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とりとめのないこと


_______僕は猛烈に20歳だった。




楽しかった4月はあっという間に過ぎ去り、気がつけば5月も終わりを迎えようとしている。思い返せば、慌しく、捲し立てるような4月の喧騒は、桜のように舞い散って行ってしまった。今となっては、生前に志村正彦が顔を歪ませながら何度も「桜のように舞い散ってしまうのならばやるせない」と唱えていた意味が分からなくもない。あれだけ来ることを拒んだ春を、過ぎ去ってしまえば名残惜しく感じてしまうのだから。大学生として迎える春は、あと一回きりになってしまった。大学に入ってからというもの、それまでとは比べ物にならないほど多くの人と出会い、そして別れて、を繰り返してきた。そして、それはどれひとつを取っても濃密で、かけがえのないもので..ということばかりではなく、勿論矢のように通り過ぎてしまった儚い出会いも、どれほど振り絞っても蘇らせることの出来ないなんとも味気のない出会いもあり、それらすべてを包摂した日々の記憶は僕を時に苦しめたり、時に温めてくれたものだ。

若さを失うことがどうしようもなく怖くなることがある。いや、正確には若さを失うということより、"モラトリアム"を失うということが、どうしようもなく怖くなり、何も手につかなくなり、暗い部屋で聴き慣れた音楽に縋ることしかできないほどに大きな恐怖の感情に圧され、支配され、打ちのめされる夜がある。目の前を途方もない闇が覆い尽くし、その暗闇が視界の何もかもを遮り、僕から感情をも奪い去ってしまう。いつ訪れるやも知れぬその時が、存在することは確かで、然れども実態を掴むことの出来ないその時が僕に襲いかかる。

時間は言うことに耳を傾けてくれない。時に美しくすべてを洗い流してくれるのに、時に残酷にも牙を剥く。 
若さゆえに何もかもを正当化し、許されている僕に、若さを失った後に何が残るというのだろう。

小山田壮平が衝動に任せ、自由や解放を歌った傑作を作り上げることが出来たのも、その若さというエネルギーを一身に纏い、その若さという幻想の中で、魔法をかけられていたからなのだ、きっと。彼はその魔法を失ってしまってからは、その幻想を追うかのように意欲的に曲を作り続けたが、ついに、その若さゆえに生み出されたケミストリーを超えることが出来なかった。ラストアルバム「宇宙の果てはこの目の前に」は思わず息を呑んでしまうような美しいメロディーラインに心酔してしまう、素晴らしい名作ではあるが、名作を作るという心意気が存分に感じられるものではあるが、やはり、どこか物足りない。人々が熱狂したあの憎たらしいほどの才能と世間への憎悪と若さを身に纏い、触れるものみな傷つけるように、マシンガンを振り回すかのように歌い狂い、和製リバティーンズと称された、奇跡のロックンロールを超えることは出来なかった。スーパーカーだって、ナンバーガールだって、きっとそうだ。彼らにもまた、魔法としての時間は多くは残されていなかった。ナカコーもジュンジも別々の道に進み、向井秀徳もZAZEN BOYZで今も地道に音楽活動を続けているが、そんなものだ。若さは感情や時間をも超越して、あらゆることを凌駕する。

30代も目前に差し掛かった、フジファブリックの志村正彦が自身の渾身の一作に"若者のすべて"という題詞を付けたのも、若さへの憧憬の念から来る感情や若さゆえの感受性への回顧的な意味もあったのだろう。そして、"若者のすべて"はそういった言葉に出来ないような、複雑に絡み合い、答えの出ないような、若さゆえの感情や美しさを1つの曲にすっぽりとまとめてしまった言わば曲としての完全体であった。

2018年の夏、塩塚モエカは呪文のように何度も「青春時代が終われば 私たち 生きてる意味がないわ」と言い続けた。才能のある彼ら、彼女らが若さというものを追い続け、それを定義化しようとし、芸術に昇華させようという姿勢を持ち続けるのはそれほどまでに若さというものが特別なものであるからに他ならない。サニーデイ・サービスも、銀杏BOYZも、羊文学も、その他多くの才能あるアーティスト達が"若者たち"と題した曲を作り続けることに、若さという極めて刹那的な一瞬の輝きを感じずにはいられないのだ。永遠や刹那を伴った曲が美しいように、若さを主題にした彼らの足跡や生き様は美しい。

僕はきっと、あと1年も経てば就活を始め、周りの企業の内定を勝ち得た友人の話や公務員試験のこと、自分の将来のことに夢中になり、こんな内容の文章を書いたことなどとうに忘れ去っているだろう。もしかしたら音楽なんて聴かなくなっているかもしれない。僕を悩ませ、苦しませ、そして喜ばせた感情の一切なんて覚えている筈はなくて、迫り来る日々と感情に精神と身体を擦り減らしているに違いない。限られた、許されたモラトリアムの中で僕は何を残すことができるというのか。僕は今、魔法の中にいるし、幻の中にいる。

友人と遠い異国の地で生死を分かつような状況を共にしたこと、香辛料と動植物の腐敗したような臭いの入り混じる路地裏で煙草をふかしたこと、夜のネオンを眺めながら朝を待ったこと、あの子とドキドキしながら手をつないだこと、夜が明けるまで本音で語り合ったこと、バンドを組んだこと、一緒になって音楽を聴いたこと、やるせない思いをのみ込んだこと、憎み合ったこと、仲直りをしたこと、許したこと、許せなかったこと、時間が解決したこと、恋したこと、泣いたこと、笑ったこと、書ききれないことなんて山のようにあるけど、どうせきっとすべて忘れてしまうんだろうね。


あの日、刹那的に出会った僕らは、長い時間を積み重ねて、いつの日か大切に育てた日々に別れを告げ、来るものと知っていた筈の別れに涙をして、手を振って離れ離れになる。毎日のように顔を合わせ、同じ時を共にした僕らは遠く距離を隔てる。僕達の前には、未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、どうしようもなく、横たわっているんだ、きっと。  

いつかどうしようもなく大人になってしまったとき、過去を懐かしんでは、先に見送ってしまった友人やかけがえのない筈であった時間に思いを馳せているのだろうか。思い返しては先行きのわからない将来に絶望しているのだろうか、もしかしたら、先に見送られるのは僕かもしれない。別に酔っ払っていやしないし、なんだかまとまりのない文章になってしまったし、なんでこんな文章を書いているのかも分からない。でも、この感情の昂りを文章に起こさずにはいられなかった。恐らく、人間は何百万年という途方もない長い旅を経て、本能的に素晴らしい日々が永遠でないことも、長く歩みを共にした人々にも別れが来ること身を持って知っているのだろう。

この文章に出てくるすべての君へ、いつも側にいてくれる人達へ、僕という物語に登場するすべての人々へ、好きな人も大嫌いな人だっているけどれど。ありきたりな言葉だけど、別段優れた言い回しの言葉ではないけど、語彙力のない僕が振り絞ったすべての感情を込めた言葉を送らせて欲しい、「ありがとう」。


とりとめのないこと。




拝啓 今まで出逢えた人達へ 刹那的な生き方 眩しさなど 求めていないから 浅くていいから
息をし続けてくれないか

拝啓/teto



ぼくらはと言えば遠くを眺めてた
陽だまりに座り 若さをもてあそび
ずっと泣いてた
ずっと泣いてた

サニーデイ・サービス/若者たち




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