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【お盆】馴染みのない習慣について

小さい頃から「これ、何だろう?」と不思議だった。

こんばんは。
今日は、終戦記念日。

台風7号に関するニュースと、終戦記念日の平和祈念式典の中継を観て、一日を過ごしていました。上記のポスト(やっぱり「ツイート」の方が好きだな)に綴ったように、同居している祖母がいなければ、母も、わたしも生まれていなかった。
改めて、ここまで命をつないでいるという現実に感謝するとともに、あの戦争が再び起きることがないように。静かに祈りました。


ところで、世の中はそろそろ、お盆休みが終わる頃でしょうか。ずっと家にいる身だからか、世の中の動きに疎くなりがちです。
そんな中、X(旧Twitter)で、あるポストが目につきました。

精霊馬しょうりょううま。みなさんのご家庭では、この習慣はあるでしょうか?

精霊馬は、お盆の時期にご先祖様が、あの世からそれぞれの家へ帰るときの「乗り物」。きゅうりの馬となすの牛、ですね。

乗り物の行きが馬で、帰りが牛というのは、ご先祖の霊に、『早く来てください』『帰りはゆっくりとお戻りください』という願いを込めたからだと言われています。

https://weathernews.jp/s/topics/202308/100245/

わたしの家では、この習慣はありません。写真やイラストで、その存在は知っているけれど、実際にやったことがないんです。
それはなぜか。先ほど挙げたポストのように、地域差ももちろんあると思います。
我が家の場合は、信仰している宗派に関わる部分が大きいです。

我が家の宗派は、父方・母方ともに浄土真宗(真宗大谷派・東本願寺が本山)です。この宗派では「亡くなった人があの世からこの世へ帰って来る」という考え方自体がありません

在りし日の故人の顔を思い浮かべるとき、様々な思い出がよみがえってきます。もう、この世で会えない身となってしまった故人は、しかし、私の確実な未来の姿でもあります。

日ごろ、自分が死ぬ身であることを忘れ、生に安心しきっていますが、“死”という無常の虎は容赦なく襲い掛かってくるのです。

やがて必ず死ぬのに、なぜ生きるのか、生きていかねばならないのか、人生の根本問題を仏教の教えによって解決する勝縁とするのがお盆です。

お盆に親戚一同が集まって、僧侶に読経してもらうところもあると思いますが、読経を「死者のためにあげてもらっている」と思われてのことならば、それはとんでもない仏教の誤解です。

「死者のために読経する」のは迷信だと、その誤りを教えて下されたのは、実に仏教を説かれたお釈迦様なのです。

https://buddhism.jimdofree.com/

このnoteを書こうと思い、改めていろいろ調べてみると、とても興味深いな、と感じています。
浄土真宗において、死者は「亡くなってすぐに成仏する」という考え方から、香典の表書きには「霊前」と書かず「仏前」と書きます。だからこそ、死者がお盆に帰って来るという考え方がない、ということです。

こういった理由から、我が家では精霊馬を供える習慣がありません。
先に引用したポストを見ても、東海・北陸地方では精霊馬を供える習慣が「ある」よりも、わずかに「ない」の方が上回っているのは、この地方には比較的、浄土真宗が根付いているからかな、と思います。歴史的に見ても、これらの地域で一向一揆が多く起こったのも、そのためではないでしょうか。※

※ 仏教も歴史も専門で学んでいるわけではないので、アドバイスいただけたら幸いです。

なんとなく忙しさにかまけて、家の仏壇に手を合わせていなかったけど。こんなnoteを書いたからには、明日はきちんと、仏壇に手を合わせようと思います。
小さい頃は、お盆や父方の祖母の命日、お彼岸など、正信偈しょうしんげ(毎日のお勤めで唱える言葉)のお勤めをしていたんですけどね……ここ数年はからっきし……。

今日も読んでいただき、ありがとうございます!

【追記】
築地本願寺さんのnoteが、浄土真宗のお盆についてわかりやすく解説くださっていたので、こちらに引用します。
亡くなった父やご先祖さまも、きっと仏さまにになって、見守ってくれているはず。

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