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空の思想の真髄、般若心経とは

坐禅会では、最後に般若心経を唱えることが多いです。

しかし、私はいつも唱えておきながら実はその内容をまったく理解していなかったため、これはイカンと現在勉強中です。

そのため、自分の勉強用のメモとして本記事を作成しました。
私と同じような仏教初心者の方も参考になるかと思います。

般若とは

ところで、般若というとまず角の生えた恐ろしい顔をしたお面を想像してしまいますよね。

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しかし、仏教における般若にはそのような怖い意味は全くありません
般若という漢字に意味はなく、般若心経の原典である古代インドの言葉の響き(パンニャー)にあわせて漢字をあてはめたものになります。

そしてその意味は「偉大なる智慧」です。

あの恐ろしいお面をなぜ般若の面と呼ぶようになったのか、調べてみましたが諸説あるようでハッキリとしたことは分かりませんでした。
少なくとも「偉大なる智慧」との関係性は薄いようなので、あのお面のことは端っこに置いておきましょう。

仏教における般若心経とは

「空」の思想の核心を簡潔に説いた仏典であり、複数の宗派において経典の一つとして広く用いられています。

原典はサンスクリッド語で書かれていましたが、現在日本人に広く親しまれているものは、西遊記の三蔵法師として有名な玄奘げんじょうによって訳されたものです。

玄奘は唐を出発してから17年という長い時間をかけ、過酷な旅のなかで何度も命を落としそうになりながら数多くの仏教の経典をインドから持ち帰り、そして生涯をかけて翻訳しました。

今、私たちが般若心経に触れることができるのも、三蔵法師、玄奘のおかげなんですね。仏教界のスーパースターです。

般若心経(玄奘訳)

それでは、まずは玄奘によって訳された般若心経を見ていきましょう。
法事の際などに耳にしたことがある人も多いかもしれませんね。

ちなみに私の実家は浄土真宗だったため、般若心経は唱えませんでした。
浄土真宗では他力本願をベースにしているため、自分で成仏をめざす般若心経の思想と合わないんですね。
そのような宗派による考え方の違いも調べてみると面白いです。

「仏説 摩訶般若波羅蜜多心経」ぶっせつ まかはんにゃはらみったしんぎょう
観自在菩薩かんじーざいぼーさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー照見五蘊 皆空しょうけんごーうん かいくう度一切苦厄どいっさいくやく。
舎利子しゃーりーしー 色不異空しきふーいーくー 空不異色くーふーいーしき 色即是空しきそくぜーくう 空即是色くうそくぜーしき 受想行識じゅーそうぎょうしき 亦復如是やくぶーにょーぜー

色即是空、空即是色。
仏教に興味がない人でも聞いたことあるワードじゃないでしょうか。

舎利子しゃーりーしー 是諸法空相ぜーしょーほうくうそう 不生不滅ふーしょうふーめつ 不垢不浄ふーくーふーじょう 不増不減ふーぞうふーげん

何度か”舎利子”という言葉が出てきますが、これは人名です。
原本ではシャーリプトラという名前であり、お釈迦さま(仏陀)のお弟子さんです。
つまり、般若心経はシャーリプトラに対して空の思想の真髄を説いているという内容なんですね。

是故空中ぜーこーくうちゅう 無色無受想行識むーしきむーじゅーそうぎょうしき 無眼耳鼻舌身意むーげんにーびーぜっしんにー 無色声香味触法むーしきしょうこうみーそくほう 無眼界むげんかい 乃至無意識界ないしーむーいーしきかい 無無明むーむーみょう 亦無無明尽やくむーむーみょうじん 乃至無老死ないしーむーろうしー 亦無老死尽やくむーろうしーじん 無苦集滅道むーくうしゅうめつどう 無智亦無得むーちーやくむーとく

この辺はひたすら”無”を連呼します。

以無所得故いーむーしょーとくこ 菩提薩埵ぼーだいさったー 依般若波羅蜜多故えーはんにゃーはーらーみーたーこー 心無罜礙しんむーけーげー 無罜礙故むーけーげーこ 無有恐怖むーうーくーふー 遠離一切顛倒夢想おんりーいっさいてんどうむーそう 究竟涅槃くーきょうねーはん
三世諸仏さんぜーしょーぶつ 依般若波羅蜜多故えーはんにゃーはーらーみーたーこー 得阿耨多羅三藐三菩提とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい
故知般若波羅蜜多こーちーはんにゃーはーらーみーたー 是大神呪ぜーだいじんしゅー 是大明呪ぜーだいみょうしゅー 是無上呪ぜーむーじょうしゅー 是無等等呪ぜーむーとうどうしゅー 能除一切苦のうじょーいっさいくー 真実不虚しんじつふーこー
故説般若波羅蜜多呪こーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅー 即説呪曰そくせつしゅーわつ 羯諦ぎゃーてい 羯諦ぎゃーてい 波羅羯諦はらぎゃーてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃーてい 菩提薩婆訶ぼーじーそわかー 般若心経はんにゃしんぎょう

最後のぎゃーていぎゃーていは口に出して読むとリズムと響きがよくて気持ちが良いです。

般若心経(和訳)

せっかく玄奘が訳してくれた般若心経ですが、そのままでは私たち日本人には理解ができないので和訳を探しました。

曹洞宗のホームページに和訳が掲載されていましたので、以下引用します。
後でそれぞれについて解説していきます。

偉大なる智慧の完成についての心髄の経

観自在菩薩が深遠なる智慧の完成を実践していたとき、もろもろの存在の五つの構成要素は、皆、固有の本性・実体を持たない「空」であると見極め、だからこそ、あらゆる苦しみと災いを克服した。
舎利子よ、形あるもの(色)は、空に異ならず、空は、形あるものと異ならないのである。形あるものは空であり、空は形あるものなのである。そして、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用もまた、同じく空なのである。
舎利子よ、あらゆる存在は空を特質としているから、生じることも滅することもなく、汚れることも清まることもなく、増えることも減ることもない。
だからこそ、空であることには、形あるものは存在せず、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用も存在しない。眼・耳・鼻・舌・身体・心も存在しない。これらの感覚器官の対象である形・音・香り・味・触れられるもの・心の対象の法も存在しない。範疇としての眼から、意識にいたるまでの十八界もない。智慧が無い状態もなければ、智慧が無い状態も尽きることもない。また、老いて死ぬこともなければ、老いて死ぬことが尽きることもない。苦・集・滅・道という四諦もない。知ることもなければ得ることもない。
得るところのものが何もないからこそ、菩薩は智慧の完成に依るのであり、心には妨げるものがなく、心に妨げるものがないからこそ、恐怖があることもない。誤った考えや夢想を超越して、涅槃を究めるのである。また、過去・現在・未来の諸仏も、智慧の完成に依るからこそ、無上なる完全なさとりを得るのである。
だからこそ知るべきである。般若波羅蜜多とは、大いなる真言であり、大いなるさとりの智慧の真言であり、この上ない真言であり、比べるものがないほど素晴らしい真言なのである。よく一切の苦悩を除き、それは実在であり、虚ろなものではないのである。
だからこそ、般若波羅蜜多を讃える真言を、ここで説こう。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。

偉大なる智慧の完成についての心髄の経

和訳されているため文章を読むことはできますが、理解することはなかなか難しいです。

すべての存在は空である、と言われてもなかなか「はい、そうですか」と納得することはできませんよね。

また空の思想を、単純にすべてのものはまったく存在しないのだと誤解してしまうと虚無的な考えに陥ってしまうかもしれません。(実際に、当時のインドでは虚無思想にとらわれてしまった人たちもいたようです。)

空の思想を言葉や理論で簡単に理解しようとするのはおそらくムリで、だからこそ長い修行の末に目指すべき極地なのだと思います。

と、結論を焦ってもしょうがないので、まずは分かるところから少しずつ順番に見ていきましょう。

☆ ☆ ☆

偉大なる智慧の完成についての心髄の経

観自在菩薩が深遠なる智慧の完成を実践していたとき、もろもろの存在の五つの構成要素は、皆、固有の本性・実体を持たない「空」であると見極め、だからこそ、あらゆる苦しみと災いを克服した。

「摩訶般若波羅蜜多心経」は訳すと「偉大なる智慧の完成についての心髄の経」となります。

般若は記事の上の方で書いてある通り「偉大なる智慧」です。

その次の波羅蜜多はサンスクリット語でパーラミターを示し、パーラが「向う岸」「彼岸」を意味し、パーラミターで「向う岸に到達すること」を意味します。

よって、般若波羅蜜多で偉大なる智慧に到達することを意味します。


続いて、”もろもろの存在の五つの構成要素は、皆、固有の本性・実体を持たない「空」である”の部分です。

仏教においては、自己を構成する五つの構成要素(色・受・想・行・識)があると考えます。

そのうち「色」は形あるものを示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示します。

つまり、形あるものも、精神作用もすべて「空」であるということです。
形あるものも、精神作用もすべて「空」だと理解すれば、苦しみも災いも乗り越えられるよ、というのが最初の文章の内容になります。

「空」とはなんぞや、ということになると難しすぎるのでとりあえず先に進みましょう。

すこし余談になりますが、般若心経は”誰”がお釈迦様の弟子であるシャーリプトラに空の思想を説いているのでしょうか。
当然お釈迦様…なのかと思いきや実は違います。

お釈迦様は釈迦如来という仏教の中でトップに位置しますが、般若心経ででてくる観自在菩薩というのは釈迦如来とは別なんですね。
(仏のランクでいうと、如来がトップで菩薩がその下です)

般若心経はお釈迦様が作ったものではなく、お釈迦様から500年後の時代に「大乗仏教」という新しい宗派が起こったときに作られたものです。
なぜお釈迦様のお弟子さんに説く形式で作られたのか、少し不思議ですね。


さて、本文に戻ります。

舎利子よ、形あるもの(色)は、空に異ならず、空は、形あるものと異ならないのである。形あるものは空であり、空は形あるものなのである。そして、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用もまた、同じく空なのである。

これが、空の思想の核心部分になります。

これは”もろもろの存在の五つの構成要素は、皆、固有の本性・実体を持たない「空」である”を言い換えたものですが、
ここで重要なのは、形あるものは「空」であり、「空」は形あるものとわざわざ逆から言い換えている点です。

「空」=なにもない、空虚だと誤解してしまうと、この言い換えの部分が成立しません。

形あるものは「空」であり、「空」は形あるものだという互いに内包しあうような不思議な関係性を理解することが重要なのだと思います。

だからこそ、”色即是空、空即是色”が般若心経の中でもっとも重要な言葉だと言われているのでしょう。


それでは、次の文章です。

舎利子よ、あらゆる存在は空を特質としているから、生じることも滅することもなく、汚れることも清まることもなく、増えることも減ることもない。

この文章以降は、「空」の思想の補足的な内容になっていきます。

仏教的世界観における「空」とは、生まれることも消滅することもなく、汚れることもなければ清まることもなく、増えることも減ることもないものだということです。

ここで、少し疑問が生まれます。
仏教の世界観の中でもう一つ大事なものとして諸行無常があります。

諸行無常とは、世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということを示した言葉です。

諸行無常で言っていることと、「空」の思想で言っていることが矛盾しているのでは?と思うかもしれません。

しかし、これこそが「空」の思想を理解する鍵かもしれません。

諸行無常の中で移り変わるすべてのものは、私たちが感覚的に認識している現実世界に存在する形あるものです。

空の思想では、形あるものは空であり、そして私たちの精神作用もすべて空だと言っています。

つまり、形あるものだけに着目してしまうとそれは移り変わっていくように見えますが、形あるものや精神作用をすべて内包した「空」のなかではそこに境目はなく、だから生じることも滅することもなければ、増えることも減ることもないのだということです。

例えとして正しいのかは分かりませんが、地球上にある水が海や川や雲などに形を変えたとしても、地球上にある水の総量がかわらないことと同じようなことかもしれませんね。

そのように考えると「空」は決してからっぽ、空虚といった意味ではなく、無限の広がりをもった境目のない世界のよう感じられるのではないでしょうか。


それでは次の文章です。

だからこそ、空であることには、形あるものは存在せず、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用も存在しない。眼・耳・鼻・舌・身体・心も存在しない。これらの感覚器官の対象である形・音・香り・味・触れられるもの・心の対象の法も存在しない。範疇としての眼から、意識にいたるまでの十八界もない。智慧が無い状態もなければ、智慧が無い状態も尽きることもない。また、老いて死ぬこともなければ、老いて死ぬことが尽きることもない。苦・集・滅・道という四諦もない。知ることもなければ得ることもない。

今まで見てきた通り、形あるものも精神作用もすべて「空」です。

精神作用がないとはつまり、眼・耳・鼻・舌・身体・心も無いことになります。
そしてそれらが無いということは、その対象である形や音、香り味なども存在しないことになります。

ここでサラッとかかれている「心」も無いというところが、空の思想を感覚的にものすごく理解しづらくしている点ではないかと思います。

デカルトの有名な言葉である「われ思うゆえにわれあり」という言葉にあるように、世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない、ということを私たちはすでに知っています。

それに対してその心すらもないんだよ、という空の思想はなかなか飲み込みづらいものがあります。

仏教の世界においてもやはり同じだったのか、空の思想のあとを継ぐ形で「とりあえず仮に心だけはあるとして考えてみようよ」ということで、唯識の思想が生まれます。

唯識の思想も心だけが存在し、心の外に「もの」はないという思想のため一般的な感覚としては理解しづらいところもあるのですが、緻密なロジックに基づいた思想のためちゃんと学べばその理論は理解はできると思います(納得できるかはさておき)。

ただ、ロジックとして理解できるのは唯識の思想までで、そこから空の思想に至るには仮にあるとした心も無いと理解しなければ到達できないため、ロジックを越えた何かがないとやはり空の思想を完全に理解することはできないのではないか、というのが私の感想です。


さて、それでは最後の文章です。

だからこそ知るべきである。般若波羅蜜多とは、大いなる真言であり、大いなるさとりの智慧の真言であり、この上ない真言であり、比べるものがないほど素晴らしい真言なのである。よく一切の苦悩を除き、それは実在であり、虚ろなものではないのである。
だからこそ、般若波羅蜜多を讃える真言を、ここで説こう。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。

偉大なる智慧の完成についての心髄の経

ここは難しいことはないですね。般若波羅蜜多=偉大なる智慧の完成をめざし、真言を唱えて般若心経は終わりです。

まとめ

仏教について勉強中のため色々と間違っているところがあるかもしれませんが、理解できる範囲で般若心経や空の思想についてまとめました。

空の思想は難しすぎる、理解できるわけがない…なんて考えてしまいますが、般若心経は大乗仏教、つまり出家した人だけでなく多くの人を救うことを目的とした宗派の経典なんですよね。

つまり頑張れば一般人の私でも理解できないことはない、はずなので勉強をつづけていこうと思います。

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