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行動を変えるには意識ではなく”無意識”を変えること

論理的な思考か、直感か

人の行動にはいろいろなパターンがあります。
じっくりと論理的に考えたうえで慎重に行動をする人もいれば、直感を信じて即行動に移すタイプの人もいます。

私は完全に前者のパターンであり、自分の直感はアテにならないものとして軽く見ていました。

しかし、最近その”直感”というものの重要性について分かり始めてきました。

人の判断のほとんどは”直感”で行われる

私たちは、自分の行う判断のほとんどを意識して行っていると考えています。

しかし、最近の研究では判断のほとんどは無意識にて行われているという結果がでています。

無意識で行われる判断、つまり直感のことですね。

これはかなり意外なことのように思えますが、よくよく考えてみると確かにその通りだと思えてくるところもあるのではないでしょうか。

例えば初対面の人に対して私たちは直感的にその人に対するイメージをもつことができます。
「この人はちょっと自分には合いそうにないな」とか「なんかこの人の雰囲気は好きだな」とか、まさに対面して間もなくその人に対するイメージが出来上がるのではないでしょうか。

そして、その直感的にできたイメージはその後なかなか覆ることはないことも往々としてあることです。

自分の思考を振りかえってみると、多くの判断が無意識的に行われることと、その無意識の判断を意識的に変えるのが難しいことに気づくのではないでしょうか。

”直感”つまり無意識で行われる判断というものが、判断においてとても大きなウェイトを有していることが分かると思います。


坐禅により浮かび上がってきた無意識領域

私は普段から坐禅を行っています。
無意識領域について考え始めたのは坐禅を始めてからになります。

坐禅をしていると、いろいろな考えや言葉が自分の意志とは関係なしにひっきりなしに浮かんできます。

集中しようとしても、いや、しようとすればするほどノイズは大きくなります。
坐禅を始めたころはノイズに気を取られ集中できないことがよくありました。

このノイズを普段の生活で意識することはありませんが、実はつねに頭の中で鳴り響いています。
それを不思議に思ったりノイズをうるさいと思わないのは、それが人間の思考の当たり前の形だからではないでしょうか。

つまり、思考は頭の中に浮かんでくるノイズをきっかけに始まったり枝分かれしていくもので、それが当然なのだと考えます。

坐禅をくり返して集中する方法が身についてくると、ノイズは消えるわけではありませんが少し静かになり、だんだんと気を取られなくなります。

そうなると、今までノイズで覆い隠されていたものが晴れて心と向き合うことができるようになってきます。

心は言葉を発しませんが、さまざまなうねりや色や明暗を見せるように感じられます(人によっては音や温度などで心を感じるかもしれない)。

心を水面に例えるならばその表面は常にうねっていたり波が立っていたりするといいます。
しかし、そのさらに深いところでは波だったり揺るいだりすることがない領域があるのです。

私はようやく水面の形や色をとらえるできるようになった程度ですが、深く集中したときに心の奥底のなにか定まったものが感じられることがあります。

心とは無意識領域のこと

心とはつまりは無意識領域であり、そして坐禅とは無意識領域と向き合うことだと考えています。

無意識領域と向き合ってきた過程を俯瞰的みることで、無意識領域がどのような構造をしてどんな働きをしているのかが少しずつ理解できてきました。

それは、次のようなものです。

人の頭の中、つまり意識領域には常にノイズが発生しています。
それは実際にはノイズではなく、”言葉の泡”ともいうべきものです。

その言葉の泡はどのように発生するかというと、まず体のさまざまな情報(視界情報、音声情報、身体情報など)が、その無意識の根底にあるものと反応して混沌のスープを生み出します。

そのスープの表面は常にうねっていたり、泡だったりしています。

そして無意識領域にあるスープからポコポコと言葉の泡が生まれて意識領域に浮かび上がってきます。


ポイントは、言葉の泡は視界情報などの単純な一次情報ではなくて、無意識領域での判断を含んでいることです。

その判断は、無意識領域の根底にあるものと情報が反応することで生まれています。

恋をしているときの風景がすべてきらめいて見えたり、落ち込んでいるときには大好きな曲ですらうるさく聞こえたりすることがあります。
アバタもエクボというように、好きな人に対しては欠点ですらよく見えるものです。

そのようなことは私たちが意識して行っているわけではなく、認識した時点ですでにそうなっているのです。

つまり無意識領域での判断とは、視界などの一次情報に対してバイアスをかけることだとも言えるかもしれません。

人は見たものや聞いたものをそのまま認識しているのではなく無意識のうちにバイアスをかけているのです。

言葉の泡にそのような判断やバイアスが含まれるのは、すべてのことに対していちいち意識的な思考をして判断しないといけない状態では時間がかかりすぎるからかもしれません。

そのため、ほとんどの判断は無意識領域からの言葉の泡にゆだねて、より深い思考が必要なものだけを選別しているのでしょう。

このように、視界などの一次情報は無意識領域にて自動的に判断をともなった言葉の泡に変わります。

よく使われる「生理的にムリ」という表現はまさに無意識領域での判断と言えるのではないでしょうか。
そして、その表現は無意識領域での判断を、意識して変更することがかなり難しいことを物語っています。

第一印象で「生理的にムリ」と感じた人に対して、そのイメージをプラスに変えることが難しいことは、なんとなく実感できると思います。

意識領域で判断を変更するには、それなりの時間と判断を覆すだけの材料が必要となります。
それだけでなく、判断を覆すことのできる柔軟な思考も必要となってくるでしょう。

行動を変えるには、意識ではなく無意識を変えること

ほとんどの判断が無意識領域にて行われ、意識的に行っている判断も無意識領域での判断をベースに行われるとなると、私たちが行っている判断のウェイトの大部分を無意識が占めていることになります。

判断は、行動に結びつきます。

人は意識的に行動をしているように錯覚していますが、じつはほとんどが無意識の判断をベースに行動をしていることになります。

それは本当なのでしょうか。

人間の行動が意識に基づいて行われるのであれば、論理的に正しい行動のみを行うでしょう。
人間の行動は道徳的に正しく生産的で自分や社会にとって常にプラスな行動をとるようになるはずです。

しかし、実際には論理的な行動だけをしている人間は存在しません。

ほとんどの人間が正しい行動、すべき行動は何かを理解しているのに、そのようには行動しないのです。

それは、人間の行動はほとんどが無意識をベースにしたものであり、無意識での判断は感情的で意識による判断ほど論理的ではないからでしょう。

無意識による判断と意識的による判断には大きな食い違いがあることは、様々な研究結果からも明らかになってきています。

つまり、行動を変えようとするには意識ではなく無意識を変える必要があることになるでしょう。

無意識を変えることなどできるのでしょうか。


無意識を変える、マザーテレサの言葉

結論から言えば、無意識を変えることはできると考えます。

しかし、自己啓発本にあるような「無意識領域をコントロールしよう!」といったような簡単にいえるようなものではありません。

無意識領域は、意識領域のコントロール下にあるものではないからです。

できるが、多くの時間と手間がかかるうえに少しずつしか変えることができないものだと思います。

マザーテレサの言葉として、次のような有名な言葉があります。

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

思考や言葉や行動などの積み重ねが性格、つまり無意識領域に影響を与えることを示していると思います。
そして、”いつか”と表現されているとおり、変化は少しずつしか起きないことを示唆しています。


仏教においても、マザーテレサの言葉と同じように無意識領域を変える考えがあります。
「種子薫蒸」について説明したいと思います。

「種子薫蒸」とは、唯識という仏教思想の中の言葉です。

唯識では、無意識領域は表層である末那識(まなしき)と深層でありすべての根源である阿頼耶識(あらやしき)に分かれています。

そして、自分の認識している世界すべては無意識の深層である阿頼耶識から生まれていると考えられます。

無意識領域と意識領域の関係は、意識領域による行動が無意識領域の深層に「種」をうえつけ、その「種」が意識領域に影響を及ぼすということが繰り返されているのです。
その種を植え付けることを「種子薫蒸」といいます。

つまり、無意識の深層に種を植え付け、育て、それを繰り返すことが意識領域と無意識領域の両方を変えることにつながると考えるのです。

種を植えたとしても、育つとは限りません。
畑の土が荒れ果てていたり、水や栄養分が足りなければ種が育つことはないでしょう。

種を育てるには、荒れ果てた大地を耕して種を植えてそれを育てる手間がかかり、そしてそれをずっと繰り返す必要があります。

それは、とても時間がかかり骨が折れる作業です。

しかしそれをあきらめずに続けることができたなら、人は無意識領域を変えることができるでしょう。
それは、意識と行動の変化にもつながるはずです。


意識と無意識


人間の行動は、無意識による判断の役割がとても大きいです。

しかし、無意識領域は意識的にすこしずつ変化させることができます。

少しずつ変化させることは、無意識領域、つまり心に種を植えて育てることに例えられます。
心は種を育てる畑といえるでしょう。

温かく、ふかふかな畑では、きっとスクスクと種が育っていくでしょう。
そして育った種は、社会において人間の良い行動や良心として表れてくるはずです。

人は、「どう行動をするか」を重視しがちです。

しかし、行動は人の無意識領域つまり心から生まれるものです。

大切なことは、「どのような行動をするか」よりも「自分の心がどうあるべきか」ではないでしょうか。

行動は、その心から自然と生じてくるものだと思います。

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