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悟るって何?ガンディーの思想とコテンラジオの話 その①

ガンディーの思想

最近、私は坐禅にハマっています。始めたのは、”コテンラジオ"というとても有名なpodcastの番組で何度か仏教に関するテーマがあり、そこから仏教とはなんぞや?と興味がわいてきたのがきっかけです。


仏教とは違うのですが、”コテンラジオ"のガンディーの会も非常に面白く心に響きました。

ガンディーは非暴力・不服従という歴史上だれも成しえなかった方法でインドを独立へと導いた偉大な方です。ガンディーは「サティヤーグラハ」という思想をもとにその偉大な運動を行いましたが、その思想のベースとなったのはヒンドゥー教の聖典、バガヴァットギーターでした。

私は、最近ガンディーの伝記を読みました。その中で、バガヴァットギーターの中で最も崇高とされる詩が記載されており、その詩を読んだときにいままでモヤモヤと考えていた「悟り」というもののイメージが一気に言語化して頭に流れ込んでくる感覚をうけました。

内なる神クリシュナに、「人生のどの瞬間においても神を認識できている人は、どのように見分けることができるのでしょうか?」と尋ねます。クリシュナ神はそれに対して、世界の聖典のなかですばらしさにおいて比類のない、18の詩節からなる崇高な言葉で答えます。

不動の知恵を確立している人は、万物のなかに自分を見、自分の中に万物を見る。愛の神(至高神)に向けられたその人の愛は、心をさいなむ利己的な欲望や、感覚器官の渇望をことごとく焼き尽くす。悲しみに心をかき乱すことも、快楽を切望することもなく、肉欲、恐れ、怒りからも解放されている。利己的な執着にとらわれることもなく、幸運に舞い上がることも、不運に絶望することもない。覚者とは、そのような人である。

出典:人間ガンディー 世界を変えた自己変革

万物のなかに自分を見、自分の中に万物を見る

18の詩節はすべて素晴らしく余すことなく不動の知恵(=悟り)について語られていますが、私が「まさにこの言葉だ」と感じたのは万物のなかに自分を見、自分の中に万物を見るという一節です。

この言葉自体は、私にとって実はそこまで新しい言葉ではなく、有名な漫画である”鋼の錬金術師"の作中での印象的なことば「一は全、全は一」はこの世の真理を表す言葉として出てきます。

鋼の錬金術師では、錬金術師の師匠に「一は全、全は一」がそれぞれ何かを質問され、厳しい修行の末に一は自分であり、全は世界であるとの答えにたどり着きました。つまり、自分が世界であり、世界は自分である、が真理だったわけです。

「一は全、全は一」という言葉は知っていましたが、その言葉を知った当時はあまり印象には残りませんでした。自分が世界であり、世界は自分であるといわれても単なる言葉遊びのようにしか思えなかったからでしょう。
作品内での掘り下げがそこまでなされなかったことも一因だとは思いますが、それ以上にその言葉を理解するための土壌が私の中で出来上がっていなかったからです。

歴史を学ぶことで、自分自身を相対化する

冒頭の”コテンラジオ"では、歴史の出来事をただ紹介するだけでなく、その出来事が起こるまでの背景、つまり現代との価値観の違いや、当時の人たちの心理状況の推測、その出来事が起こるまでの流れ、出来事が起こってからの価値観の変化など、細やかに解説されます。

番組の中で、繰り返し出てくる言葉として、「歴史を学ぶことで、自分自身を相対化できる」というものがあります。

これはつまりどういうことかというと、歴史を学ばない状態では、自分自身をとりまく「現代社会」というものがあまりに当たり前のように存在していてるため疑問を持つこともないため「現代社会」が理解できず、そのためその中で生活する「自分自身」が何なのかがわかりません。

それに対して、歴史を学ぶことで、時間軸という新たな軸を手に入れることができ、歴史と現代社会を相対化してみることで、現代社会が絶対であるという概念が崩れて俯瞰してみることができ、それが何なのかを理解することができるようになります。

身近なよくある例では、海外に旅行にいくことで日本で暮らしていても気づけなかった日本の良いところも悪いところも理解できる、というものです。

そして、現代社会が理解できるようになると、その社会と自分を相対化することで、「自分自身」を理解できるようになります。これが、「歴史を学ぶことで、自分自身を相対化できる」ということだと思います。

さらに、自分自身を理解できるようになると、自分とその周りの関係性が分かるようになり、自分の周りのあらゆることが分かるようになります。

次回に続きます…。

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