顔にかかってしまう。

「ぁにするんだよぉ~、こ~じっ!」
「みぎてっ!飲み過ぎだって!もうフラフラじゃないか!」
「うっせぇ~っ!かまわねぇじゃねぇかよ~」

 もう完全に理性がとんでいるのである。これ以上怒らせると…相手が炎の魔神なだけに何をしでかすかわからない。とにかく、まだコウジの家ではそこまでの騒ぎになった事はないから同居生活が成り立っているのであるが、逆にいえば暴走したときの右手大魔神をコウジは見た事がないという事を意味しているのである。火を吐くだけでなく、周囲を火の海にしてしまったり…そんなことになりかねない。
 ところが、何とかして「みぎて」を家に連れ帰ろうとするコウジをよそに…さらに何人もの学生や先生が酒を勧め始めたのである。

挿絵 竜門寺ユカラ

*      *      *

「!!!!」

 さすがにコウジはカチンと来てしまった。酒を勧める奴らも奴らである。事態を把握していないとは思えない。炎の魔神が…酔いつぶれるならまだしも…暴走したら、いくら一流の魔道士である教授方といっても取り押さえられるのか?
 それにいい気になって乗せられている「みぎて」も「みぎて」である。コウジ自身多少は酔っ払っている勢いもあって、だんだんむかっ腹が立ってくる。

「みぎてっ!もう知らないぞっ!酔いつぶれても迎えにこないからなっ!」
「おれさま、そんなに酒、弱かねぇよ~ん」

 コウジはぷいっとそっぽを向いた。もうこれは勝手にさせるしかない。事故が起こったら、ここまで泥酔させた先生方にも責任はあるのだし、酔いつぶれて寝転がって、風邪を引いたら引いたで(炎の魔神が風邪を引くという事があるのかどうかは判らないが)、自業自得である。
 怒った顔のコウジにセルティ先生はちょっと慌てた様子で彼のところにやってきた。

「コウジくん、みぎてくんは私が見ているわ。」
「先生、すいません。あいつ、こうなっちゃうと俺の言う事なんか聞かないんです…」
「ふふっ、判るわよ。彼はコウジくんの同盟精霊なんかじゃないのね。そう…親友か、家族ってところなんだわ。」

 セルティ先生がそういうと、コウジは…ちょっと赤面しながらうなずいた。そしてそのままトイレに行くふりをして…この乱痴気騒ぎの会場を抜け出し、家路へとついたのである。


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