生娘シャブ漬け戦略は、意外と身近に存在している
マクドナルドのハッピーセット、吉野家のポケ盛、コンビニに広がるお菓子メーカーの鬼滅コラボ、「生娘をシャブ漬けにする戦略」は(そう表現されないだけで)意外と日常に溢れている。
はじめに:個人的には面白かった
他者がどう感じるかはさておき、「生娘シャブ漬け戦略」という言葉自体は面白かったと思う。面白いと言うことさえも社会的に批判されそうなのだが、まあ許されたい。
言葉というのは、外部から獲得し、物事を表象し、他者へと共有できるツールである。「生娘シャブ漬け戦略」の表現の裏側では、(一般的に)悪いイメージをもとにした表現(生娘やシャブ)が獲得され、表象し、共有されている。いわゆる再生産。これに嫌悪感を抱くのも、まあ分かる。
嫌悪感というのもこのネット社会において蔓延しやすくなったようなものだろう。コロナのように。こう表現すること自体も嫌悪感を抱かれるのかもしれない。
たった一言で社会に波紋を広げ、よくも悪くも話題となり、アクセンチュアの契約解除にまで至るような言葉は、作家として、科学しないわけにはいかない。
気分を害されるようなら、立ち去って頂きたい。
生娘はシャブ漬けになるのか?
この物語を考えるとき、人はセンシティブな領域へと入る。
生娘は「何もしらない娘」。そこには、処女性のようなニュアンスが含まれる。処女こそ、まだ人権を得ている表現であるが(処女作とか)、それでもなお使う場面は、神経を尖らせる。ましてや生娘などは日常使われない分、それ以上の破壊力をもつ
シャブは、覚醒剤を意味する隠語だ。こっちは完全に表現として忌避されるのだろう。過去の隠語を見てみれば、「ヤバい」などがある。江戸時代の盗賊が捕まりそうなときに使ったようだ。ちなみに今では普通にちまたで使われている。
何も知らない娘をシャブ漬けにする。たったこれだけの表現は、その日常では聞かない言葉の特異性や触れてはならない隠語性から、表現の暴走をはじめる。
何も知らない娘をシャブ漬けにして××する。なんと道徳からかけ離れた表現であろうか。嫌悪感というやつは恐らくこういうとこからくるようだ。
生娘はもうシャブ漬けになっている
主題はこの部分である。嫌悪感のある表現を借りて、表現させてもらうが、この世界はある意味シャブ漬けになっている。
それは、この元のマーケティング理論を考えるとよく分かる。資本主義の中で、マーケティングは「いかに人々にものを売るか」に焦点をあてる。
「生娘シャブ漬け戦略」は、人間が小さい頃から同じ「シャブ」を使わせる、あるいは無意識のうちに使ってもらうことで、その「シャブ」が当然のものとなり、社会に浸透していくというものだ。
マクドナルドのハッピーセット、吉野家のポケ盛、コンビニに広がるお菓子メーカーの鬼滅コラボ、「生娘をシャブ漬けにする戦略」は意外と日常に溢れている。
生娘をシャブ漬けにすると表現することは、表現自体に品性のなさを持つ一方で、そういった社会の良くも悪くもある「構図」を鮮明に浮き彫りにする。
おわりに:表現するものとして
正直、このように自分のネジを外して社会にインパクトを与える表現者はうらやましい。その表現の是非は別として。
酒という娯楽に漬かって
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